ホー・・・ホー・・・ どこかで、梟が鳴いている。 「う・・・・・・」 幾度か瞬きをして、意識が浮上した。視界に鬱蒼と広がる森と、わずかな月明かりが入ってくる。 そこで、ハッと我に返った。 「英二・・・!」 目が覚めて真っ先に発したのは、一緒にここに来たはずの相棒の名前。ズキズキと痛む頭で、大石は記憶をさかのぼった。ぬかるんだ地面に、英二が足を滑らせて。 大石の顔がさっと青ざめていく。 そうだ、英二が山肌を滑り落ちてしまったのだ。 「英二ー!」 大石は叫んだ。痛む体を引きずって、木につかまりながら立ち上がる。背中の感触に、背後にどっしりと大きな木があるのに気がついた。英二の後を追おうとした自分もやはり足を滑らせて、それでこの木に引っかかって助かったのだ。 大石は慌てて首を巡らした。辺りは一寸先も見えない真っ暗闇。英二の姿は、傍にない。 「英二!英二どこだ!」 一体何メートル落ちたのか。体はあちこちが痛んだが、幸いにも骨に異常はないようだった。いいや、自分なんかどうだっていい。大石は首を振った。英二、英二は無事なのか。 「英二!英二、返事をしてくれ・・・!」 大石の悲痛な叫びが、山肌にこだました。 そのとき、闇の中から“おーいし・・・”と、わずかな返りごとが聞こえた。 「英二!!」 声の聞こえるほうへ、大石は狂ったように走った。より斜面の下るほう。大きく段差のできた山肌の足元を覗き込むと、夜の闇の中でわずかな月明かりに照らされる、彼の赤い髪が見えた。 「英二・・・!」 「大石・・・」 斜面を滑るように下ると、ようやく木の根本で寝そべっている英二の元へ辿り着くことが出来た。 「英二、英二大丈夫か!怪我はないか?!」 「大石・・・大石・・・」 自分よりも落下のショックが大きかったのだろう。気絶していた時間も長かったようだが、格別に痛むところはないということだった。大石の手を借りて、英二も何とか体を起こす。 「いてて・・・」 「英二、良かった、良かった、無事で・・・」 英二の倒れていた、わずか十数メートル先は崖だった。偶然木に引っかかった幸運に、感謝せずにはいられない。 「大石・・・大石は、だいじょうぶ?」 「ああ・・・」 肩に頭を乗せて、まだ意識が朦朧としている彼をゆっくり抱きしめる。お互いあちらこちら傷だらけで、泥だらけになってしまっていた。 無事で、無事で本当に良かった。 「おーいし・・・」 震える手で、英二が何かを指差した。 何だ? 振り返って、大石も英二の指の指す方向を見る。 「な、何だ、あれは・・・?」 英二と大石の、その視線の先。 断崖絶壁の、まさに先端に。 「花・・・」 暗闇の中、英二が呆然と呟く。 絶壁に無数の花が、月の光を浴びてきらきらと輝いていた。 「不二先輩――っ!!」 カヅキの体がぶよぶよの塊に変化して、弾丸のように不二に襲い掛かった。 バリバリ・・・!と激しい音がして、不二背中の窓ガラスが割れて飛び散る。木枠やベランダまでもが、爆音とともに砕け散って空中へ散らばった。 無残な残骸が、空しく地面へ落下していった。 「不二先輩!」 「先輩、不二先輩!大丈夫っスか!」 リョーマも、リョーマを抱えた桃城も、闇に向かって懸命に叫んだ。まるで光源のない闇の下では、もうお互いの顔すら見えなかった。 煙が立ち、ぱらぱらと木屑が落ちていく。その煙が晴れたそこに、不二の姿がない。 「せんぱ・・・」 はっ、とリョーマは気付いた。自分の手に感じる、ぬくもり。リョーマは慌てて座っている足元を覗き込んだ。 ハァハァと荒い息を立てながら、不二がかろうじて屋根の廂を掴んでぶら下がっている。 「先輩!」 「不二先輩!今引き上げますから!」 桃城が叫んで、不二の腕を引っ張りあげた。