先輩たちの怒鳴り声が聞こえる。
いや、あれは嘲笑う声なのだろうか。

一年生の自分。まだ一年生の、小さい自分。
「・・・オラ、なにトロトロやってんだよ」
「何だよ、そんな球も取れないのか? そんなんでよく練習に混ぜてくださいなんて言えたもんだよなぁ」
「なんだよその目は、文句あるなら言ってみろよ、ははは」
取り囲むようにして、自分よりもはるか背の高い先輩たちは嘲笑う。

テニスの名門の青学。あの強者にのみ与えられる青いレギュラージャージに、どれほど憧れたことか。
しかし、あのジャージを着る資格を持たない者は。崇高なレギュラーたちとのやりきれない力の差に妬んで、あのジャージを着ることの許されない先輩たちは、後輩をいじめて喜んでいるのだ。

なんとさもしく、みじめな行為。
己が情けなくなるだけだということに、気がつかないのだろうか。そして、ただ生まれたのが一年遅いというだけで、従わなければならない自分のみじめさは。
蔑むような、哀れむような自分の目に気がついたのか、先輩たちはさらに激昂した。
そして、遠く遠く、木の生い茂る山のまだ奥へ、いくつものボールを飛ばした。
その数、十個は飛んだだろう。
嘲笑う声が、自分を取り囲む。
「ほら、さっさと探して来いよ」
「新入部員の仕事だ」
「全部見つけるまで、帰ってくるんじゃねえぞ」


そんな、あんなに遠くに飛ばしておいて。

ただ、自分をいじめるそのためだけに。

「全部見つけて来いよ。見つけるまで、帰ってくるんじゃねえぞ」
下卑た笑い声が、コート場に渦巻く。

なんと、みじめな人たち。そして、従うしかないみじめな自分。

山の奥まで分け入って、一つ、また一つと探し続ける。
日が暮れても、夜が更けても。
先輩たちが、とうに探し続けている自分のことなど忘れてしまっても。

一個。二個。三個。次々とボールは見つかった。
それなのに、どうして。
あと一個だけが、見つからない。

探さなきゃ。一つ残らず見つけて、堂々と帰るのだ。
あの先輩たちに言われたからじゃない。これは自分の意地なのだ。

自分が泣いてへこたれたら、あの人を困らせてしまうだけ。

優しいあの人を。自分に唯一優しくしてくれた、選ばれた者の青いジャージがとてもよく似合っていたあの人を。

あと一個。あと一個だけ。

それを見つければ、きっとあの人は褒めてくれることだろう。
いつもの厳しい顔を、少しだけ緩めて。

よく頑張ったな、カヅキ。そう、褒めてくれることだろう。






月夜夢幻 〜第九話

「・・・それで、どうだ。桃」
シャープペンの先をトントンと額に当てながら、乾が桃城を見すえる。
「ダメッス。思い出せません」
「あ〜っ!!もう、桃の役立たずっ!!」
散々じらされて切れた英二の絶叫が部屋中に響き渡る。対峙していた乾も、がっくりと肩を落とした。
「英二先輩、そんなこと言ったって・・・」
「なんでだよ、乾が言ってんのは“あの怪談話を、誰から聞いたのか”ってことだけじゃん。話の内容は覚えてるのに、誰から聞いたか思い出せないなんてそんなのアリ?」
「そう言われても・・・」
身を縮ませる桃に、少し離れた場所で越前が呆れたように息をつく。

「要するに、桃先輩のエセ怪談話は事実の可能性が高いわけでしょ?」
越前の言に、乾が頷く。
「俺も信じがたいが・・・たしかに越前の話と類似点が多いからな。桃の話に出てきた“失くしたボールを捜しに行って、帰ってこなかった一年生”というのが、そのいわゆる・・・」
「幽霊、かもしれないって?」
菊丸が後を引き継いだ。乾と比べ、彼は割りとこの状況をすんなり受け入れたらしい。勿論乾としても手塚がこの状況なのだから、何とか打破しようと必死になっているのだが。
「話の出所を掴んだら詳しい事情が分かるかもしれないと思ったんだが・・・肝心の桃がこれじゃあな」
「・・・まったく」
「おい越前、何だよその声は! 俺だって思い出せないのが不思議なんだよ。なんか頭に靄がかかてるみてぇで・・・」
桃城が頭をガリガリと掻く。彼も、思い出せないのが歯がゆいらしい。
「もやがかかってる?」
「ああ、何でだろうな。二年になる前にはもう話を知ってたと思うんだけどよ。俺に話してくれたのは、確か青学の人じゃなかった気がするんスけど・・・それ以上は」
「青学の人間じゃない?!」
乾が、驚いたように大きな声を出した。
「何で青学の人間じゃない奴が、青学の怪談話をお前に語って聞かせるんだ」
「いや、それが俺にもサッパリで」

