月夜夢幻 〜第十二話 夜が、来た。 合宿最後の夜が。 越前はぽつんと、大部屋の畳の上に腰を下ろしていた。大きな窓からのぞく、漆黒の夜空を見つめながら。 「・・・日、暮れましたね」 空は徐々に薄闇に支配されていく。暗い空に星は見えない。それなのに月だけが、煌々と輝いている。 ―― そうか。 無愛想な返事が返ってきて、越前は座敷のほうへ振り返った。敷かれた布団の上に、朝から変わらない状態で横たわった部長の姿が見える。 眼鏡の外された氷のような容貌が、月の光にぼんやりと青白く照らし出される。 その面差しにまったくの変化は見られないが、たしかに彼の声は越前だけに伝わっていた。 「見えます? 満月っスよ」 ―― 目は閉じているから、分からん。そうなのか。 「そりゃもう。毒々しいくらいまんまるです。開けたげましょうか、まぶた引っ張って」 ―― いらん、馬鹿者。 不機嫌そうな声が返ってくる。越前はニヤリと笑って、手塚の布団のほうへ這っていった。 ―― 不二や桃城はどうした。 「不二先輩は晩飯の片付けに台所です。桃先輩は風呂っス」 越前は眠っている手塚の隣に腰を降ろす。手塚の端正な顔を間近で見下ろしながら、なにやら意味ありげにふうん、と呟いた。 「ねぇ部長、不二先輩で何人目?」 ―― ・・・っ!? 明らかに息を呑んだ気配が伝わってきて、リョーマはニッと厭らしく眼を細めた。その顔に、いたずら好きの子供のような年相応の表情が浮かんでいる。 「えーっと? 部長はケーケンホーフ・・・って乾先輩が言ってましたよ」 ―― あいつ・・・。 怒ったような呆れたような手塚の声が聞こえてきた。 はぁ、と眉間を押さえてため息をついている、そんな手塚の顔が頭に浮かぶ。あの部長の優位に立っている、と越前は心底楽しそうだった。 ―― ・・・初めてだ。 え、とリョーマは目を見開いた。 ―― あいつが、初めてだ。 ひどく真面目な声が聞こえてきて、越前はまじまじと手塚の顔を見つめた。眠ったままのその顔にまったくの変化はない。けれどもし起きている状態なら、いつもの彼なら一体どんな顔をして今の台詞を吐いたことだろう。 「へーえ」 越前は満足したらしい。 やたら楽しそうに鼻歌を歌いながら、足をぶらぶらとさせている。 窓の外は完全に、夜の闇に支配されてしまった。 満月だけが、異様な存在感を放ちながら闇の中に浮かんでいる。 「ねえ、部長」 ―― なんだ。 「アンタでも、怖いと思うことってあります?」 ―― そうだな。 すんなり返ってきた言葉に、リョーマは驚いて目を見張った。振り返るとすぐ横に、眠っている手塚の顔がある。 静かだが、力強い声がリョーマの頭に響いてきた。 ―― 己の不甲斐なさから、お前たちにもしものことがあったらと思うと、怖いと思う。 リョーマは黙って、手塚の声を聞いていた。 ―― 怖いのか。 「まさか」 突然身を乗り出すと、リョーマは手塚の上に覆いかぶさった。 ―― おい、越前。 ニヤリ、と不敵な笑みを浮かべている。眠ったままの無防備な手塚の上に乗っかると、顔の両脇に手を付いて、真上から見下ろした。 「まだアンタを倒してないからね、それまでは他人に手出しなんかさせないし」 「へぇ・・・?」 クスクスと笑いを含んだ声が、背後から降ってくる。 リョーマは瞬時に身を起こした。 振り返ると、戸口に不二が立っている。 「やぁ、今日もいい月が出てるね。それに、今夜のはやけに大きいし明るく見える」 不二は素知らぬ顔で、スタスタと窓辺まで歩み寄った。まるで昼間みたいだね、と言いながら振り返ると、手塚に覆いかぶさったまま固まっているリョーマの姿が見える。 「ほらほら、キミ足をひねってるんだからね。動いちゃ駄目だってば」 襟首をつかまれ、ずるずると引きずられる。その力は存外に強くかった。「ちぇっ」と言いながらも大人しく従うリョーマに、不二はクスリと笑みをこぼした。 闇夜に、月が昇る。 腰を下ろして、不二はじっと窓の外を見つめていた。白い顔を、月光がぼんやりと照らしている。 静かだった。 「・・・手塚、元気?」 ボソッと不二が呟いた。 ―― ああ、変わりない。 手塚も瞬時に答える。越前はため息をついて、「元気だそうです」と通訳した。 「そう」 座ったまま、不二は体をこちらに向けた。背後から月の光が差し、逆光になった顔に薄く影がかかる。 