月夜夢幻 〜第八話 「桃先輩、降ろして」 「お、おいっ」 リョーマは無理矢理に桃の背中から飛び降りる。右足をくじいたことを忘れていたために落ちるような格好になり、慌てて桃城がその体を支えようとした。 「・・・・・・っ」 瞬間足首に激痛が走ったが、構わずリョーマは周囲から伸びる手を振り切って部屋の中央まで這っていった。 (顔見ないと、話しづらいんだよ・・・) ギシ、と畳が軋む。四つんばいになって、手塚の寝ている布団までやってくる。驚いたように、枕元に座っていた不二が少し体を脇によけた。 手塚の脇まで来ると、リョーマはふうっと息をついて座りなおす。やれやれと首をふると、眠ったままの手塚を挑戦的に見つめた。 「やっぱりアンタも、アイツにやられたんだ」 ―― アイツ・・・? 「あの、幽霊です」 手塚の瞳は閉じられ、横たわった体はピクリとも動かない。誰が外してやったのか、いつもかけている眼鏡が頭の上に置かれていた。 端から見れば、たいへん行儀よく眠っているようにしか見えないだろう。事実そうなのだ。しかし、越前にだけは確かに彼の声が届いた。 ―― ・・・やはり、幽霊なのか、あの子供は。 普段と寸分たがわぬ、手塚部長の声だ。 「あれで生きてるわけないでしょ。透けるわ消えるわ、れっきとしたghostっすよ」 あんたに子供って言われるのはちょっとムカつく、なんて思いながら、越前は仏頂面で答える。子供といっても自分と同じくらいだ。 「お、おチビ・・・?」 菊丸が怖々といったふうに越前の顔を覗き込んできたが、越前はきれいに無視した。手塚の声が聞こえない他の連中からすればさぞかし奇異な光景なのだが、今はそんなことに構ってはいられない。 「昨日の夜、大石副部長とブレーカーを見に行ったときに、襲われたんスね?」 ―― 襲われたというほど物騒なものでもなかったな。大石の姿が消えて、気がつくと隣にあの子供が立っていた。そのまま意識を失ったようだ。 手塚の声はいたっていつも通りで、部活中に命令を下す威厳のあるあの調子とまったく変わらなかった。 「それで、今この状態すか」 ―― いや、その前に。 「?」 何か考え込んでいるような気配がする。声しか聞こえないのに、そんなことまで分かるのが自分でも不思議だ。自分の頭の中か耳の中に、小さい手塚が入っているような気さえする。 「どうしたんスか」 ―― 夢を見た。あの子供が出てきた気がする。 「あ・・・」 そうだ、自分も見た。桃城に発見される前に。 ―― たしか月が出ていたな。廊下を歩いていて、そこに大きな窓があった。 「そう、俺もっスよ」 ―― そして、気がつくとこの有様だった。看病してくれていた不二に声をかけようとしたんだが、体がまったく動かないことに気付いた。どうやら意識だけがはっきりしているようだ。 「・・・ふーん、なるほどね」 リョーマはあの少年の白い霊を思い浮かべた。――やってくれる。 ―― 心の中で不二を何度も呼んだんだが、聞こえていないようだったからな。全員の名前を順番に呼んでみたがやはり誰一人として気付かなくて、最後にお前の名前を呼ぶと反応があった。 「俺、最後っスか」 越前は首をすくめてため息をついた。大体の状況は分かった。 しかしそれにしても厄介なことになったものだと思う。自分ひとりが攻撃の対象にされたのならまだしも、このまま置いていても手塚部長の目は覚めないだろう。 それならば。 「え、越前・・・」 「おチビが、おかしくなってる・・・」 恐怖を顔面に貼り付けて、黄金ペアが自分を見ている。 ―― ・・・そろそろ、説明してくれるか。 手塚が少し困ったように言った。 「・・・そっスね」 越前は腰を落ち着けると、事のいきさつを全員に語った。その間桃城はかいがいしくリョーマの右足に湿布を当て、包帯を巻いてやっている。 自分がこのペンションで少年の幽霊と接触したこと、そしてここで眠っている手塚の声が自分にだけは聞こえること。 いつのまにか手塚の布団を囲むように集まったメンバーは、どこか呆然とリョーマの言葉を聞いていた。 「このペンションには幽霊がいます。子供の幽霊。昨日の夜は散々ポルターガイストめいたことがあったんで、信用してもらえるでしょうけど」 大石と菊丸が、顔を見合わせる。 「部長を眠らせてるのもそいつっス。