月の光が冷たいのは、他によって輝く無機の光だからであろう。 月の光が優しいのは、胸の闇を暴くことなく、ただ照らし出してくれるからであろう。 月夜夢幻 〜第十話 合宿の二日目の夜は、不気味なほどの静けさのまま更けていった。嵐の前兆とも言える静けさの中で、決意をしたものが二人。 そして、三日目の朝が明ける。 その日は、しとしとと雨が降っていた。 ペンションの玄関口に、傘をさして荷物を背負った乾と海堂が並ぶ。 見送るために大石と菊丸が、そして桃城に背負われたリョーマが濡れないように屋根の下に立っていた。 「乾、海堂・・・気をつけてな」 「ああ。大石、こっちのことは頼むぞ」 「何か分かったら、すぐに知らせに戻ってきます」 俺はそのための伝令役っスから、と海堂は小さな声でつぶやいた。ああ、と大石や菊丸が頷いて答える。 昨夜、突然出て行くと言い出した乾の言い分はこうだった。 こんな状況で外界との連絡がつかないのはあまりに不安だ、と。そして何より、情報が少なすぎる。敵の正体も分からぬまま戦うのは、乾の最も忌避するところだ。 「カヅキの正体を調べたい」 乾は、そう切り出した。 「桃城の聞いたという怪談話が、記録に残る事実なのか。昔合宿で本当に人死にが出たのか。坊さんとか霊媒師とか呼ぶならそれでもいい。なんにせよ」 「山を下りる。せめて電話のの繋がるところに拠点を置く。そこで、俺なりに調べてみる」 本当は全員でここを出ても良かった。それが出来なかったのは、眠ったままの手塚の体が石のように重くなって動かせなかったからだ。 『抵抗してるんスよ』 越前は事も無げに言い放った。 『部長を、ここから出さない気だ』 「坊さんとか霊媒師とかを呼ぶならそれでもいい。なんにせよ、ここにいては誰かと連絡を取ることも、助けを呼ぶ事も出来ない。このままここでくすぶっている訳にはいかない」 自分の出来る事をする、と乾は言ったのだ。 「・・・でも、なんで海堂を連れてくの?」 疑問符を浮かべる菊丸に、乾はちっちっと指を立てる。 「さっきも言っただろう?ここは携帯も電話も通じないんだから、伝令係だよ。海堂の脚なら確かだろ」 「・・・気をつけてな、海堂」 「ウス」 ―― 乾、海堂。雨の降っている中で山道を歩くのは本当に注意が必要だ。来るときにも見ているだろうが、途中には沢も林もある。足を滑らせたりしないよう慎重に行くんだぞ。 「・・・先輩方、部長がなんか色々気をつけろって」 ―― こら、越前。勝手に略するな。 苦虫を噛み潰したような、手塚の声がリョーマの頭の中に直接響いてくる。 「はいはい」 「・・・すごいな、これだけ距離があっても手塚の声が聞こえるのか」 乾が感嘆するような声を出す。 手塚の体は、ずっと変わらず皆の寝泊りしていた大部屋に寝かされている。見送りの段になってみんな玄関まで出てきたが、やはり部屋に一人にしておくのは忍びないと今は不二が一人で傍についていた。 「手塚の寝てる部屋から玄関なんか見れないだろうに。越前が伝えたの?」 「・・・というより、心で思ってることが勝手に伝わるって感じっス。耳はちゃんと聞こえてるみたいだけど、俺の考えてることは言わなくても通じてるみたいで」 だから距離はあんま関係ないみたいだ、と言うと、乾はあはは、と少し弱々しく笑った。 「まるでテレパシーだな」 「データでも取る? 乾先輩」 「機会があったらね」 このおよそ非現実的な現状に、それでも気丈に振舞う乾にリョーマは密かに感心した。 「先輩の足引っ張るなよ、マムシ」 「・・・うるせぇ」 桃城の声に、海堂はぎらりと視線を投げる。その先は桃城ではない、彼に背負われた越前だ。 右足にぐるぐると巻かれた白い包帯に顔をしかめながら、海堂はぷいと向き直る。 「やっと部長も帰ってきたとこだってのに・・・これ以上怪我人増やされてたまるかよ」 決意の言葉を残して、二つのビニール傘は雨の降る中を進んでいった。 「・・・行っちゃったね」 「ああ」 玄関口に立ちながら、大石たちはしばらく小さくなっていく二人の背中を見送った。 「じゃ、俺らも行くか」 「んにゃ」 大石と菊丸は、唐突にそんなことを言い出した。