「越前、今は幽霊の気配感じる?」 「・・・イエ」 リョーマは顔を上げ、不二を見返した。 「充電中じゃないスか」 その物言いが面白かったのか、不二は体を震わせて笑い始めた。リョーマが呆れるほどに、不二はクスクスと笑い続けた。 「なんだか手持ち無沙汰だね、こうも何もない、静かな夜だと」 「同感スね。暇だし」 本当に暇そうに言う越前に、不二はいつもの笑顔で人差し指を立ててみせた。 「提案。暇つぶしに、ちょっと昔話に付き合ってくれない?」 「は?」 「ボクたちが一年だった頃のこと、思い出したんだ」 悪戯めいた笑みを浮かべて、不二は面白そうに語り出す。 「手塚も球拾いしてた頃は、よくそういう嫌がらせにも遭ってたんだよね」 「そういうって・・・」 怪談話みたいに、ってこと? とリョーマが首をかしげた。不二はうんと頷く。 ―― こら、不二。余計なことを言うな。 咎めるような手塚の声が聞こえたが、リョーマは都合よく無視することにする。 「ボール捜しに行かされたりしたんスか?あの部長が?」 「そうなんだよ。手塚ってば目立つから散々目を付けられちゃってね。見てるこっちがハラハラするくらい」 不二は懐かしそうに目を細めて、昔の記憶を辿るような顔を見せていた。 「そうそう、一度、意地悪な先輩がフェンス越えてボール出したことがあったな。手塚が捜しに行ったんだけど、これがなかなか見つからなくって」 ―― 不二、いい加減にしないか。 リョーマの頭に、何となくその情景が浮かんだ。部長の球拾いしている姿だけは、どうにも想像できないけども。 「手塚は暗くなってからも、ずっとボールを捜してたんだよ。でも本当は、絶対にボールが見つかるはずはなかったんだ」 「え?」 どういうことスか、と越前が目で問うと、不二は少しだけ悲しそうな顔で微笑んだ。 「実はね、無くなったボールの最後の一個は、先輩が拾って隠し持ってたの。見つかるはずもないものを、手塚に捜しに行かせたんだよ」 「・・・なるほど」 さもありなん、とリョーマは頷く。不二もコクリと頷いて、先を続けた。 「もうやめろ、ってボクたちは言ったんだけどね。それでも手塚は次の日も、その次の日も捜しに行った」 『ボールがなければ、テニスは出来ない。たとえ一個でも無駄にしてはいけない』 どう思う?と不二の目が面白そうに言っている。リョーマはフンと鼻を鳴らした。 「・・・要領悪いっスね」 「まったく、筋金入りの頑固者だよ」 「それで、どうなったんスか?」 不二はくすっと笑った。 「当時の部長が収めてくれて、一件落着。頑固な手塚を諌めて、先輩達を叱ってね」 『どうも、ご苦労様でした。手塚君』 あの、飄々と人を食ったような笑みで。 「カヅキくんも、ひょっとしたらそんな子だったのかもしれない」 不意に変わったトーンに、越前は不二を見返した。 死んでからもずっと、ボールを捜し続けている一年生。 「そんな・・・真面目な子だったのかもしれないね」 その言葉は少しだけ、優しい響きを持ってリョーマの胸に届いた。 静かだった。 鳥や虫の鳴き声も一切聞こえない、ただただ静かな夜だった。 窓際に腰を下ろしていた不二は、部屋の真ん中の手塚の布団まで這ってきた。必然的に越前とも距離が縮まって、少し体を引いた越前に、不二は優しく笑いかける。 「ね、越前。ずっと不思議だったんだけどさ」 「なんスか」 「どうして、キミにだけ手塚の声が聞こえるんだろう?」 越前はしばし考え込むようにして、また顔を上げる。 「たぶん、俺と部長だけがあの幽霊に接触したからだと思いマス。そのときに回線が繋がっちゃったんですよ、きっと」 「そうかぁ・・・」 納得したのかどうなのか、うんうんと頷いて、不二はまたリョーマから離れていく。 もし、もしも戻らなかったら。 一生このままだったらどうしようかなんて、不二は決して口には出さない。 「声が聞こえないっていうのは、やっぱり寂しいね。ねぇ、手塚」 眠ったままの手塚の顔を、不二はそっと撫でた。 (・・・部長) 肝心の手塚は何も言わない。 越前はため息をついて、降参、というように両腕を上げた。 「不二先輩」 「え?」 「もし、仮にっスけど。ずっとこのまま、先輩が部長の声が聞こえなかったらそのときは・・・」 ブツッ。 鈍い音を立てて、突如部屋の明かりが消えた。 「うわっ!」 「え、何っ?」 不二は思わず立ち上がる。