月夜夢幻 〜第七話

ざわり。

嫌な風が吹く。

『・・・カヅキ』
自信のなさそうな小さな声が、たしかに耳に届いた。

(ふーん、喋るんだコイツ)
白く透き通ったその姿が、彼がこの世の者ではないことを告げている。
自分と同じくらいの年頃の少年は、無感動なまなざしで越前に顔を向けたままだ。
「・・・いったい、何がしたいの」
意志の疎通が出来るかはまだわからない。しかし越前は臆せずに、まっすぐ少年を見返した。
「うちの部長に何したの、ぶっ倒れちゃったんだけど」
イライラした声音をぶつけると、「彼」のガラス玉のような虚ろな瞳が、越前に縫い付けられた。

『・・・君、レギュラーなの・・・?』

空虚な声だ。だが越前は驚いて、一瞬言葉を失った。
瞬時に考えを巡らせる。
(こいつ、青学のレギュラーウェアを知ってる・・・)

少年は、フッと瞳を伏せた。何かを思い出すように。

『すごいな・・・レギュラーなんだ・・・一年生なのに・・・』
越前はフンと鼻白んだ。
「で、何?」
相手が誰であっても、その態度にまったく臆したり恐れたりするところはない。
おどおどした口調が、何となく同じ一年のカチローを思い出させた。もっともカチローはこんなグズグズした喋り方はしない。何が言いたいのかよく分からない態度は、越前の大嫌いな部類に入る。
「何がしたいの?」
追い詰めるように強気で問いかけた。
今ごろのんきに夏休みを過ごしているであろう堀尾たちが少し羨ましくなった。何だってこんなことになったのか、内心ため息をつく。

すると、少年のほうに反応があった。
『後一個・・・後一個なのに・・・』
越前は眉をひそめた。

たしか、昨日の夜も、こいつはそんなことを言ってなかったか。

(待てよ・・・)
そこで越前は思い出した。

“後一個”
誰かが、そんな話をしていなかったか?

そうだ、誰かが言っていた。「後一個が足りない」
(見つからない)
(いち、にい、さん・・・なな、はち、きゅう)
(崖から落ちて)
(昔の合宿で、一年生が)

脳裏にあのツンツン頭の先輩の顔が浮かぶ。

「・・・あ!」
そのとき、それまで大人しかった少年の様子が一変した。
ざわり。
無表情だった顔に、気持ちの悪い醜悪な表情が張り付く。ズズズ・・・と地の底から引きずってくるような音が周囲に響いた。
くわっと開かれた目が、越前を睨みつける。

(うげ・・・)
マズい雰囲気だ。
越前は直感的に判断し、間合いを取った。
対する少年の幽霊は、明らかに先ほどと様子が違う。少年を覆っていた青白い光が、今はどろどろとした赤紫色に姿を変えて、オーラのように少年と越前を取り囲んだ。

『僕も・・・そのジャージに憧れてた。ずっと、見てた・・・』

ぎし。

少年が、越前に向かって一歩踏み出した。
ぶよぶよとした空気があたりに充満する。越前の背筋に冷たいものが流れる。
(――ヤバい)

すると突然、ゴォッと激しい風が吹き抜けた。
室内であるにもかかわらず、それはつむじ風となって、渦状に天井に向かって吹き上がる。
「・・・にゃろっ!」
激しい風に越前はとっさに目を閉じる。そのとき帽子が風に飛んだ。
「くそっ!」
持ち前の跳躍力で跳びあがり、伸ばした左手で何とかキャップを掴む。そして着地しようとした、その瞬間だった。

「な・・・っ!」
越前は信じられないものを見た。
床板が、ぐねぐねと波打っている。嘘だろ、そう思うより先に、足が呼び込まれるように浮き上がった床板と床板の間に吸い込まれる。

「わあ・・・っ!」
バキバキィッ!、と激しく音を立てて床板が割れる。越前の体は、まっ逆さまに落ちていった。








体が、浮遊している。

気がつくと、越前は広い廊下を歩いていた。
(――どこだ? ここ)
変な光景だった。廊下全体が青白く光っているのだ。
首をふって辺りを見回した。

すると、右手側に大きな窓があった。
大きな、半円型の窓。そこから月が覗いている。

(でっかい月・・・)
いつの間に夜になったんだろう。

ひた、ひた。
足音がした。前方から、誰かがやってくる。

月光に照らされて、その姿があらわになった。

「部長・・・?」
倒れて寝ているはずの、手塚だった。
声をかけようとして、越前は自分の足が動かないことに気付いた。
(さっきまで歩いてたのに、どうして)
そう思った瞬間、右足の感覚がなくなって、越前は床に倒れこんだ。

「部長?」

呼んでいるつもりなのに、部長は何も言わない。
床に寝そべった自分をじっと見つめている。

その手塚のすぐ後ろに、また人影が見えた。

―― アイツだ。
白い、少年の幽霊。
それは、ぼんやりとした足取りで、ゆっくりと手塚に近づいてくる。

―― 駄目だ 部長
声が出ない。手塚は後ろの存在に気がつかないのか、じっと自分を見下ろし続けている。

―― 逃げて 早く

その手塚に、背後からすうっと白い手が伸びた。

「逃げろ――っ!!」


そこで、不意に意識が浮上した。




「・・・ぜんっ、おい!越前!!」

急に飛び込んできた桃城の大声に、越前の体がびくりと震えた。
「あ・・・あれ」
くらくらする頭を抱えながら、自分が桃城の腕の中にいることに気がついた。
「も、も先輩・・・?」
額に汗を浮かべていた桃城は、心底ほっとした顔をした。
「何があったんだよ、お前。いきなり倒れてるから、ビックリして・・・本気で心配したんだぞ」
廊下の真ん中だった。
周りは薄暗い。もう夕方が近いらしい。

少年も、部長も消えている。

――さっきの光景は、夢だったのか?

