目の前を、すうっと白い影が横切った。 「・・・っ!」 ざあっと背筋に悪寒が走る。出かかった声を必死で喉でとどめながら、海堂は硬直したまま動けなかった。 間近にある、青白い少年の顔。空虚で無表情なその顔が、ちらりと海堂のほうを向いた。その瞬間、体が言うことを聞かなくなる。 「う・・・っ!」 足から崩れて尻餅をつくと、ドンッと乾の背中にぶつかった。 「か、海堂? どうしたの」 この状況をまったく知覚しておらず、むしろちょっと嬉しそうな声を出すこの先輩を殴り飛ばしてやりたい、と海堂は心の底から思った。 (・・・先輩には、見えてないのか) どうしてこんな厄介な感覚を持って生まれてしまったのか。思わず親を恨みたくもなる。なにやら赤くなって慌てている乾を放っておいて、海堂はギラリと幽霊を睨み返した。 幽霊は、じっと凝視している海堂など目もくれず、その横を通り抜けて移動していく。まるでどこかに出かけていくように、音もなくその足は戸口に向かっていた。 「あ・・・っ」 当然のように、その白い体は戸口の襖をすり抜けた。そのまますっと消えてしまう少年の姿に、その瞬間体の強ばりが解けた。 入れ替わりにガラリと扉が開く。 「・・・っ!」 「お邪魔します」 思わず身をすくませたが、そこに立っていたのは加那子の姿だった。彼女もまるで何も感じてはいないようで、にっこりと笑って両手の盆を差し出してくる。盆の上には菓子がいくつか置かれていた。 「あ、海堂君。さっき言ってたお供え物のお菓子が余ってるんだけど、良かったら食べ・・・」 「スンマセン!」 加那子の言葉を遮って、海堂は部屋から飛び出していた。 しかしそこにはガランとした薄暗い廊下が広がっているのみで、もう幽霊の姿はどこにもなかった。 (今、あっちに向かいやがった・・・) ほとんど直感のようなものが、海堂の中を貫いた。 (部長たちのところに、あいつが行った) 廊下に出た海堂は、くるりと踵を返した。 「海堂っ!」 後ろから驚いたように乾が呼んだが、海堂はそのまま狭い廊下を進んでいった。今だけは他所の家だということを忘れる。さほど大きくない家の奥までたどり着くのは簡単だった。 先ほど加那子が洗い物をしていた台所を通り過ぎ、奥まった座敷へと上がっていく。普段は礼節を忘れない彼も、今ばかりは己の直感を優先させた。 台所のテーブルに、菊の花が置かれているのが目に入る。それは彼の直感を確信へと変えていった。 暗い座敷に上がると、畳の部屋が広がっていた。部屋の中央まで歩いていき、コードを引っ張って電気を付ける。ブウン、と音がして暗い豆電球が点いた。 照らし出される、真新しい菊の花。そして、線香の煙の匂い。 重々しく構えている仏壇の前に、海堂は臆せずにゆっくりと足を進めた。 「海堂・・・」 息を切らせて追ってきた、乾の声が耳に届く。加那子もその後ろで、戸惑った顔をして立ち尽くしている。 「先輩」 さすがに指差すことは出来ずに、海堂は顔だけで仏壇を示した。乾も歩み寄ってきて、海堂の後ろからそれを覗き込む。 黒いリボンのかけられた遺影。 その中で笑っている、自分たちよりも幾分幼い少年の姿。 耳にかかる髪をさらさらと流して、少しだけ自信なさげな顔で笑っている男の子の写真。 「・・・海堂、まさか」 「ハイ」 海堂は言葉少なに頷いて、その写真をじっと見下ろした。 遺影の少年。 「彼が、カヅキです」 その顔は、まさにペンションで出没している幽霊と同じ顔だった。 「桃先輩、後ろ!」 「うおぁっ?!」 奇声を上げてのけぞった桃城の、背後の扉がバタンと勢いよく閉まる。足をくじいているリョーマを抱えたまま、桃城は部屋の中央まで後ずさった。 扉の正面に、白い少年がうつろな目で立っていた。ぼおっとした顔を上げて、突っ立っている三人を見回してその目が動いた。 ごくり、と誰かが息を呑んだ。 リョーマと手塚が会った、あの“カヅキ”だ。 一歩、幽霊が足を踏み出した。 「ひっ・・・」 小さく声が上がる。もうここにいる桃城にも不二にも、「彼」の姿は見えているのだ。 カヅキが向かったのはリョーマたちのほうではなく、眠っている手塚の布団だった。不二がはっと顔を上げたが、足を踏み出すことはしなかった。 『ごめんなさい・・・』 (・・・えっ?) リョーマと、そしておそらく手塚にのみだっただろう。その声が聞こえたのは。 空虚だったカヅキの顔は、とても悲しそうに顰められていた。 『ごめんなさい・・・まだ、見つからないんです』 その言葉の意味を咀嚼しようとする前に。