月夜夢幻 〜第二話

ざわっと、風が吹いた。

「・・・っ!」
思わずぶるっ、と身震いする。
昼間はあれほど暑かったのが、土地柄か夜は割と気温が下がるらしい。
エアコンも扇風機も要らないのはありがたいが、それにしては少し寒すぎるような気がした。

「・・・どこからそんな話が出てきたんだ」
手塚は整った顔を顰めていた。対する不二は平然とした顔で答える。
「先輩が言ってたのを聞いたことあるんだ。といっても、ボクが1年のとき3年だった先輩で、その先輩もOBから聞いたらしいけど」

「ここで泊まったら妙な事が起きた、って。合宿のあとにすぐ全国大会だから、それでみんなペースが狂っちゃった、てのが真相らしいけど」
「妙な事?」
「はっきりとは分からないけどね。もっともスミレちゃんは、力及ばなかったのをペンションのせいにするなって怒ったらしいけど」
彼女らしい反応だった。自分でもそう言うだろう、と手塚は思う。
「まぁ実際、うちは何代もここを利用していなくて、ボクたちは取り壊される直前のいわく付きの場に訪れたってこと」
不二はどこか楽しそうな顔をしている。手塚は疲れたようにため息をついた。
「・・・あいつらは、怪談話ぐらいではペースは乱さないだろう」
「当然だよ」



「おチビー、風呂行こうよ〜」
「・・・は?」
頭の上から降ってきたのんきな声に、越前は思い切り怪訝そうな顔をした。
日本の、特に運動部の縦割り関係を一応は知識として理解した(納得も実践もしていないが)から、なぜ3年生と1年の自分が入るのか不思議だったのだ。(最も青学テニス部においては、それはたいへん緩やかで正当性のあるものだったが)

「学年順じゃないんスか」
桃城が後ろからやってきて、ポンと頭に手を置く。
「先輩方が忙しいから、先に入ってろとさ。俺らとマムシも一緒だとよ」
「英二先輩は?」
「悪かったな、ヒマで!」
ぷう、と顔を膨らませて拗ねている。俺だって大石と一緒が良かったのに、と。
「大石先輩も後で入るんですか?」
「ん。手塚と一緒に行っちゃった。不二も手塚と一緒に入るってさ」
「英二先輩もそうすりゃ良かったじゃないですか」
「人数が多くなるから駄目って乾に言われたんだよ!」
「乾先輩も後?」
「あいつが素顔を俺らにさらすと思うか?」


至極納得した下級生トリオと英二は、とことこ大浴場へ向かう。

大浴場、と言ってもそれほど広いわけではない。壁も浴槽も木で作られているのはとても日本的で、半円状に丸く切り取られた大きな窓から見える中庭は、小さいながらよく手入れされているのが見受けられた。

ぽっかりと、真っ黒い空に月が浮かんでいる。

最も、そんな情緒は風呂ではしゃぐ中学生男子には無縁のことである。

「ぶわっ!冷てっ!」
「騒いでんじゃねえよ、馬鹿野郎」
「てんめぇーっ!」

はぁ・・・

浴槽にゆっくりと浸かりながら。越前はため息をつく。
目の前ではシャワーの取り合いをした桃城と海堂がお決まりのケンカになり、英二は横で面白そうにはやし立てている。
これもある種の上下関係というヤツだったのかもしれない、と越前はやーな気分になった。
騒ぐ奴はまとめて、という思惑が手に見て取れる。風呂には静かに入りたい管理職コンビ、そして腹黒笑顔とデータマンの策略に違いないと確信する。
自分だって一人で静かに風呂に入りたいのに、全くいい迷惑だ。

騒いでいる奴らは無視して、越前は浴槽の奥まで進んだ。
あたりは湯気で曇って視界は良くないが、ぼんやり空の月が見える。
もうすぐ満月だったか、とふと思った。

そのとき。




ぴちゃん。

ぽちゃっ。


背後で、かすかな水音がした。

背後には、壁しかないのに。それは分かりきっているのに。だが、水音は確かに、どんどん大きくなる。

ぱしゃっ。ぴちゃんっ・・・

越前は振り向けなかった。後ろに何もないのは分かっていた。しかしそれ以上に。

自分と壁との間に、誰かがいるような気がする。

青くなった顔を上げると、海堂がケンカの手を止めてじっとこちらを見ていた。突然大人しくなった海堂に、桃城と英二は不思議そうな顔をしてこっちを見ている。

ぺたっと、何かが体に触れた。

冷たい何かが、首や肩にまとわりついている。
喉が引きつるようになって声が出ず、金縛りにあったように体が動かない。
時間が止まったかのように思えた。

何事かが起きていることに、気付いたらしい。海堂が、立ち上がって越前の方に手を伸ばした。


『ぇ・・・』

耳元に、誰かの声が。




「いつまで浸かっているつもりだ」

ぱんっ!と、止まっていた空気がはじけた。

ガラス戸をあけて、手塚がそこに立っていた。
「手塚っ!」
「もう1時間になるのに誰も出てこないから、大石が心配してな」
代わりに見に来た、と告げる。
「・・・・・・」
越前は、はあはあと肩で息をした。背後の気配は消えていた。振り返っても、当然そこには壁しかなかった。
手塚がその様子を見咎める。
「どうかしたか、越前」
「おチビってばずっと浸かってたから、のぼせたんじゃにゃいの?」
「マジかよ越前!早く上がれ!」
桃城に腕を引っ張られたが、ゆるく腕を振り払う。
「いや、・・・もう平気っス」

それは強がりではなく、本当だった。

手塚の声が聞こえた瞬間、背後の気配が消えたのだ。
安心して、ふうっと息をついた。



「随分長風呂だったねぇ」
脱衣所に出ると、不二がのほほんと笑っていた。
見ると大石も乾もいて、どうやら服を着たまま待っていたようだった。
「早く布団を敷いて、休んでいろ」
「だからもう平気っスよ」
タオルを投げられて、越前は不機嫌そうな声を出した。
「大石、どうだった」
手塚はそれには返事をせず、大石のほうに顔を向けた。大石はどうしたものか、と困り果てた顔をしている。
「駄目だ。携帯に電話したけど、つながらなかった。本当にどうしたんだろうな・・・」
「竜崎先生?」
不二の何気ない調子の声に、手塚は重いため息を落とす。
「ああ・・・何かあったんだろうか」


そのやりとりに、何か、とてつもなく嫌な予感がおそった。


『ぇ・・・・・・』

さっきの声がふと頭に浮かんで、越前はぶんぶんと首を振ってやり過ごした。








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