「・・・桃先輩、ここ、どこ?」
「おいおい、覚えてねーのか?・・・あれ?」
桃城は、何かに気付いたように顔を上げた。
「・・・神棚があるな」
桃城の肩越しに、越前も見た。
ということは、自分はここからまったく動いていないことになる。床板も、どこにも割れた様子は見当たらない。

「しっかしよ、越前。何だってこんなトコで倒れてたんだ?」
「・・・・・・」
それには答えず、越前はふるふると頭を振った。

どこからが夢だったのだろう。
たしか、大きな窓があって、月が出ていて。
それから、部長が――。

「あ、おい越前!」
立ち上がろうとして、越前の膝がガクッとくずれた。慌てて桃城が脇から支える。
「お前、足どうしたんだよ!」
自分の足を見た。動かそうとすると、右の足首に激痛が走った。どうやら捻挫しているらしい。
「ぜんぶ夢だったわけじゃない、ってこと・・・」
「越前?」
フンと嘲笑った、そのとき。


―― 越前。

不意に、自分を呼ぶ声が聞こえた。

―― 越前、聞こえるか。

諭すような、言い聞かせるような響き。実年齢には不相応な独特の重みを持つ、あの声。
「部長・・・?」
周りを見回した。しかし、手塚の姿は見当たらない。
「おい、どうしたんだよ越前」
「桃先輩、聞こえなかったんスか今の―― 」

―― 越前、お前には聞こえているんだな。

今度は、はっきりと聞こえた。たしかに部長の声だ。
「部長、どこにいるんスか」

―― 俺たちが泊まっている、あの大部屋だ。

「桃先輩、連れてって!」
「へ?」
手塚の声が聞こえていないらしい桃城を遮って、越前は叫ぶ。
「俺、足動かないから!早く、部屋!」
「お、おう・・・」
腑に落ちない顔をしていたが、桃城は越前の小さな体を肩に担いだ。
「しっかり俺につかまっとけよ!」
後で説明しろよと言い置いて、桃城はリョーマの言うとおり、皆の寝泊りする大部屋に向かって駆け出した。



小さな子供のように肩に担がれながら、越前は見た。
「・・・あ」
廊下の突き当りには、大きな窓があった。半円型の窓。
ぽっかりと、夜空に月が浮かんでいた。

―― 越前。

耳元で、頭に直接響くように、呼ぶ声が聞こえる。




まもなく、自分たちが寝泊りする部屋の襖が見えた。
「桃城っす、失礼します!」
リョーマを担いだまま、桃は勢いよく襖を開けた。
「越前を発見したんで、連れてきまし――」

桃城は、続く言葉を呑み込まざるを得なかった。
「・・・先輩方、まだ練習中じゃ・・・?」
大部屋の中には、手塚の看病をしていた不二だけでなく、大石や菊丸、乾までもが揃っていた。練習を中断して駆けつけてきたのか、ジャージ姿のままだ。
海堂は畳に座り込んだまま、入ってきた桃たちを見ようともしない。海堂だけではない、大石も乾も、菊丸ですら何と言えばいいのか分からないという顔で、ただこちらを見返すのみだった。彼ららしくもない、途方に暮れたような顔だった。

異様な雰囲気に、桃城はごくりと生唾を飲み込む。
「・・・どうしたんすか?」
「部長、部長はっ!?」
語尾に覆いかぶさって、越前が桃の肩の上から叫ぶ。その声に引き戻されたのか、皆の顔に色が戻った。
しかし、更に重い沈黙が場を支配した。
越前は身を乗り出し、桃城の肩越しに部屋の様子をうかがい見た。

畳の敷かれた和室。広い大部屋の真ん中に、一つだけ布団が敷かれている。
皆がその布団を囲み、そこには昨夜倒れたときから変わらずに、手塚国光が横たわっていた。

「部長?」

―― 越前。

やっぱり、声が聞こえる。
枕もとに正座している不二周助が、じっと手塚を見つめていた。その表情はこちらからはうかがい知れないが、不二にもやはり、その声は聞こえていないようだった。
「部長、目が覚めないんスか」
「越前、落ち着いて聞いてくれ・・・」
大石が立ったままの桃城の元にやってきた。そういう本人の顔は、今にも倒れそうなほど青くなっている。
「手塚が起きな・・・」

「部長」
大石の声を遮って、越前は布団に横たわる手塚に向かって呼びかけた。

―― 越前、聞こえているんだな。俺の声が。

たしかに手塚の声が返ってきた。しかし、手塚自身は目を閉じて眠っている。
「どういうことすか、部長」
皆、凍ったように越前を見つめている。

―― どうやら。
―― 今、俺の声が聞こえているのはお前だけらしいな。

越前の耳に響く手塚の声は、この部屋の中で唯一、いつもと変わらない強さがあった。








←back++ *index* ++next→