同じく立ち上がろうとした越前を、手塚の声が制した。 ―― 越前、お前は動くな。足を・・・。 「分かってます!」 部屋の電気が切れている。窓から差し込む月明かりを頼りに、不二は手探りでスイッチを探した。 そのとき、勢いよく入り口の扉が開く。 「越前っ! 大丈夫か!」 「桃先輩!」 湯上りで、髪を下ろした桃城が着替えるのもそこそこに駆け込んできた。すぐさま越前の傍へ行くと、歩けない彼をいつでも守れるように抱えあげる。 「部長、不二先輩も大丈夫っスか?」 「ああ」 走ってきたのだろう。桃城はハァハァと息を切らしていた。不二も頷く。 「桃こそ、ここに来るまでに何もなかった?」 「ハイ。なんなんスかね一体、風呂入ってたらいきなり電気が・・・」 ごぽり。 扉の影に、黒い影がうごめいた。 ―― 桃城、後ろだ! 切羽詰った手塚の声を初めて聞いた。それだけに一瞬伝達の遅れた越前は、ハッと息を呑む。 ―― 「彼」だ! 「桃先輩っ! 後ろ!」 「えっ?」 後ろを振り向く。さっき開けた扉の影から、顔だけが半分覗いている。 (来た) 背筋を、冷たいものが伝っていく。 あの少年の幽霊が、じとりとこちらを睨みつけていた。 ■ □ ■ 「・・・夜になったっスね」 海堂は窓の前に立った。外はすでに真っ暗闇だ。 「先輩?」 振り返ると、まだ電話と格闘している乾の姿が目に入る。 宿泊しているペンションのちょうど真下に位置する、管理人の自宅。そこに置いてもらいながら乾と海堂は、情報収集に努めていた。 「駄目だ」 チン、と電話が置かれる。乾はガシガシと頭をかいた。 「思いつく限りの人に連絡を取ってみたよ。けど、カヅキについて知っている人はいなかった。まぁOBも五代前までしか遡れなかったから、実際の事件はもっと前だろうからまだ分からないけど」 青学テニス部で人死にが出て、それで何の記録も残ってないなんて有り得ないんだけど、と乾は難しい顔をしている。 (・・・俺も、特に何も感じねえし) 役に立てない、乾に必要だと言ってもらえても、現実問題として海堂は滅入った気分になっていた。すぐ上の、目と鼻の先にある宿舎では今どうなっているだろう。 部長たちは、大丈夫だろうか。 「お茶、下げてきます」 海堂は盆を持つと、襖を開けて部屋から出た。廊下は薄暗く、ギシギシと木の板が軋む。自分たちの止まっている宿舎と同じ木造なんだな、と思った。 「・・・梼原さん」 「あら?」 台所で洗い物をしていた、加那子の背中に声をかける。振り向いた彼女はすでに化粧を落として、エプロンを付けていた。 「どうも、ご馳走様でした」 「いいえ。どう、ご家族の方と連絡は取れそう?」 「あ・・・っと」 乾の嘘八百なので、どう答えていいものか判断が付かない。 困り果てて目線をそらすと、テーブルの上に、白や黄色の菊の花が置かれているのに気が付いた。 「あ・・・」 少し言いにくそうに、加那子は口の端をゆがめた。 「ああ、実はね。明日は身内の・・・弟の・・・」 それ以上は言い辛そうに、加那子は言葉を濁した。そして、襖で仕切られた隣の部屋に目をやる。 そこに置かれている仏壇に、海堂は言葉を失った。慌てて加那子を見返すと、もう何事もなかったかのように静かな顔で、置かれている花束を見つめていた。 「もう、何年も前に死んじゃったんだけどね」 「・・・スンマセン」 「やだ、いいのよ全然」 気にするな、と加那子は手を振った。 薄暗い廊下を、一人帰る。 何となく罪悪感を感じながら、海堂は襖を開けた。 「ああ、海堂」 「先輩・・・」 「学校にいた先生方に色々あたってな、どうやら青学がここを最後に合宿に利用したのは13年ほど前らしい。それまでは毎年ここを利用していたのに、その年からぱったりと・・・」 しかし海堂の耳に、乾の言葉は届いていなかった。 「・・・海堂?」 窓も開けていないのに、どこからか吹き込んでくる生温かい風。 ギシリ、と廊下の板が軋む音がする。 「はっ・・・!」 「おい、どうしたんだ。海堂」 汗が全身から噴出すのを、海堂は感じていた。 ギシリ、ギシリと、足音は一歩ずつ迫ってくる。 「・・・来た」 「えっ?」 足の力が抜けて、海堂は乾の背中に倒れこんだ。 「海堂っ?!」 乾には、見えていない。 海堂の目の前を、白い少年の霊がすうっと通った。 ←back++ *index* ++next→ |