まだ、夢の中にいるようだ。 屋根の上で、リョーマはまだ呆然として座り込んでしまっている。 「不二先輩・・・」 心地よい夜風が二人の間を撫でていく。さらさらとたなびく髪の毛を押さえながら、不二はゆっくりとこちらを振り返った。 「怪我はない、越前?」 その声は、もういつもの彼だった。ハッと夢から覚めたように、リョーマは顔を上げた。 不二はまた背を向け、屋根の上を歩き出す。 丁度カヅキが消えたあたりの地点へとたどり着いたとき、不二は屈んで何かを拾った。 キラリ、と光ったそれ。 「不二先輩、それ・・・」 さっき、カヅキに向かって投げたものでは。 不二はにっこりと笑って、リョーマのところまで戻ってきた。屈みこんで、リョーマにそれを握らせる。ボールとは明らかに違う、その感触。 そうだ、不二がボールを持っているわけはないのだ。 「これって、まさか・・・」 「うん、ボクがいつも持ってる、手鏡」 「これに、あの月を映したんだよ」 丸い手鏡は月を映し出し、きらりと黄金色に輝いた。 そして空を見上げれば、拍子抜けするほど小さくなった満月が、ぽっかりと浮かんでいたのだ。 それからどれほどしただろう。地上から、やたら元気な声が響いた。 「おチビ〜っ、不二ぃ〜っ!」 「おーい!お前たち大丈夫か?!」 身を乗り出すと、そこには夜でも分かる泥だらけの二人組が立っている。 「大石先輩、菊丸先輩・・・」 「おーい、無事かよっ!返事くらいしやがれ〜!」 じれたような声が聞こえて、笑いながら不二が大きく手を振った。 「二人とも無事だよ、ねぇ大石、そこに桃いるかい?」 「いますよ〜!越前、大丈夫か?!」 身を乗り出すと、桃城は平気な顔で地面に立っていた。にかっと爽快な笑顔で、ぶんぶん腕を振っている。顔から血を流してはいたが、屋根から落ちたショックもたいしたことはないようだった。 「・・・元気じゃん」 「あはは」 へなへなと、体の力が抜けていく。 「・・・信じらんない、頑丈すぎだし」 すねたようなリョーマの言い方すら可愛いのだろう。お兄ちゃんのような顔をして、桃城は何も言わずにひらひらと手を振った。 「・・・後で泣かす」 なにやら物騒なことを呟き始めた越前に、不二がぽんぽんと頭をはたく。それから下の三人に向かって呼びかけた。 「桃・・・は悪いね、落ちたばかりだし。大石、悪いけど屋根に上がってきてくれない?ボクだけじゃ越前を降ろせないんだよ」 「ああ、それなら」 返事をしたのは桃城だった。ハイ、とやけに嬉しそうに手を上げて、桃城は一歩前に出た。 桃城の意を察した不二の顔に、悪戯な笑みが浮かぶ。 がしっ、と両脇を掴み、不二は軽々と越前を抱えあげてクスリと笑った。 「え・・・?ちょ、なにす・・・」 「・・・うわぁっ!」 ぽぉんっと放り投げられた体は綺麗に中を舞い、そのままぼすっと桃城の腕の中に落ちる。 「そーらナイスキャッチ」 「・・・っ、アンタ絶対後でコロスからねっ!」 真っ赤になった越前が、がぁっと桃城に噛み付いた。 みんなが声を上げて笑った、そのとき。 「あ、れ・・・?」 英二が、真っ青になって悲鳴を上げる。 「不二、危ないっ!」 越前を投げ落としたはいいものの、バランスを崩した不二の体がぐらっと傾いた。 「不二っ!!」 全員が目をむく中、不二の体が屋根からまっさかさまに落下した。 ぼすっ。 「へ・・・?」 予想していた衝撃がなく、不二はらしくもなく狼狽した。地面に打ち付けられるはずの体が、大きくて、温かかな感触に包まれている。 「・・・大丈夫か、不二」 低く落ち着いた声が降ってくる。上から覗き込んできたのは、眼鏡越しの怜悧な眼差しだった。 「て、手塚・・・?」 きちんと目を覚まして、立って歩いて、言葉を発している。手塚が。 不二の目が、ぱちくりと瞬く。 「遅くなって、すまなかったな」 不二を見つめる瞳は、いつもより少しだけ優しかった。驚きのあまりずり落ちそうになる不二を、手塚はひょいと抱えなおした。 後はもう、お互いに言葉にならなかった。 首に手を回し、しっかりと抱き合う二人に。 少しだけつまらなそうな顔をしたリョーマを見れたのは、おそらく桃城だけだっただろう。 