越前を抱えているために人一人分の重みは辛かったが、不二自身も両腕で体を支えて何とか屋根瓦の上に這い上がる。 ドサッ、と抱えられているリョーマの隣に尻餅をつき、不二ははぁと息をついた。 「先輩、大丈夫スか」 「・・・ああ、何とかね。君こそ足は平気かい」 フッと笑う顔に、桃城の腕の中のリョーマも肩の力が抜けていった。桃城も安堵したように笑って、またリョーマを抱えなおす。 「ホント良かったっスよ、窓が爆発したときはもう先輩ダメかと・・・」 そこまで言って、桃城は固まった。 おそるおそる、背後を振り返る。 自分達が飛び移った、その屋根のてっぺんに。 ぼおっと揺れる、白い影。 リョーマの表情も、不二の表情も、驚愕で凍りつく。 「あ・・・」 不二が、彼方を指差した。 闇が、にわかに晴れていく。 「月が・・・」 巨大な月が、雲間からその姿を現し始める。 闇が急速に開け、月の光に食いつぶされていく。 辺りはまるで、昼間のように明るくなっていった。 隣の桃城の顔も、抱きかかえられるリョーマの顔も。呆然と見つめる不二自身の顔も、青白い月光が照らし出した。 カヅキは、巨大な月を背負って、自分たちを見下ろしていた。 ぼんやりと宙に浮いた体。 「・・・・・・!」 鮮烈な月の光に、思わず息を呑んだとき。 月の光を背にし、カヅキは、見下ろしながらニヤリと笑みを浮かべた。 「佳月は、当時の部長さんのことが好きだったのよ」 唐突に告げられた言葉に、乾と海堂はえっと耳を疑った。 好き、ということは、それは。 思わず、二人はお互いの顔を見合わせてしまった。 加那子は涙を浮かべながらも、ふふっと少しだけ笑った。 「そのときの部長さん、とてもテニスが強かったのよ。部内の中でも飛びぬけてて、みんなから尊敬されてたんですって。家に帰ってきた佳月はもう完全にまいっちゃっててね、出会ってすぐにファンになってたの」 あのね、青学の部長はすごいんだよ。嫌な感じの先輩もいるけど、部長は全然違う。 すごく速くて強いショットを打つし、それにフォームも見とれちゃうくらい綺麗なんだ。偉そうな他の先輩だって、部長には何にも言えないんだよ。 今日なんか、佳月、よく頑張ったなって言ってくれたんだ。 とてもとても優しくて、テニスも強くて、本当にすごい人なんだよ。 「今日は部長がこうだった、こんな試合をしたって、それはそれは楽しそうに言ってたわ。何か褒めてもらったら、もう飛び跳ねて大喜びしてね。そして、最後は必ずこう言ってた」 あのレギュラージャージには、本当に憧れるよ。 強さと、たゆまぬ努力の象徴なんだ。 僕も、青学に入ってみたかったなぁ。 仏壇の中の遺影に目をやる。 写真の中の佳月は女の子のように優しげに笑っていて、それでいて繊細そうな笑顔だった。 彼が未だ現世に留まっていることを、海堂は知っている。たとえ、加那子にそれを告げることは出来なくとも。 彼の魂は、未だこの世に縛られている。 たった一個の、見つからないボールのために。 「部長さんは眼鏡かけてたんだけど、いつも穏やかに笑ってるんだって。すごく憧れて尊敬して、大好きだったの。そして佳月は昔から、思い込んだら周りが見えなくなる子だったから」 加那子はふと窓の外を見た。それにならって、乾も海堂も夜空を見上げる。 満月が、煌々と闇夜を照らし出す。 闇に隠れた、人の心の奥までも。 「だからこそ意地でもボールを見つけて、帰ってしまう前に渡したかったんでしょうね」 お願い、まだ起きないで。朝なんか来ないで。 必ず、必ず見つけるから、それまで。 眠っていて。 満月が、不気味に輝く。 月光を背負ったカヅキが、ニヤリと笑みを浮かべた。 ざわり。 生暖かい風が、皮膚に鳥肌を立てていく。 (なに、この風・・・) 肌に触れる空気が、ピリピリと張り詰めている。試合のときでもここまで緊迫した空気を経験したことはなかった。 