月夜夢幻 〜第三話

「名月や池をめぐりて夜もすがら、という句があるけど」
耳元で、聞きなれた鈴を転がすような声がした。
「・・・何スか、突然」
「いや、何だか越前が、月を眺めていたようだから」
「悪いっスか」
「古語ではね、眺める――“眺む”には、もの思いにふけるって意味があるんだよ」
「・・・・・・」
「どうかしたのかい?」

突然現れた不二は、そういって相変わらず読めない笑顔を浮かべている。 まったく、やーな先輩だ、と越前は眉をしかめた。クセモノ揃いのバケモノ揃いだ。
別に何でもないっス、と手を振っても、何を考えているのやら、変わらず笑顔でこちらを見ていた。どうやら、暇つぶしにからかわれたらしい。
俺で遊ぶな、と言いたくなるが、後が怖いのでやめておく。乾と、それからこの不二は、越前だけでなく他のレギュラーたちにとってもあまり敵にまわしたくないという共通認識がある。触らぬ神にたたりなしというヤツ。

「あ、おかえりー」
最終の風呂組が帰ってきた。ちなみに、乾たちだったりする。
「ズルイ・・・」
「先輩の特権だよ」
ちっちっ、と人差し指を立てて、乾がにやりと笑う。どうやら今年も誰にも素顔をさらさなかったようだ。
「おチビー!不二も、ウノやろうよウノ!!」
すでに何ゲームか終えたらしい英二が、上機嫌で窓辺の二人に駆け寄った。
「さすが英二、トランプも花札も完全装備だね」
「しかしもう時間が遅いぞ。そろそろ止めないと明日が辛いよ、英二」
大石が苦笑しながら声をかけた。負けていたのか、あたりに札が散らばっている。
文庫本を読んでいた手塚が腕時計に目をやった。時刻はそろそろ11時になろうとしている。

少々遊びたらなそうな顔で、札を片付け始める英二を尻目に、越前は息をついた。
「んだよ、ヒマそうだな越前、疲れたか?」
「・・・まだ練習もしてないのに、そんなわけないじゃないスか」
「言ったな。・・・よーし、じゃあ越前」
越前の隣に腰を降ろして、桃城はにやりとほくそえんだ。
「じゃあ越前、怖い話してやろうか」
「怖い話?」
「なになに?俺も混ぜてよ!」
越前が怪訝な顔をする前に、興味津々の英二がよってきた。

桃城がチラッと辺りを見回すと、大部屋の全員がこちらに意識を向けているのが分かった。
――これは、力を入れねば。
桃城は一人腕を鳴らす。
「おう。それも、この合宿にまつわる話だ」
「え〜?何だよそれ、いかにもじゃん」
「いや、マジ話っスよ、英二先輩。今日になって思い出したんスけど、昔、誰かから聞いたことあるんスよ」

電気を消し、桃城はにっと笑う。



「このペンションで合宿をすると、必ず妙な事が起きるって」



不二がその言葉に顔を上げた。
手塚も、じっと桃城を見つめる。彼らがこういう話に興味を示すのは珍しいな、と乾は内心不思議に思ったが、表情には出さなかった。

スタンドのオレンジ色の光だけが、ぼやっと桃城の顔を照らす。
「怪異の原因は、今からずっと前の、ある年の合宿にさかのぼる」
越前が、先を促すように大きな瞳をじっと向けた。
「昔、この青学男子テニス部に、一人の一年生がいた」
「そりゃいるでしょ」
何を当たり前な、と正面に体育座りしている越前が、いきなり冷めた声を出した。
「まぁ聞け。そいつは一年だから当然球拾いで、先輩たちがサーブ練習してる中、真面目にやってた。なにせ当時の部長は鬼のようにおっかねぇ人だったらしいぜ」

「てか、今もそうだよね」
「手塚に聞こえてるぞ、英二・・・」

「けどな、意地悪な先輩がわざとボールを遠くに飛ばしたんだ。ボールは柵を越えて草むらへ、そいつは慌てて探しに行った。なくなったボールは、全部で十個」
それで?越前が先を促した。

「九個まではすぐ見つかったんだ。けど後一個が、どこを探しても見つからない。全部見つけるまで戻って来るなと言われて、そいつは日が暮れても必死で探し続けた」

「・・・読めてきた」
不二の声は極めて落ち着いている。
「シッ!」
ノート片手に、なんだかんだで興味深そうな乾が、口に人差し指を当てる。


「みんな、そのうち帰ってくるだろうと気にしなかった。そして、そのまま次の朝が来たが、その一年生はついに帰ってこなかった」

桃城の声が、いよいよ聞かせどころと力を帯びてくる。

「朝からしとしと雨が降って、嫌な天気だった。ようやく事の重大さに気付いた先輩達も総出で探したら、なんとそいつは崖から落ちて、死んでたんだ。ボールを捜している途中で、足を滑らせて」


「何かそれっぽくなってきたじゃん!」
「英二、静かに!」



――合宿中に、消えてしまった一年生。



ごくり、と皆が息をのむ。
桃は真剣な顔をして続ける。
「そして、次の年の合宿から、妙なことが起こり始めたんだ」


夜中。
練習で疲れた部員たちが、宿舎で眠っている。
誰もいない真っ暗の廊下。
偶然目を覚ました部員が、誰かの足音に気付いた。

――誰かが起きたのかな?
だんだん、この部屋に近づいてくる足音。それはドアの前でぴたりと止まる。

ポーン、ポーンと、ボールが跳ねる音が響く。そして、涙交じりの男の子の声が・・・

『一個・・・二個・・・三個・・・四個・・・・』

悲しげな声だ。部員は怖くなって隣の奴を起こそうとするが、その手がぎくりと止まった。

声は、この部屋の扉のすぐ向こう側から聞こえる。

『・・・・・七個・・・八個・・・九個・・・』

ドアが音を立て、ゆっくり、ゆっくりと開いていって・・・

パチンッ!!