何か目的があるみたいで」 俺の足もやってくれたし、と小さく吐き捨てる。 ちらりと見回すと、全員が、信じられないというふうにこちらを見ていた。 「たしかに・・・」 重い沈黙が流れる中、乾が口を開く。 「昨夜妙なことがあったのは事実だ。こうして手塚も倒れたきり目を覚まさないから、俺たちもこれは只事じゃない、合宿の中断も考えてる。・・・しかし、今おまえに聞かされた話はあまりに突飛過ぎる」 話――幽霊がどう、手塚の声がどう、という話か。 乾に追従するように、大石も頷いた。 「・・・越前たちが部屋に来るまで、このまま手塚が起きないなら救急車を呼ぼうという話をしてたところだったんだ。越前の話を信じる信じないは別にして、とりあえず病院へ・・・」 「病院へ行ってどうこうなる問題じゃないっすよ、大石先輩」 越前は不適に言い放つ。 「ねぇ、部長?」 ―― そのようだな、特に体の具合が悪いわけでもないのだから。 「モトを断たなきゃ、部長の目は覚めないっスよ」 リョーマは全員の顔を見渡した。 誰もが目の前の越前と、眠っている手塚を交互に見ている。どうしていいのか判断がつかないようだった。 はぁ、と息をつく。 越前にしても、信じられないのが当然だとは思うのだ。自分だっていきなりこんな話をされたら笑い飛ばすどころか、冷ややかな一瞥でもくれてやっただろう。 しかしそうはいかない。自分にはあの幽霊の姿が見えたし、こうして手塚部長の声も聞こえているのだから。 自分たちはすでに逃げられないところにいることを、分かってもらわなければ。 越前はふと、その中の一人に目を留めた。 一人だけこちらに背を向けて、耳だけこちらに集中させているような。 「・・・海堂先輩」 その背中が、ビクッと震えた。 越前はニヤッと眼を細めて笑った。その顔をこちらに向かせようと、全員の前であのことを言い放つ。 「幽霊が見えてるのは俺だけじゃない。・・・ねぇ、海堂先輩?」 全員の視線がザッと海堂に向かう。海堂は体をすくませると、フシューと息を吐いた。 観念したようだった。 「ね?」 「・・・俺は、部長の声は聞こえねぇ」 海堂はゆっくりとこちらに体を向け、渋々というふうに口を開いた。 「部長、海堂先輩にもちゃんと話しかけました?」 ―― ああ、全員呼んだと言ったろう。海堂も聞こえていないようだ。 これまたはっきりした返事が返ってきた。部長はとってもお元気なようだ。 「・・・って言ってます。声が聞こえるのは本気で俺だけみたいっすね」 乾が信じられないというふうに眼鏡を指で押し上げた。もっとも、海堂の言が効いているのだろう、先ほどよりは遥かに信じる気になっているようだった。 「・・・たしかに、変なことはいっぱいあったよね、本当に幽霊がいんのかな・・・」 菊丸が、怯えたような声を出した。彼なりに何か感じているのか、恐ろしげに辺りを見回している。 越前は、宣言するようにキッパリと言い放った。 「あの幽霊を何とかしないことには、部長の目は覚めません。―― あいつ、『カヅキ』を」 「ね、部長?」 ―― ああ。 「ちょっと待って」 全員の目が、越前の背後に集まった。 それに気付き、越前も振り返ってその声の主を見つめる。 「不二先輩・・・」 手塚の枕元にひとり座っていた不二が、初めて口を開いた。 「不二・・・」 英二が気遣わしげな声を出す。それには応えず、不二は越前に真剣な瞳を向けた。 「・・・越前、キミには手塚の声が聞こえてる、そう言ったね?」 「そうっス」 「頭がおかしくなったんじゃなくて?」 「気は確かっス」 「・・・分かった」 不二はうん、と頷くと、ぱっと顔を上げる。 「なら少し試させてくれるかな、本当に手塚の声が聞こえてると」 二人の仲を知る英二が、大石が、心配そうに不二の顔を伺い見ていた。しかし存外に不二はしっかりした態度で、いつものように余裕の笑みで微笑んでいる。 「これから質問をさせてもらう。ボクと手塚しか知らないことを聞くから」 「そ、そうか!」 それは何よりの証明になる、と大石がリョーマの背後で相づちを打った。 「いいっスよ?」 「じゃ、いくよ ―― ボクと手塚の、初えっちの場所は?」 ガタッ。ドテンッ。 何人かがずっこけた。 ―― ・・・不二。 「・・・不二先輩。部長、答えるの嫌そうですけど」 「うん、そうだろうね。