リョーマはぞくりと背筋を振るわせた。 のしかかってくるような、夜空。星の一つもない闇夜。ただ、月の光だけが重々しく放たれている。 リョーマは空を見上げた。 まるで、自分達を押しつぶそうと迫ってくるような巨大な月。 (・・・部長) 心の中で、今はここにいない人の名を読んだ。しかし、カヅキが現れてからずっと返事は返ってこない。 「越前君」 「え?」 気がつけば、不二が隣に来ていた。リョーマを抱えている桃城と一緒に、がっちりと歩けない自分をガードしている。 「手塚の声、聞こえてる?」 「・・・イエ、さっきから全然」 「じゃあ、手塚は頼りに出来ないってわけだね。困ったな」 およそ誰かを当てにしている姿なんて想像できない人なのに、不二はそんな軽口を叩いてみせた。それでも彼の横顔には、かすかに不安が覗かれた。 ひょっとしたら、カヅキが手塚を押しとどめているのかもしれない。リョーマはきっと大きな瞳を上げる。 カヅキは笑っていた。しかしそれは、どことなく空虚な笑いだった。 闇の中で、月を背負ったカヅキの体だけが白く透き通って宙に浮かんでいる。 逆光になったその姿は窺い知れない。けれど、開け放したような殺気だけは痛いほどに伝わってくる。 「・・・来るな」 「ッス」 桃城がちらりと、汗を浮かべながらも笑みをこぼす。ぎゅっとリョーマを抱え込みながら。 そのとき、空の上のカヅキがさっとその手を振り上げた。 ガタ、ガタガタ。 「・・・え?」 足元の屋根瓦が、急にガタガタと音を立て始めた。 「な、なんだ・・・?!」 急に震え始めた足場に、思わず声を上げて桃城は飛び上がる。 「瓦が・・・!」 悲鳴にも似た不二の声が響いた。 重い屋根瓦はしばらくガタガタと震えていたかと思うと、にわかに数センチ浮かび上がった。 ベリベリッ! 「うおわっ!」 足元の瓦がどうしたのか、屋根からはがれて宙に舞い上がる。 カヅキは音楽の指揮棒を振るように、笑いながらその手を更に高く上げた。 「う、嘘だろっ!?」 瓦は凶器となって、猛烈な速さで桃城の顔面めがけて襲い掛かった。 ビュンッと重い瓦が空を切る。あんなものが当たったら、怪我どころの話ではない。 「うおっ!!」 飛び上がって、射抜くように飛んできた瓦をかろうじてかわす。瓦はそのまま屋根に落ち、鈍い音を立てて砕けた。しかしそのすぐ足元から、また瓦が宙に浮かび上がり狙い打つように飛んでくる。 至近距離からの瓦が、わずかに頬をかすった。 「・・・ッ痛!」 頬からつうと血が滴り落ちる。抱えていたリョーマのほうに、その血は赤々と見えた。 「ちっ、くそ・・・!」 「桃先輩!」 「越前、しっかり掴まってろよ!」 リョーマをしっかり抱え込んだまま、桃城は屋根の上を右へ左へと走った。ヒュンヒュン飛んでくる瓦を避けながら、振り返る。 宙の上のカヅキは、笑いながらその手を振った。 わずかにタイミングがずれた。ビュウッと音が鳴って、重い瓦がまた一枚顔を掠める。反対側の頬から赤い血が散った。 「桃城っ!」 蒼白になった不二が叫ぶ。 一度避けた瓦も、また引き返してリョーマを抱えた桃城を狙い打った。何枚もの瓦が一度に桃城に襲い掛かった。 「・・・くっそ!」 桃城の動きはもともととても俊敏だ。伊達に鍛えていない体は、一人ならまだかわしきれる可能性があったかもしれない。 しかし今は歩けないリョーマを抱えている。彼に間違っても重い屋根瓦が当たることがないようにとかばいながらでは、不利なのは明らかだった。 誰よりもそれが分かっているから、リョーマは叫んだ。 「・・・降ろしてよっ!アンタあんなの当たったら」 「っ! 目つぶれ!」 左肩に飛んできた瓦を、桃城は肘で叩き落した。重量のある屋根瓦だ。腕はただでは済まず、じんじんと痛みが広がっていく。 (・・・ヤベェな) 声には出さず、桃城は首を振った。そして顔を隠して、フッと口角を上げる。 丁度いつも試合でするように。 (負けてたまるかよ・・・!) 「こっちだ、来るなら来て見やがれっ!」 「桃先輩っ!」 一目散に、屋根のてっぺんに向けて桃城は走り出した。汗が玉になって飛び散る。傾斜のある屋根はそれだけで足場が不利だ。カヅキは一人宙に浮き、笑いながら桃城に攻撃を繰り返す。 「ずるいぜやっこさん・・・自分だけ空に浮いてるなんてよ」 桃城の顔には汗が浮かんでいる。それでも、見せ掛けだけでも余裕を失うことはなかった。 カヅキの腕はまるで別の生き物のようにうごめいている。タクトを持たせれば、まるで夜のリサイタル奏者のように。カヅキの腕が、大きく左に弧を描く。黒い瓦もまた、遠回りに円を描きながら桃城めがけて飛んできた。 「こっちだな!」 ――見切った。 桃城の顔が不適に笑みを浮かべた。 背を向けて逃げる体勢をとりながら、桃城は振り返って足を振り上げた。 「おらよっ!」 バキィッ! 飛んできた瓦を、長い脚が思い切り地面へと蹴落とした。 屋根に叩きつけられた重い瓦が、激しい音を立てて真っ二つに割れる。 「どーん」 ハァ、ハァと荒い息をつきながら。桃城は片腕を振り上げ、カヅキを指差してみせた。 自信にあふれた、精悍な顔に汗がとめどなく流れていた。 「桃先輩・・・」 「大丈夫だ、越前」 桃城の肩に掴まりながら、リョーマはキッと顔をあげた。その眼差しの先には、カヅキの姿がある。 カヅキは、またその腕を振り上げた。今度はその顔に、怪しくも凶悪な笑みが浮かんでいる。 (え・・・?) 「桃城っ、越前っ!!」 不二の叫んだ声が、随分遠くに感じた。 気がつけばリョーマの眼前に、重い瓦が猛スピードで迫っていた。 「えっ・・・越前っ!!」 一瞬、何が起きたのか、分からなかった。 不意に回転した視界と、突然の動きに大きく振り回された自分の体。 そして。 ゴキッという、音。 見えたのは、桃城のこめかみから吹き出す血。 「桃先輩ぃ――っ!!」 絶叫が響き渡る。それすら愉快そうに、カヅキはくすくすと笑みを深くした。 リョーマをかばって瓦を受けた桃城の体が、ぐらりと傾ぐ。 「・・・くそっ!」 最後の余力を振り絞って、桃城は体全体で越前の体を放り投げた。 「ああっ!」 体を回転させて放り投げられたリョーマは、まっすぐ屋根の上、不二の足元に落下する。腰をしたたかに打ち付けてリョーマが喘いでいると、ハッと不二が息を呑んだ。 「桃城っ!」 桃城の目が、ふっと閉じられる。 重力にしたがって、その体は屋根の上からまっすぐ地面へと落下していった。 視界から、桃城の姿が消えた。 「あ・・・」 喉が。喉がからからに渇いて。体がガクガク震えて止まらない。 ようやく振り絞れたのは、奇妙にかすれてしわがれた声だけだった。 「嫌だ、嫌っ!先輩、桃先輩ぃ――っっ!!」 涙さえ混じった悲痛な声が、夜の闇をつんざくように響き渡った。 「越前!」 駆け寄ってきた不二が、がっしりと自分を抱きしめた。そうされてようやく、リョーマは自分が必死に立ち上がろうとしていることに気がついた。 足の痛みなどもう感じない。何も感じない。 自分でも分からないほど叫んでいる自分を、不二が必死で抱きしめて押しとどめているのはかろうじて分かった。けれど、とてもそんなことでは止められない。 そんなリョーマに、カヅキは腕を振り上げた。 涙さえ滲ませているリョーマにこれといって感じ入った様子でもなく、ただどこまでも空虚な瞳で。 重い瓦がまた、確かな殺傷力を持って飛んでくる。 不二が、ぎゅっと自分を抱きしめた。 「っ!」 「・・・ふ!」 不二の肩を。テニスプレイヤーの肩を、重い瓦が直撃する。