すべてが、終わりを告げる。 月が、沈む。 入れ替わりに、空は明るく白み始めていた。 まばゆい朝日が、雲の切れ端から顔を出し始めた。 ジリジリジリ、と絶え間ない蝉の鳴き声が聞こえる。 照りつける太陽の下、うんざりしながらも、蝉の声は随分久方ぶりに聞く気がした。 まるで、長い迷宮から抜け出ていま太陽を浴びているような気分だ。 リョーマは自分の足で歩いて、緩やかな山道を登っていた。石ころだらけのゴツゴツした山道に、日の光やそれによって出来た木陰がさしている。 頭の上には雲ひとつない青空が広がっていて、少しだけ眩しそうにリョーマはキャップを被った。 「・・・オイ」 「海堂先輩」 滅多に話しかけてこないような相手が、隣にやってきた。リョーマが見上げると、隣には乾もいて、軽く手を振っている。 「・・・足はどうだ」 なるほど、そのことか。リョーマは納得して頷いた。 「もう平気っスよ、全然痛くないし」 ほら、とリョーマは足をぷらぷらと振って見せた。やめとけ、と怖い目つきで睨まれる。 はーい、とリョーマは首をすくめてみせた。 「ところで、越前」 乾がひょいと顔を出してくる。 「桃城が随分心配そうだけど、放っといていいのかい?」 ノートで指差す先には、げっと肩をびくつかせる桃城がいた。リョーマたちの少し前を、ちらちら様子を伺いながら登っていたようだ。 リョーマは憮然として、フンと鼻を鳴らす。 「いいんスよ。今反省中なんだから」 「桃城もお前にかかっちゃ形無しだな」 乾があははと笑う。 リョーマたちの少し後ろを、手塚と不二が並んでやってきた。それに気付き、乾がひょいと手を上げる。 「手塚、もう大丈夫なのか?」 「ああ、問題ない。面倒をかけたな」 「いやいや。でも帰ってきたら平気で起き出してるんだもんなぁ、ちょっと残念だよ」 「残念?」 「せっかく無抵抗状態なんだから、顔にいたずら書きくらいしとけばよかった」 「・・・お前な」 手塚に睨まれて、乾も笑いながら肩をすくめた。その様子にこっそり不二や越前も吹き出した。 「ところで乾、竜崎先生は管理人さんのお宅に?」 不二が尋ねると、乾はぽんぽんとノートの背で自分の肩を叩いた。 「ああ、朝方になって到着されてな。今ごろ加那子さんと話し込んでるんじゃないかな」 竜崎は、佳月のことも当然のように良く知っていた。事故が起こった当時も彼女はやはり顧問として合宿に参加していて、来年には廃業されることを分かった上で、今年ここを合宿に使用することを選んだのだ。 竜崎には、あえて手塚のことも幽霊騒動のことも話さなかった。しかし駆けつけた彼女は当然のように、その手に花束と御供え物を持っていた。 今年が彼の十三回忌であることも、きちんと彼女は知っていたのだ。 「佳月くんのこと、忘れていない人もちゃんといたんだよ」 ポケットに手を突っ込んで、乾は遠くを見ながら歩いた。 「桃城にあの怪談話を伝えたのは、加那子さんだったよ」 乾の言葉に、少し驚いたように不二たちが振り返った。 乾は相変わらず飄々とした顔で、海堂は少し辛そうに瞳を伏せていた。 「青学に赴く機会があったとき、彼女はたまたま通りがかったテニス部の一年生に佳月君の話をしたそうだ。それが桃だったんだよ。いくら実話だと前置きしても、桃城が怪談話だと受け取ったのは仕方ないだろうな。テニス部の中で隠蔽されてきた事件だったんだから」 「そうだったんだ・・・」 「あと、電話線を切ったりブレーカーを落としたりしたのもおそらくは彼女だ。お父さんが入院されてから鍵を管理してたのは加那子さんだけらしいから」 「佳月くんの仕業じゃ、ないってこと?」 「どちらとも言えないけどね。十三年前のことなんか露知らない生徒への、ちょっとした悪戯だったんだろう」 今、ここだけの話だ。 誰にも言う必要はない。 五人が連れ立って、緩やかな山道を登っていく。 昨夜ひどく雨でぬかるんでいたという大地も、今は完全に晴れ渡りその様子はない。 すると上から、菊丸の声が降ってきた。 「おーい、早く早く。こっちだよ〜!」 「あ、英二」 山道の遥か上から、菊丸が手を振っている。隣には大石も立っていた。 