越前はため息をつくと、ちらりと部屋の奥に眼をやる。

眠ったままの部長の布団を囲んでは、大石と不二がかいがいしく世話をしてやっていた。

「おチビー、手塚のほうはどう。何か言ってる?」
菊丸が飛びついてきたので、越前も声に出して問う。
「部長、なんか言うことあります?」

―― いや、特にない。

自分にだけ聞こえる声が、また聞こえた。手塚の体は相変わらず眠ったままなのだが。

「特にないらしいです」
「ふーん、そっかあ」
「まぁ、元から無口な人っスから」

―― 越前。

「はいはい、すいません」

側から見れば越前一人が喋っている奇異な光景なのだが、周りの連中はどうやらそれにも大分順応してきたらしい。

「手塚、どこか具合悪いところはあるか?」
大石が、眠ったままの手塚に問いかける。

―― いや、大丈夫だ。すまないな大石。

「大丈夫だそうです、大石先輩。部長がありがとうって」

こうやって、越前が通訳の役割をしている。


「桃城、どんな小さなことでもいいから思い出せ。頼むから」
乾も困っていた。敵の正体が不明な以上、どんな些細な情報でも欲しいのだろう。ただでさえ得体の知れない、越前や海堂といった“視える”者を除いては、まるで未知の相手なのだから。
桃城も何度も頭を掻き、虚空を見つめては唸っている。

「あ」
唐突に、間の抜けた桃の声がして越前は振り向いた。
「そういえば、たしか・・・」
「どうした、桃」
乾と英二が、揃って身を乗り出す。
「声が・・・俺に話してくれたその人の声が、なんか・・・」

柔らかかった。

「そうだ、ちょうど不二先輩見たいなトーンで・・・」
「ボク?」
手塚の枕元に座っていた不二が、こちらを見返す?
「そう、そんな感じの・・・思い出した! あれは女だっ!」
桃城が立ち上がって、手を握る。

「あれはたしか、女の人でした。俺にその話をしたのは、若い女の人だった」
「おんなぁ〜っ?!」

何だそれは、と乾と菊丸の叫び声が響いた。







夜もふけて。
また真っ暗い空に、月が高く上がる頃。

「ふわ・・・」
リョーマはあくびをしながら、窓の外を見ていた。

まったく、昨夜は大変な一日だった。
今日だってあの通り、一日部活にならなかったし。足まで怪我させられて。
「あれ部長、帰るのいつでしたっけ?」
眠っている手塚のほうを向いて、問う。

―― 明日一晩泊まって、明後日の朝に帰る予定だった。

「そっスか・・・」
と、いうことはだ。
明日の晩、遅くてもあさっての朝までには、決着をつけなければいけない。
あの幽霊はおそらく、かつてこの地で死んだ青学の一年生。この場所を離れては、彼によって眠らされているであろう手塚の目が覚めるという確証がもてない。

「・・・ちっとも練習できなかったし」
越前はつまらなそうに独りごちた。おそらく明日一日も、練習どころではないだろう。
『カヅキ』は、今のところ気配を感じなかった。
今日は越前を痛めつけて気が済んだのか。

―― いや、彼の目的は『最後の一個』を探すことだ。また動きがあるだろう。

「・・・部長、心を読まないでください」

―― お前だって俺の考えが分かるだろうが。

「そりゃそうっスけど・・・」

越前はふうと息をつく。
どうやら声に出さずとも手塚とは会話できるようだ。かといってテレパシーみたいで気持ち悪いからやはり声に出してしまうのだけど。
「部長も、カヅキの気配とか分かります?」

―― ああ。お前や海堂と違って、霊感などないと思っていたんだが。

「そりゃ仕方ないっスよ。いったん接触して目覚めちゃったんスよ、多分ね」

―― あまり嬉しいことではないな。

「そうっスよ。視えないほうがいいに決まってます、こんなの」

―― 越前・・・。

どことなく自嘲気味に吐き捨てられたリョーマの言葉に、心配そうな気配を含んだ手塚の声が返ってくる。
(後輩思いでよいことで)
彼が無口なタチで良かった。色々と話しかけてくるような相手なら、うっとおしくて敵わなかっただろう。自分だってもともと口数の多いタイプでもなければ、人好きのするタイプでもない。