でもそれじゃ証明にならないからね」 不二はニコニコ笑っている。 ひょっとしたら、一番この事態に順応しているのはこの人なのかもしれない。 リョーマはため息をついて、眠っている手塚のほうを見た。別に顔を見なくたって構わないのだが、虚空に向かって話しかけるのも妙な気がして。 「ぶーちょー。意地でも言わす気みたいっスよ」 ―― ・・・・・・。 長い沈黙があった。かなり迷っているらしい。 しかし、やがてぽつりと一言。越前がハァとため息をついた。 「・・・体育用具室、だそうです」 「えっ」 「マジで?!」 不二はにっこりと笑った。 「うん、正解だね。お見事」 「うそぉ?!」 「って正解かよ!?」 乾がこそこそとノートに書き付けている。リョーマが横目で見ると、海堂は大ショックを受けたようで耳をふさいで縮こまっていた。 「それじゃ、ラストクエスチョン」 不二は人差し指をピッと立てた。 「今、手塚が思ってることを教えて?」 不二の顔は、もう笑ってはいなかった。真剣な目で、けれどどこか悲しそうな色をたたえて、不二は越前に問いかけた。 全員の視線が集まって、越前はその大きな瞳をスッと細めた。 「・・・『心配をかけて、すまない』・・・だそうです」 「そう・・・」 フッと不二の表情が緩んだ。 「―― 分かった。越前のことを信じよう」 沈黙を破ってそう言ったのは、意外にも乾だった。 「い、乾っ?!」 英二が驚いて声を上げた。乾はというと、ノートを置いて降参というふうに両手を挙げている。 「越前だけじゃない、海堂もこう言ってることだし。信じないわけにはいかないよ」 乾は苦笑していたが、不意に真面目な顔に戻る。 「それに、ここで妙なことが起こっているのは事実だ」 昼間自分が見たことを、乾はゆっくりと話し始めた。 「なにっ?! 電話線が切られてた?!」 「ああ、廊下にあった公衆電話だ。通じないものだから見てみたら、もうバッサリ。しかもその切り口は新しかったんだ」 淡々と告げられて、めっぽう焦ったのは大石だ。 「ちょっと、待ってくれ!俺は昨日、昨日の夜に・・・」 ―― ふむ・・・。 手塚が何か考え込んでいるようだ。 『・・・大石、どうだった』 『駄目だ。携帯に電話したけど、つながらなかった。ほんとどうしたんだろうな・・・』 『竜崎先生に?』 昨夜の会話を思い起こす。 ―― 大石は昨夜、竜崎先生に電話するのに廊下の電話を使ったんじゃないのか? 「・・・って、部長が言ってますけど」 「そう、そうなんだよ!」 大石が同調する。 「ここは携帯が圏外なんだ。だから廊下の電話を使わせてもらって・・・竜崎先生には繋がらなかったが、昨日は確かにかかったぞ?」 「そう、そこなんだ」 乾が深刻な面持ちで頷いた。中指で眼鏡をスッと上げる。 「俺も昨日大石が電話を使ったことは知ってる。それが今日になって電話線が切れてるということは、昨夜から今日の昼間にかけて誰かが忍び込んだということになる」 「もしくは・・・その、越前の言う」 「『カヅキ』の仕業・・・っスね」 全員が押し黙った。 「・・・そして、加えて言うなら」 乾にみんなの視線が集まる。 「携帯は圏外、電話線は切られてる。・・・つまり、外と連絡をとる手段は絶たれたってことだね」 不二が、不適な笑みを浮かべて言った。 「・・・意地でも俺らを帰したくないみたいっスね」 越前も笑う。 その目は、コートに立つときの彼の目よりも残虐な、鈍い光を放っていた。 獲物を狙う豹のごとく。 「戦うしかなさそうっスよ」 『あと一個が、見つからないんだ』 あの、“カヅキ”の、言っていた言葉を思い出す。 「もう一つ、はっきりしておかなきゃいけないことがあるんスよ」 「ね、桃先輩?」 「は、俺?」 「桃先輩、もう一度、昨日言ってた怪談モドキを教えてくれません?」 失くしたボールを捜しに、外へ出て行った一年生。 コートの外に出たボールの、その数は十個。 九個までは見つかったのに、残りの一個が見つからない。 ボールを捜して、どこまで行ったか。 先輩たちが悔やんだときには、もう遅かった。 変わり果てた姿で今も、捜しているのはあと一個のボール。 一個、二個、三個・・・ 七個、八個、九個・・・ あと一個が、見つからない。 ←back++ *index* ++next→ |