カヅキは屈みこみ、眠る手塚に顔を近づけた。ビクリと体を震わせた不二が、今度こそ足を踏み出す。手近の荷物をカヅキの顔面に向かって、力一杯に投げつけた。 「不二先輩・・・!」 荷物は白い体をすり抜けて、激しく音を立てて反対の壁にぶち当たる。 すると、カヅキはそのままの体勢でグルッと顔だけをこちらに向けた。 悲しそうだった13歳の少年の顔が、なんと今や世にも醜悪な人相に変わっている。 (部長。部長、聞こえてるっスか) 汗を浮かべながら、越前は念じた。 (―― 部長?) 手塚の返事は、ない。 次の瞬間、いきなり部屋全体が真っ暗闇の中に突き落とされた。 「うわっ・・・」 「な、何だよ!」 電気はすでに切れている。これ以上どう暗くなりようがあるというのか。 「・・・あれだ」 不二が、背後の窓を指差した。暗い夜空の、唯一の光を覆い隠す薄雲がたちこめる空。 「月が、雲に隠れたんだ・・・」 音もなく、カヅキがこちらに近づいた。 三人がぎくりと身をすくませる。互いの顔を判別できないほどの暗闇の中で、カヅキの白い体だけがぼんやりと光っていた。 一歩、カヅキがこちらに近づく。それに伴い、リョーマを抱えた桃城もそして不二も、一歩後ろに下がる。また一歩、一歩と、カヅキは近づいてくる。ぶよぶよとしたオーラをまとわせながら。 「・・・おい、越前」 桃城や不二にまでその姿が見えるほど、カヅキの気配は強大になっていた。それが後数時間ほどで命日が来るからだということを、当然三人は知る由もない。 「俺たちを、自分をいじめた上級生と混同してるみたいっス」 「マジかよ・・・」 相手はこちらの言い分も通じない、異形のもの。さすがのリョーマも、不二も、恐怖が足元から忍び寄ってくるのを感じていた。 一歩、また一歩と、カヅキはゆっくりとこちらに近づいてくる。そのたびに一歩下がり、もう窓際がそこまで来ていた。 今ここには、自分たち三人と動けない手塚しかいない。誰にも助けを求めようがない。 (桃先輩) 桃城の腕に抱きかかえられているリョーマが、きっと瞳を上げた。 (窓から、出ましょう。ベランダから屋根を伝って) (えっ?) (これ以上この部屋にいるのは、ちょっとヤバいから) 桃城の行動は驚くほど早かった。言うが早いか、桃城は足を振り上げると、古い木枠の窓を蹴り飛ばした。バキバキと木の破片が飛んで、窓が開け放される。 「よっと!」 窓の下には、小さいながら足場があった。同じく木で出来たベランダに躍り出ると、隣から突き出た屋根瓦が目に入る。 「・・・行くぞっ!」 リョーマをしっかりと抱えなおすと、桃城は思い切り跳躍して屋根瓦に飛び移った。 「・・・不二先輩!」 腕の中で、リョーマが身をよじった。振り返ると、不二はまだ部屋の中にいる。 「先輩、早くこっちへ!」 「・・・行けない」 震える声が返ってきた。硬直したようにこちらに背を向けて、不二は近づいてくる幽霊から目を逸らさずにじっと対峙していた。 「何してんスか、不二先輩っ!」 「でも手塚が!」 手塚は布団に横たわったまま、やはり身動きひとつしなかった。 「不二先輩!」 リョーマが精一杯手を伸ばした。不二が初めて、ハッとしたように振り返る。 「掴まって、早く!」 その瞬間、不二の後ろで、カヅキの体がぐにゃりと捻じ曲がった。 不二がざっと振り返る。一瞬でも目をそらしてしまったことを、後悔しても遅かった。 リョーマたちが青ざめて目を見張る中、ぶよぶよとした塊が、弾丸のような速さで不二に襲い掛かった。 一方、その頃。 仏間は、奇妙な沈黙に包まれていた。乾と海堂、加那子の三人が、何を言うでもなく腰を下ろして沈黙している。 その中で海堂は仏壇に向かって手を合わせていた。海堂がチンと鐘を鳴らして拝むと、隣で乾も同じように手を合わせているのが見える。 明日は「彼」の十三回忌にあたるという。加那子は小さな声で呟いた。 仏間はささやかながら法要の準備がされていて、なんとも心苦しく場違いなような気持ちで、海堂は胸が痛んだ。 13年。短い一生と同じ長さが、「彼」が死んでから過ぎていったのだ。 家族の悲しみを残したままに。 「・・・佳月のことを、今の青学の生徒さんが知ってるなんて思わなかったわ」 加那子はぺたんと座って、手の中の写真を弄んでいた。家族で写したものらしい、カラーで写ったその写真には、幼い加那子と佳月という少年の姿が見える。 佳月というその少年は、当時中学一年生だったそうだ。 「佳月君というのは、加那子さんの・・・」 「うん、私の弟。