月夜夢幻 〜第五話

ごくりと固唾を呑んで見守る中、襖がズ、ズ、と音を立てて開いた。

「・・・この野郎っ!」
襖から顔を出した人影に、勇敢にも桃城がラケットを振りかぶった。人を傷つけるための道具ではないが、今は構ってはいられない状況だ。
しかし、角度から越前だけが気が付いた。
――あれは、まさか。
「待って、桃先輩っ!」
しかし、越前の制止も空しく。
「食らえっ!」

スコーン!

「いてっ!誰だ、こら!」
聞き覚えのありすぎる、温厚な声。
「大石ぃ!!」
英二が泣きそうな顔で飛びついた。
襖から顔を出したその人は、先ほど出て行った大石その人だった。
「何の騒ぎだ、一体」
「こっちの台詞だ、人騒がせな・・・」
乾がはあっと息を吐いてどっかと座り込む。
「本気で泥棒だと思ったじゃないか」
足音は一つ。それも履いているはずのスリッパの音がしないことに、乾はいち早く大石 と手塚ではないと判断したのだが。
「おれはむしろオバケか何かかと思った〜」
英二が心底ほっとした顔で笑う。尻尾があれば振っていたであろう様子で、どうやらかなり怯えてい たようだ。大石もまた、そんな英二を安心させるように笑顔を浮かべた。
「それが廊下で、段差に気付かずに転んじゃったんだよ。懐中電灯は見つかったけどスリッパはど こにいったか分からなくなるし、手塚ともはぐれて・・」
「手塚は、まだ帰ってきてないよ」
不二が、彼らしくない硬質な声で言い放った。
「え・・・?」
大石は思いもよらなかったのか、一瞬言葉が出なかったようだ。一度緩んだ空気が再び張りつめていく。
「それって・・・」

大石が答えようとした瞬間、また大きな音が部屋中に響いた。




ダンッ、ダンッダンッダンッダンッダンッ!!
ドォンッ!!

ただ呆然とするより他なかった。
壁を、天井を、――床下からも。
何かがこの部屋の外側からぶち当たる。姿は見えず、衝撃とその音だけが響き渡る。

ダンッ!
扉がきしむ。
ドカッ!
壁を蹴るような音が鳴り響く。
まるでどうしようもない苛立ちをぶつけているように、激しく。
四方八方から。
あちらからもこちらからも、部屋は、正体不明の衝撃音に包まれていた。

「何だよ、これ・・・」

驚愕と恐怖がごちゃ混ぜになって、その異様な空間に呑まれてしまう。

「・・・渾身のサーブをぶち当てられてるみたいだな」
乾が、比較的冷静な声で言った。その額に冷や汗が浮かんでいる。

海堂も、桃城も、言葉もなく立ちすくんでいた。
四方八方から来る衝撃音に、どこを見ていいのか分からない。大きな音がするたびに 身を硬くするが、衝撃が壁を突き抜けることはない。
しかし、こんな木造の建物など、破れ壊されてしまうのではないかと思ってしまう。

「ポルターガイスト・・・ってやつ?」

誰かが、呆然とつぶやいた。

――積極的に、行動を起こしてくる気になったらしい。
越前は一人憮然とする。

先ほど部長に言いかけて止まってしまったが、どうやらここには。

「先客が居るみたいっスね。・・・生憎人間じゃないみたいだけど」

死刑宣告のごとく、きっぱりと極上の殺傷力で。

呑まれて誰も言葉を発する事もできない中、不二が動いた。
「不二っ?!」
「先輩っ!」
いまだドンドンと叩きつけるような音が鳴り響く中、不二は構わずに襖を開け放った。
「手塚を探す」
「不二っ!」
この襖もあれほど外から叩く音がしていたのに、開け放ったそこには何もない。しかし不二は そんなことすら気にも留めず、一人廊下へ駆け出した。