どこへっすか、と目をむく桃城とリョーマを尻目に、素知らぬ顔で雨ガッパを取り出す。 「せ、先輩・・・?」 「俺らも、ここでただじっと待ってるわけにはいかない」 微笑みながら、大石が振り返る。そうそう、と菊丸が手を振った。ぽん、と桃城に背負われた越前の頭に手を置く。 「俺らはおチビや海堂みたいに霊感なんてにゃいからね。その分足使って出来ることをしなきゃ、って昨日の夜大石と話してたんだ」 何でもない顔をして雨ガッパを羽織る二人を、桃も越前も唖然と見返すしかできない。大石と菊丸はまるで試合の前のように、余裕の笑みを見せ付ける。 「“あと一個”ってやつ、俺らが探してみるよ」 いえー、とピースする菊丸に、越前はその大きな目をぱちくりと瞬かせた。 大石は変わらず優しい笑みで、菊丸の後を引き継いだ。 「じっとなんか、してらんないからな」 パンッ、とハイタッチの音が響き渡る。透明な雨ガッパを着て雨の中出て行こうとする彼らが、まるでコートの上に立っているような錯覚すら覚えた。 ―― 大石・・・。 越前の耳に手塚の声が届いたが、この状況に驚いているために通訳するのも忘れてしまっている。 「懐中電灯も持ったし、方位磁石も持った」 「タオルと救急セットもね」 「せ、先輩、ちょっと・・・!」 慌てて引きとめようとする桃城に、大石は笑って手を振った。 「心配するな。収穫がなかったらすぐ帰ってくるよ。危ない事はしない」 ファサッ、と付属の帽子を被ると、大石はくるくると手の中の懐中電灯を回して、きちんと明かりが点くかを確認した。 「桃城、越前を頼んだぞ。不二の事も大丈夫だと思うが、気をつけてやってくれ」 「は、はい・・・」 「越前」 不意に向けられた真剣な視線に、リョーマは桃城の背中の上から見返す。 「手塚を、頼んだぞ。手塚に何か危ないことがあったとき、察知できるのはお前だけだから」 「・・・っス」 その答えに満足したのか、副部長はにっこりと微笑むと、隣の菊丸を促した。 「じゃ、ちょっと行ってくるな」 「行ってくるかんね、戸締り火の元気をつけろよ?」 ばいばい、と背中越しに手を振って、大石と菊丸は乾たちとは違う方向で歩み出す。 口を挟む隙もなかった桃城と越前は、ただただ呆然と先輩たちの姿が小さくなっていくのを見送った。 「・・・何つーか」 「やられた、っスね・・・」 まったくだ、と桃城は肩を落としてため息をつく。 「うわ、ちょっ」 「あ、悪い」 バランスを崩してずり落ちそうになったリョーマを、慌てて桃城が背負いなおす。はぁ、とため息をついたリョーマに、聞きとがめて桃城が噛み付いた。 「お前が重いんだって」 「・・・違いますよ、ただ」 ん?と桃城が背中の越前を振り返る。 「・・・あの人たちって、バカみたいに前向きってゆーか」 ああ、と桃城が頷いた。 「ああいうとこは何つーか・・・俺らよりずっと図太いぜ、あの人たちは」 部長とかも含めてな、と桃城は頭をかく。 「俺、今まで霊の話してまともに取り合ってもらったことなんかなかったっスよ」 「ああ、だろうな。ぶっちゃけ俺も半信半疑だ」 「嘘、信じてるじゃないスか」 桃先輩も、大石先輩も菊丸先輩も、あの乾先輩ですら。自分の話を信じてこうして行動している。越前にはそれが意外だった。 自分の目で見たものしか信じない、リアリスト揃いだと思っていたのに。 「そりゃお前、あれだ。霊を信じるようになったとかじゃなくて」 「なんスか?」 「単に、お前のことを信用してるからだよ」 急に静かになった背中に、桃城はにやりと笑った。 「お前って都合悪い事は黙って誤魔化すクチだよな」 「・・・先輩だって」 「ああん?」 「気に病まなくていいのに。あの話誰から聞いたか思い出せないこと」 だからそんなにイラつかないでいいのに。 桃城は一瞬きょとんとして、それから黙ってリョーマを背負いなおした。 「桃先輩が暗いのって、気持ち悪いから」 「うるせー」 豪快に笑った後、桃城はじっと玄関に立ち、降り続く雨を見つめた。リョーマも背中の上で空を見つめる。 雨が。しとしとと降り続いている。 昼間なのに薄暗い空模様は、どうしようもなく嫌な気分をかきたてた。 ―― 不二、不二・・・。 横たわったままの手塚は、傍らに座る不二に声をかけた。しかしやはり聞こえている様子はなく、不二は黙々と濡れたタオルで手塚の体を拭いてやっている。 ―― やはり、聞こえないか。 自分の声は越前にしか聞こえない。無駄とは知りつつ、自分の傍らに寄り添っている不二に声をかけてみたが、やはり彼には届かないようだった。 指一本動かせない自分の体。ただ不二のなすがまま、着替えをされているのが申し訳ない。 しかし。手塚は思う。越前ではないが、こんな状況下でも取り乱さない連中の図太さに、改めて感心する。 「手塚。・・・きっと、助けてあげるから」 ―― 不二。 不意に聞こえた彼の独白に、手塚はようやく彼の強さを支えているのが他ならぬ自分自身なのだと気がついた。 『時間がないんだ』 突如、あの少年の声が思考を遮った。 ―― 不二。 「手塚?」 不二は横たわった手塚の顔を覗き込む。意識はあるのだろうが、彼の声は自分には聞こえない。不二は穏やかに、眠ったままの手塚の頬を撫でた。 今、心持ち手塚の顔が青ざめたような気がしたのだが。 しかしやはり不二には、手塚の声は聞こえなかった。 同じ頃、越前もあの少年の、カヅキの声を聞いていた。 「・・・・・・」 「お、おい、越前っ?」 突然背中で体を強張らたリョーマに、桃城が驚いて振り返った。ハァハァと荒い息が背中から聞こえる。わずかだが体を震わせていた。 「越前?!」 リョーマはそれには答えず、じっと唇をかみ締めた。 「・・・間に合わないかもね。大石先輩たちも、乾先輩たちも」 「えち、ぜん・・・?」 「大丈夫っスよ、ムシャぶるいって奴だから」 もうじき、アイツは動き出すだろう。 越前の目に、青白い感情が宿る。挑戦的な色が浮かぶ。 「やってやろうじゃん」 ■ □ ■ 次第に強くなる雨足の中、乾と海堂は黙々と山道を下っていた。 「・・・ぅわっ!!」 「海堂!」 ずるっと足を滑らせた海堂を、乾が慌てて傘を持っていないほうの腕で支える。 「大丈夫かい」 「・・・スンマセン」 「いや、本当によく滑るな。気をつけないと」 降り続く雨がうっとおしくて敵わない。 傘をさしている意味もないほどずぶ濡れた格好で、乾は自分たちが歩いてきた山道を振り返った。 ただでさえ狭い道に、たくさんの濡れた枝や葉っぱが落ちている。足場としては最悪だろう。 (ペンションから200メートルくらい離れたかな) この辺りでそろそろやるか、と乾はカバンから一本のピンクのリボンを取り出した。 「せ、先輩・・・?」 いきなりリボンを取り出した乾に、海堂はぎょっと後ずさる。 怖い想像をしてしまった海堂に気付いたのか、乾は違う違うと手を振った。 「目印だよ。何かあったとき、これを頼りにあいつらが追ってこれるように」 乾はそう言って笑うと、近くの木の枝にそれを結びつけた。 「夜でも大丈夫な蛍光ピンクだ。古典的だが、確実だろ?」 はい、と海堂は感心したように頷く。それが果たして乾の機転に対してか、こんな状況になることを予想していたわけでもないだろうに準備が良すぎる事に対してかは定かではないが。 「遭難したら大変だぞ? 海堂。海の場合は海上保安庁の管轄だから原則タダだが、山で遭難した場合山岳救助隊に支払う金額はかなりのものになる。更にヘリをチャーターしたら一時間でおよそ・・・」 「いえ、もういいっス」 海堂はため息をつくと、また歩き始めた。あまり役に立たない傘をバサッと閉じる。 「けど、どこまで行くんスか」 「とりあえず電話が通じて、出来れば電気もあるところだな。食事と寝床を準備してくれるところなら尚いいんだが」 「ありますか、そんなの・・・」 海堂は頭を押さえてため息をついた。 ガタイのいい男二人、このご時世に簡単に泊めてくれるところなど見つかるだろうか。 「大丈夫だよ、一つ心当たりがあってね」 「え?」 ザッザッと山道に足音が響く。 「ほら、見えてきた」 乾の指差す先に、ぽつんと一軒家が佇んでいた。 戸口にかかっていた表札には、「梼原 」。 ←back++ *index* ++next→ |