年子だから1歳しか離れてなかったけど」 乾がおそるおそる声をかけると、こくりと加那子は頷いた。自分たちより十も年上である彼女が、不意に同い年の女の子ほどに幼く見えたような気がした。 「佳月も、テニスが好きだったのよ。でも佳月の中学はテニス部がなくて」 手の中の写真を見つめながら、加那子の心は遠い過去へとさかのぼっているようだった。乾と海堂に語りかけながらも、その目は静かな色を湛えて、はるか遠くを見ているようだ。 「その年、夏の合宿に毎年うちを使ってくれてた青学テニス部さんの練習に頼んで混ぜてもらったの」 今から十三年前。 同じくこの地で、青学テニス部は夏合宿を行っていた。山間の静かなこの場所で。 毎年恒例の夏合宿を。 「顧問の先生も当時の部長さんも、快く了承してくれてね。ペンションの管理人の息子だったからかもしれないけど、本当に気分良く受け入れてくれたのよ。合宿のお手伝いをするだけでもあの子本当に楽しそうで、これじゃ三日なんてあっという間に過ぎちゃうねって。 けれど」 けれど、その三日目に。三泊四日の滞在の、最後の宿泊日に、事件は起こった。 後は乾と海堂も聞いている、あの怪談話とまったく同じ筋書きだった。 「『青学の上級生にボール捜して来いって言われた』って、泣きそうな顔して家に帰ってきたわ。捜したけどどうしても最後の一個が見つからないって。見つからないものはしょうがないから、あと一個は謝るなり弁償するなりしようって言っても、佳月は納得してないみたいだった」 加那子の声はどこまでも静かで、およそ激情とは程遠かった。そのことが余計に二人をいたたまれなくさせる。 「あのとき気付けていれば、良かったんだけど・・・」 乾も、海堂も、じっと正座して加那子の話を聞いていた。この後起こる惨劇を、二人も知っている。佳月の身に起こった出来事を。 「夜中に家を抜け出してボールを捜しに行くなんて、まさか思わなかった」 家族や近所の人たち、消防団まで出動して辺りを探し回った。テニスコートの周り、その裏の山まで。そして。 崖から落ちて、冷たくなっている佳月を見つけたのだ。 崖は、明るいところで見ると拍子抜けするほど高さがなかったという。ほんの数メートルほど。飛び降りられそうな高さだったのだ。それでも人の命というのは、とても簡単に奪われてしまうものだった。 「捜しているうちに足を滑らせたんだろうって。近くに懐中電灯が転がってて。ずっとボールを捜してたって。バカなんだから・・・」 そのとき初めて、加那子の瞳から涙があふれた。 海堂は動揺して、申し訳なさと居たたまれなさで右往左往したがどうすることもできない。 加那子は指で涙を拭うと、顔を上げて乾と海堂を見つめた。不思議がるというよりも、訴えかけるような目で。 「あなたたちはどうして、佳月のことを知っていたの?」 なんと答えていいものか、海堂は真剣に迷った。 怪談話のことなど、まして今起こってることなど彼女に告げられるはずもなかった。 (どうして、こんなことが起こったんだ・・・) 付きまとっていた恐怖が消えて、初めて海堂の中で怒りが湧き起こっていた。どうしてこんなことが起こってしまったのか。 上級生にしてみれば、些細ないじめのつもりだったのか。管理人の息子という部外者の存在が面白くなかったのか。だからってどうしてこんなことになる。 誰も佳月のことを知らなかった。その死を悲しんでいる家族のことを知らなかった。 青学の生徒ではないからというだけで、彼のことを知るものは誰もいなかった。 (どうして・・・) 『ここは来年取り壊されるんだ』 その最後の年に、どんな心境で青学を受け入れたのだろう。 海堂はうつむいて、ぐっと拳を握り締めた。 すると、ポンと肩を叩かれた。振り返ると、乾の大きな手が肩に置かれている。乾の暖かい手はしばらく海堂の肩に乗せられていた。呆然と見返すと、わずかに彼の唇が微笑んだ。 座ったままでわずかに進み出た乾は、とても真摯な顔で加那子の目を見つめた。 「俺たちの仲間が今、佳月君と会ってるんです」 乾はただ、それだけを加那子に伝えた。 加那子にしてみれば、きっと意味が分からなかったかもしれない。けれど彼女は、曖昧に微笑んだ。涙の浮かんだ目を腫らして。 「あの子、ね」 鈴が鳴るような響きで、その言葉は胸に届いた。 仏間に、淡い光がさす。窓際から月光が細々と入ってくる。月の光に、加那子の顔が白く照らし出された。 「佳月は、当時の部長さんのことが好きだったのよ」 ←back++ *index* ++next→ |