『やっぱり一個足りない・・・!うらめしや〜!!』



桃城の大声が響いて、ぱっと明るくなった。

「・・・って、なんだよそりゃ!くだらねー!!」
「番町皿屋敷のまんまパクリだな、桃」
「なんだ・・・期待して損した」
三年生たちから、ぶーぶー文句が上がった。みんな一様にがっかりした表情だ。

「あれ?みんなこの話知ってます?」
「知ってるに決まってんだろ、皿が一枚、二枚ってやつ」
「・・・あれ、おチビ?」

越前だけは、青い顔をして小刻みに震えていた。

「なんだ越前、そんなに怖かったか?」
桃城が意外そうな声を出す。
「越前は帰国子女なんだから、番町皿屋敷が元の話だって知らないんだよ」
「おチビ、あれ桃の作り話だから大丈夫だよ?」


「・・・ッス」

越前はうなずいたが、その瞳はまだどこか虚ろだった。


「・・・電気を消せ。もう寝るぞ」
「合点、部長。」
手塚の冷静な声で、一同はわらわらと洗面所やら着替えやら動き始める。
「もーも」
「わっ!」
英二が桃城に後ろから飛びつく。うわっと倒れそうになった桃も、何とか持ちこたえて振り返った。
「ウケなくて残念だったにゃー、さっきの怪談」
「いや、あれマジで一年のとき誰かから聞いたんスけど・・・本当にあった話だって」
「えー?嘘だろありゃ。あんなのマジに取ってくれるのおチビちゃんだけだろ」
「あの、英二先輩」
う?と英二が顔を向けると、桃城は妙に真剣な顔になった。
「さっき電気点けたの、誰っスかね?」
俺は覚えないんスけど、と。







(眠れないっつの・・・)
越前は夜中、一人ゴソゴソと起き出した。

カーテンを開けているため、電気がなくても部屋の中は十分明るかった。
月の光が煌々と差し込んでいる。

隣を見ると、桃城が大口を開けてぐーすか寝ていて、その能天気さが少し憎たらしくなる。
(・・・俺だけみたいだし)
話の途中、確かに「パチンッ!」と割れるような音が聞こえた。――ラップ音、というやつかどうかは知らないが。そして何より。
(あのとき、風呂で感じた誰かの気配が、またした・・・・)
桃城の話を聞いている最中、たしかに感じた。この部屋に、たしかにもう一人分、気配があった。
(マジでここに何かいるっての?)

「・・・越前、どうした」
「部長・・・」
壁際から小さな、でもよく通る声が越前を呼んだ。
いつもの眼鏡をかけていない部長を、思わずまじまじと見てしまう。
・・・コートの周りで、キャーキャー言う人だかりができるのも頷けるかもしれない。
眼鏡を外した顔は眼力が増していて、月光で出来た陰影が端整な顔をさらに際立たせている。
「眠れないんスか」
「いや、たまたま目が覚めただけだ。お前こそ、大丈夫か」
「は?」
「風呂場で具合が悪そうだったが。さっきも馬鹿騒ぎしていたからな」
言ったほうがいいのか、越前は一瞬迷った。
「・・・部長」
そのとき。

手塚の隣で寝ている不二の目が、カッと開いた。
(ぐえっ!!)
「・・・ふ、ふ、不二、先輩」
越前は、思わず後ろにのけぞった。
「やあおはよう。(まだ夜中だけど) 何か話し声が聞こえたから、目が覚めちゃったよ」
(嘘だ!絶対前から起きてて寝たフリしてたんだ!!)

「あ、あの・・・」
「秘密ごとかな?ボクが聞いちゃマズイ?」
怖い。はっきり言って、怖い。
しかし、越前ははたと気付く。
(この人なら、霊感があってもおかしくない)
それはいささか失礼な思い込みだが、とりあえず今は無視する。
この人なら、自分の話をまともに聞いてくれるかもしれない。
「さっき・・・風呂に入ったとき、俺はのぼせたんじゃないっス。他に原因があって・・・」
「・・・どういうことだ」
唐突な話に怪訝な顔をする手塚に、越前は言い寄った。
「ここには、俺たちのほかに誰かが・・・」




ガタンッッ!!




突如、響いた大きな音に、全員が飛び起きた。

「うにゃ・・・なんだよ今の〜」
英二が眠そうにゴソゴソと起き上がる。
「誰かなんか倒したんスかね?」
「とりあえず電気点けろ!誰か近いヤツ・・・!」

大石が、立ち上がりかけたそのとき。







ポーン・・・





ドアの向こう、無人の廊下で小さな音が響いた。

それは確かに、テニスボールが跳ねる音だった。








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