不二の瞳が色をなくしていき、がっくりとリョーマにもたれかかった。 「先輩っ!」 リョーマにはっきりと意識が戻る。けれど、だから何だというのだろう。 歩くことすらままならない自分に、立ち向かう手段すら。 「・・・部長っ!」 口から飛び出したのは、あの男の名前だった。 「返事してよっ、アンタ何やってんだよ!俺たちこんな目にあってんのに、なんで何も言わないんだよ、ねぇっ!」 リョーマは叫んだ。闇の虚空に向かって、せめてそれしか出来ないというように。 声の限りに、月に向かって叫んだ。 「・・・返事してよっ、不二先輩まで、ねぇってば部長!」 ふわっ、と。 頭に、手が置かれる。 なだめるように、その手が。 「不二、先輩・・・?」 色素の薄いその先輩の髪の毛が、月の光を浴びてさらさらと揺れた。 「先輩・・・?」 髪と同じく色素の薄い瞳が、優しく細められる。ゆっくり、ゆっくり肩に力をかけて。その先輩は立ち上がった。 上からカヅキが見下ろしている。 不二の瞳はまったく物怖じせずに、射抜くようにカヅキに向けられていた。 座り込んでいるリョーマをかばうようにして、不二は屋根の上に立ちはだかった。 (これ、は・・・) ビリビリと、空気が震えている。殺気、に近い。 これは、カヅキが自分達に向けていたものじゃない。あんなものじゃないとても、比べ物にならないほどの強い怒りの波動。 (・・・不二先輩、から?) 自分からは、立ちふさがる背中しか見えないかの人。 その背中から、かつてないほどの怒りをリョーマは感じ取った。 ざわり、と。夜風が肌を撫でていく。 「・・・やってくれたよね」 別人かと思うぐらい低い声が、辺りに響き渡った。 一歩、不二が足を踏み出した。 リョーマですら、背中感じるこの迫力だけで汗を浮かべていた。 「・・・みんなを巻き込み、越前と桃に怪我をさせ」 背中から阿修羅の気を漂わせて、不二はうつむいたまままた一歩足を踏み出した。 「あげく、手塚にまで手出しをして・・・」 ごくり、と生唾を飲む。自分の動揺ぶりを、恥じている余裕すらなかった。 宙に浮かぶカヅキの表情は、月の光を背負い、かわらず空虚なまま。 不二が、顔を上げた。 「えっ・・・」 リョーマが戸惑った声を上げる。顔を上げた不二は。 見たこともないような優しい笑顔を浮かべていた。 不二が、一歩を踏み出す。 しかしもうそこに、先ほどまでの怒りは感じられなかった。 まるで、月から降りてきたように。 不二は優しく微笑み、その手を差し出す。 周りの闇さえ晴らしてしまいそうな、裏も表もない、慈愛の色。 ポケットから、彼は何かを取り出して、カヅキに向かってかざして見せた。 「あ・・・っ!」 思わず声が出る。それは。 月の光を浴びて、黄金色に輝くその黄色く丸いものは。 テニスボールだ、リョーマは即座にそう感じた。 「君の探しものは、ここにある」 不二の声が、優しく響き渡る。 「さぁ、持っていくといい」 ぽおんっ、と。 それはきらきらと月光に輝いて、大きく弧を描きながらまばゆい光を放った。まるでスローモーションを見ているように、ゆっくりとカヅキの元へ飛んでいく。 カヅキの顔色が変わった。 必死の表情でその光るものを追いかけ、カヅキは空中で腕を振りかき進んだ。 月明かりの照らす、闇に染められた空の下で。 それはどこまでも幻想的な光景だった。 ボールが――落ちる。 そう思った瞬間。しかし落下音はしなかった。 カヅキの手の中に、確かに、しっかりと受け止められたボール。 その瞬間、カヅキは煙のように消えてしまった。 後はただ、夜の静寂が辺りを支配して。 月の光が、優しく屋根の上の二人を照らし出す。 夜風に吹かれながら、不二はいつまでもカヅキの消えた辺りを見つめ、凛と佇んでいた。 ←back++ *index* ++next→ |