ほら今だって。自分が答えなければ無理に尋ねてくることはない。
自分の思考を振り払うように、越前は言い放った。

「明日の夜――合宿最後の夜までには、いやでも向こうから接触してくるでしょ」

そのために手塚を捕まえたのだから。

「見つけるまで、帰さないってわけ?」
今はどこに隠れているのやら。
越前はどこにいるかも分からない敵に、一人吐き捨てた。

畳をカリカリと爪で引っかく。何となく、今家にいるであろう愛猫の顔が目に浮かんだ。




「あれ、越前?」

不意に、涼やかな声が耳に入ってくる。
「不二先輩」
戸口に、彼が立っていた。風呂上りなのか濡れた髪をタオルで拭きながら。
「みんなはどうしたの? 越前と手塚だけ?」
動けない手塚もきっちり数に入れている辺りが、さすがというか。
「不二先輩みたく風呂・・・あとは食堂で残り物あさってるか、好奇心旺盛にその辺歩き回ってるか。もしくは星を見ながら青春してるかっスね」
越前はつまらなそうに返した。
不二はそう、と微笑みながら歩いてきて、手塚の布団のそばに腰を降ろした。間違っても桃城のようにあーあ〜などと言いながらどんっ!と乱暴に座ることはない。体育会系らしくもない、女性のようなたおやかな仕草で、落ち着いた顔でその場に座る。
手塚が眠らされてから、何となくその場所が彼の定位置になっていた。

彼は振り返り、眠っている手塚を、いとおしそうに見つめる。
白く細いその手でさらりと手塚の髪に指を通す、その仕草があまりに自然で、越前はつまらなそうに眉をひそめた。

「ああ・・・ごめんね?」
「イエ・・・」

面白くない。越前は憮然として、そんな不二から目を逸らした。

「ねえ越前」
「なんスか」

しかし不二は、くすくす笑いとともに越前に話しかけてくる。反射的に返事はしたものの、この先輩が口を開くとろくなことを言わないような気がして越前は顔をしかめた。

「そんな顔しないでよ。・・・取って食ったりしないよ?」
そうでしょうとも。
部長の前ではこの人は、とっても可愛らしいのだろうから。
まったく部長も、どんな趣味をしているのやら。

―― 悪かったな。

「いちいち独り言に反応しないでください」
「あれ、今手塚ってば何か言ったの?」
感づかれた。まったく、目ざといというか耳ざといというか。
不二はくすくす笑って、眠ったままの手塚の顔に触れている。
「手塚・・・どうせボクのことでしょ。何言ったのさ」
くすくす笑って。楽しそうに。
見つめている越前の視線に気付いたのか、不二はくるりと振り返った。
ふんわりと微笑まれる。
こんな――今にも消え入りそうな、儚い笑い方をする人だっただろうかと、越前は見返した。
「越前・・・ちょっと話さない?」
越前は観念して、両手を上げる。
四つん這いになって、手塚の布団のところまで歩いていった。

手塚の顔が見えるくらい近くに行って、不二と向かい合う。

「ねぇ越前、今手塚何か言ってる?」
こちらを見て、そう問われる。
それは、手塚に対して何か言えという意味にもなるのだが。

―― 不二・・・。

手塚の、言葉に出来ない感情の詰まった、間があった。
「心配をかけてすまない、だそうです」
「もう、そんなこと気にしてる場合じゃないのに。今はどうやってこの状況を打破するか、だよね」
なんだ、そういう話か。
越前は内心息をつく。
「またカヅキは接触してくると思います」
「それで何とか説得するか、お坊さんか誰か呼んでくるか」
面白がるように、不二は笑った。
「話は通じそうにありませんよ。明後日の朝には帰るんだから、向こうも今焦ってると思います」
「じゃあ、今大人しいのは充電してるのかな」
「そうでしょうね」
迷惑なことだ。しかし、今晩ぐらいは安眠して明日に備えたいという気持ちもあるが。

「手塚」

越前ははっとする。
それは、自分にではなく、手塚自身に呼びかけたものだった。

不二はリョーマを見ず、横たわった手塚の顔をじっと見つめている。

「手塚」

―― 不二。

腹立たしくも、リョーマにはそれに応える部長の声まで聞こえた。

お互いの名前を呼ぶ、ただそれだけの。
それだけに、万感の思いがこもっている。


きっと助けてあげる。
そんな不二の言葉が、聞こえたような気がした。


「・・・ああ、ごめんね。越前」
嫌味なその人は、自分のほうに向き直って微笑んだ。言葉なんか通じなくても、関係ないのだと言わんばかりに。
越前はフンと鼻白む。
「別に。何謝ってんのか、分かりませんよ」

不二はまた、おかしそうに笑った。
今度は、いつもの彼らしい笑い方だった。




その頃。食堂では、ある決心をした乾が大石たちと対峙していた。

「乾・・・本気か」
「ああ」

乾はいつもの飄々とした顔で、片手で眼鏡をひょいと上げる。

「明日の朝にでも、俺は海堂とここを出る」








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