五人がたどり着くのを待って、菊丸はその先を指差した。 「ここだよ、俺と大石が滑り落ちた場所。ほら、崖になってるだろ?」 「ああ、本当だ」 断崖絶壁、と呼ぶにはいささか小規模なもの。 わずか数メートルほどの高さの崖だ。 「・・・多分、佳月くんが落ちたのはここだと思う」 英二が、神妙な顔になってじっとその崖の先を見つめた。誰も、それに異を唱えることはない。 崖の先に咲いていた、たくさんの花。 一帯を埋め尽くすように置かれた花束が、風にはためいている。 「すごい数だね・・・」 「ああ」 古く朽ちたものもあれば、ここ二、三日の間に供えられたらしい新しいものもある。 白や黄色、水色。 哀悼の気持ちのこもった少し悲しい花束が、何十個も崖の際に置かれていた。 その中にいくつか、テニスボールもある。 「元テニス部員たちだろうね・・・おそらく、十三年前の」 「反省したんだろう、きっとな」 誰が言い始めたわけでもなく、全員が目を閉じて黙祷する。 さあっと風が吹き、花々を散らしていった。 山を降り、やがて。 帰りのときが近づく。 バスに乗り込むと、加那子が外から手を振ってくれていた。それに手を振り返しながら、おのおのが席に着く。 「・・・合宿も終わりかぁ」 しみじみしたふうに、窓際の英二が呟いた。その隣で苦笑しながら、大石も席に座る。 「結局、練習にならなかったな」 「ホントだよぉ、それどころかあちこち擦り傷だらけだっつの!」 「部長なんか三日眠ってたんスから、体ナマリまくりでしょーね」 桃城が茶化すと、手塚の眉間にまた一本皺が寄った。 口に手を当てて、不二がクスリと吹き出した。 「ねぇ越前君」 「は?」 「あの続きを聞かせてよ、昨日の夜に言ってたこと」 何のことだと顔をしかめた後輩に、不二はピンと人差し指を立てた。 『もし、ずっとこのまま先輩に部長の声が聞こえなかったらそのときは・・・』 「・・・そんなこと俺言いましたっけ」 「こら、しらばっくれないでよ。そうだ、そういえば今はどうなの?手塚の声聞こえてる?」 「テレパシーっスか?完全に駄目です。途中で聞こえなくなってからずっと」 向かいの座席に座る手塚を見る。 彼もすました顔で、それに同調した。 「俺もやはり途中から、越前の声が聞こえなくなったな。そのまま意識が無くなって何が起こったのか分からなかったんだが、次に目が覚めると体が動くようになっていた」 「多分、部長の目が覚めかけてたんでしょ。丁度、不二先輩ピンチだったし」 「え?」 「二人の愛が、カヅキの眠りに打ち勝ったってことっスよ」 ギシッ、と。音を立てて固まった。 手塚と不二だけでなく、バスの中の全員が。 リョーマ本人はどこ吹く風で、ぴょんっと桃城の隣の座席に飛び移る。 「・・・言ってやるもんか」 「あ?」 リョーマは一人、窓の向こうに視線をやった。 もし、もしずっとあのまま、手塚の声が自分にしか聞こえない状況だったら。 一生二人の通訳するのも悪くない、なんて。 「絶対、言わないからね」 いつもの挑戦的な顔で。リョーマは口角をつり上げた。 「バスが出るぞー」 最後の竜崎が、荷物を持って乗り込んだ。 まもなくバスは発車し、排気音を立てながら、狭い山道を下り始めた。 誰もが言葉もなく、遠ざかっていく木造のペンションの姿を見やる。 坂道をゆっくりと下りながら、バスは段々と加速していく。 『部長』 ハッ、と、手塚は窓の外を振り返った。 林の中の大きな木の影に。小柄な少年の姿が見えた気がした。 「・・・・・・」 もう一度見返したが、そこにはもう誰の姿もない。 (ご苦労様でした、手塚君) 不意に頭をよぎったのは、一年の頃やはり部長にかけられた言葉だった。 かける言葉は、それくらいしか思いつかないけれども。 「・・・ご苦労だったな」 窓の向こうの林に向かって、手塚は小さく呟いた。 「何か言った、手塚?」 「・・・いや」 バスが遠ざかる。 この山道も来年には、開発の手が加わりその姿を消してしまうのだ。 二度と目にすることの出来ない風景をせめて目に焼き付けておこうと、手塚はじっと窓の外を見つめ続けていた。 FIN. ←back++ *index* |