「越前っ!」
越前も、その後を追って臆することなく駆け出した。




廊下に、一切の音はなかった。シンと静まり返った空間に、自分の息遣いしか聞こえない。

代わりに、そこは海だった。
月光の、海。
光で溢れている。

(手塚・・・)
胸騒ぎが止まらない。言いようのない不安感がつのる。
――大丈夫、彼は自分よりよほど頼りになる人物だ。
自身にそう言い聞かせても、不二の焦燥は止まらない。
(無事でいてよ・・・)
せめて大石にどの辺りではぐれたか聞いておけば良かった、と不二は舌打ちしたい 気分になった。自分らしくもない。自分が一番冷静じゃないのかもしれない。
――だって、怖い。
今度、キミに何かあったら。
それを目の前で見届けなければならないとしたら。

「・・・不二先輩っ」
走りながら振り返ると、越前がやはり同じように走りこんできた。
「こっちっス」
「え?」
越前は何のためらいもなく角を曲がる。手塚がどこにいるか、自分と同じく部屋にいた彼に分かるわけもないのに、 不二はぽかんとしながらも先へ走り出した彼の後を追った。
「・・・階段下りますよ!」
「越前、なんで分かるの・・・」
全速力で走りながら問うと、越前の大きな瞳がきらりと光った。無感動に――――月光の洪水の中、 猫の目のように。
「越前、君は一体・・・」

最後まで言い終える前に、不二はその口を閉じる。
越前も揃って、ぴたりと足を止めた。

探していた人物を、見つけたから。

「これは・・・」

それは、神秘的ともいえる光景だった。

廊下の端、その一角だけは、壁も、木の床も青白い光を放っている。
大きな半月上の窓から、その窓枠の形そのままに月光が差し込み、その部分だけが昼間のように明るく照り輝いているのだ。

そして、その空間の真ん中に手塚は倒れていた。月光のせいか、酷く青白い顔だった。

さらに、その手塚をじっと見下ろしている人影があった。
手塚の体の前に、こちら側に背を向けて。
真っ白く透き通った、越前ほどの背丈の――少年。

「誰・・・」
不二が呆然とつぶやいた言葉に、応えるかのように。
少年はゆっくりと振り返る。感情を全く浮かべていない表情で。

『・・・が、・・・・らないんだ』

次の瞬間、その姿は消えてしまった。

「・・・不二っ!越前っ!」
背後からバタバタと足音が聞こえた。後から追ってきていた面々が追いついたのだ。
我に返った不二が弾かれたように手塚に駆け寄った。
「手塚っ!」
「大丈夫か、おい!」
傍らに座り込んで何やら確かめていたらしい大石が、ほっと表情を和らげた。
「大丈夫、眠ってるだけみたいだ」
全員が、胸をなでおろした。
「なんだよ、びっくりさせて・・・」
「良かった・・・」
不二が、誰よりほっとした顔でそっと手塚の手を握る。その様子を微笑ましく感じながらも、 乾と大石が協力して180近い手塚の体を抱えあげた。

部屋に戻る道すがら、不二はちらりと越前を見た。
越前のほうは飄々とした顔で、不二の視線を受け流しながらどこか遠くの窓の外を見ている。
――これは、部屋に帰ったら尋問しなきゃ。
そんな恐ろしい事を考えつつも、手塚が無事だった事で不二の足取りは軽かった。
ほんの少しだけ、手塚の青白い顔色が気になりながらも――

しかし、部屋に帰ると、またとんでもないことが待ち受けていた。

「・・・勘弁してくれよ」
桃城が頭をかきながら唸る。
自分達の部屋には、何十個ものテニスボールがばらまかれていた。合宿用にと持ってきたボール。一つ一 つが、月光を帯びて影を作っている。

不二は思い出す。
先ほど、手塚をじっと見ていた人ならざる少年の、発したか細い言葉。

『後一個が・・・見つからないんだ・・・』

あの少年は、確かにそう言ったのだ。








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