月夜夢幻 〜第十一話

ぱらぱらと頭上から、雨が降ってくる。
ぬかるんだ山道を、ガサガサと落ち葉を踏みしめながら大石と菊丸は歩いていた。

「うわっ!」
「英二?!」
右隣を歩いていた英二の突然の悲鳴に、大石が慌てて振り返る。
そこには大石と同じく透明の雨ガッパを着た英二が、体をのけぞらせて立ちすくんでいた。その顔面すれすれに、折れて垂れ下がった木の枝が突き出している。
「あ、あぶね・・・目に刺さるとこだった」
「気をつけろよ、道も相当悪いから、滑らないようにな」
何事もなかったかのように枝をかいくぐる英二に、大石は苦笑してまた前を向いて歩き始める。

二人はテニスコートの裏側、山の頂に向かう小さな坂道を歩いていた。
乾たちが山のふもとに向かっているのに対し、二人は山頂へと登っていた。ペンションよりも一段高い位置にあるテニスコートのほうへ散策に出かけた彼らだったが、その裏手に山頂へ登っていく小さな道を見つけたのだ。
二人の頭に浮かんだのは、あの幽霊、カヅキの話。

「たしか桃の話じゃ、崖から落ちて死んだ・・・ってことだったよな。その一年生の子」
「うん、崖っていったら、やっぱねぇ。山しかないよね」
二人はザッザッと山道を登っていく。
傘を差していては探索にならないと、雨ガッパを着て手には懐中電灯を持っている。道なき道というほどではないものの、人二人がようやく並べるくらいの狭い山道だった。まして濡れ落ち葉や枯れ木が散在して、何度も滑りそうになった。

しとしとと雨は未だ降り続いている。すでに時刻は昼を過ぎていた。
「・・・うげー、ビショビショ。これだけ濡れたらもう着てても意味ないかも」
菊丸がうんざりしたように、ごわごわと動きを制限する雨ガッパを引っ張った。
「駄目だよ、英二。いくら夏でも、直接雨に当たってたら体温が奪われちゃうから」
大石は苦笑しながら、足元を懐中電灯で照らした。
まだ昼を回ったところで、決して暗いというわけではない。しかし、朝からずっと降り続く雨のせいで空はどんよりと曇っていて、ましてや歩きづらい山道は手塚が言っていたように注意が必要だろう。

「乾たち、もうどっか置いてくれるとこ見つけたかな」
「ああ、それなら一つ当てがあるって言ってたよ」
「当て?」
しかし大石はそれ以上は口にせず、英二も何となくつられて沈黙した。
しばらくお互いが口をつぐんでいたかと思うと、ふいに大石が言葉を発する。
「・・・やるしかないんだよな」
「うん」
英二がコクリと頷いた。
「大石、あれ言おうよ。合言葉」
「ああ」
立ち止まった二人は、お互いの顔を見返した。

「今年は絶対、全国大会ナンバー1」

ぴたりユニゾンした声に、パァンッ、と手を叩く音が響く。
「合宿が終わったら、全国だからな」
「早いとこ片付けて、帰んなきゃね」
にやりと笑いあった二人は、また前を向いて山道を登り始めた。

ザリ、ザリ、と誰もいない山道に足音が響く。すぐ左隣には切り立った斜面が、右隣はというと竹林になっていて、やはり下に向かう急な斜面になっていた。
「英二、そっちに滑るなよ」
「だーいじょうぶだよ。何度も言うな・・・って、あれ?」
はた、と英二が足を止める。その動きにつられて足を止めた大石は、何事かと右に立つ英二の顔を覗き込んだ。
「・・・大石、あれ」
英二は自分たちの右手、竹林になっている斜面をすっと指差した。
「なに?」
「あっち、あの竹林の、ずっと奥。何かあるよ」
大石は英二の言うように、足元から斜面に広がる竹林の奥に目を凝らしてみた。降る雨の雫がぽつりと大石の頬を伝う。
しかし、崖の下にはただ竹林が広がるだけで、大石の目には何も見えない。
焦れたように足踏みすると、英二がぐっと身を乗り出した。慌てて大石が腕を掴み、反対側の山肌から突き出している木の枝を掴んで体を支える。
「英二、危ないっ!」
「支えといてよ大石!あそこ、もう20メートルくらい向こう」
大石は目を凝らした。
しかし、立ち並ぶ木々が邪魔で、下に何があるのか見ることが出来ない。
雨を含んだ風によって、竹林がざわざわと揺れるた。
「・・・降りられないかな」
「な、駄目だ英二!危ない!!」
「何とか、木の枝を伝いながら行けば・・・」
急な斜面に、菊丸は一歩踏み出した。勿論大石がその腕をしっかりと掴んでいる。
道から一歩踏み出して、英二は身軽にひょいっと飛び降りる。
すとん、と斜面に降り立ちながら、菊丸はしっかりと竹の木にしがみついた。坂になった急な斜面だ。バランスを崩せば、あっという間に滑り落ちてしまう。
「英二・・・」
「大丈夫、大石。もう離していいよ」

その声に、大石はほぼ無意識にその手を離した。
しかし突然に、ざわっと胸にさざ波のような感情が湧き上がる。

第六感。
大石はそんなものを信じたことはなかった。
しかし確かに今、大石の胸には、何とも形容しがたい恐怖が広がっていた。

「駄目だ・・・英二、行くな」
自然と声が震える。もっと強い声で制止しなければならないというのに。
「英二・・・聞いて、行くんじゃない。嫌な予感がするんだ」

英二は竹を伝いながらどんどん斜面を降りていく。大石の声は聞こえていないのか、すでにその姿は小指ほどの大きさになっている。

「英二、待って」
このままでは彼を見失ってしまう。自分も降りようと、大石は身を乗り出した。

そのとき、声にならない悲鳴が響き渡った。

大石の血の気が引く。目の前で、まっさかさまに英二の体が転がり落ちていく。
木にぶつかりながら、まるで人形のように跳ね上がって、ぼこぼことした山肌の斜面を無残に滑り落ちていく。

その体はあっという間に、大石の視界から消えた。
すべては一瞬のことだった。

「え、え・・・」
体ががくがくと震える。目の前が真っ暗になる。


「英二――――っ!!」







■ □ ■


「・・・小雨になってきやがった」
古びたガラス戸を見ながら、海堂はぽつりと呟いた。
畳の敷かれた六畳ほどの和室。振り返ると、受話器を握ってまたどこかへ電話している乾の姿が見える。腰を落ち着けてからおよそ五時間ほどたったが、乾はずっと受話器を握り続けていた。

「・・・はい、はい。どうもありがとうございました」
海堂はただ座って、電話をかけている乾を見つめていた。拠点となるこの家に着いてから、電話を借りた乾は始終あちらこちらに電話をかけ続けて、情報を仕入れている。
忙しそうな様子の乾に、海堂は一つため息をついた。
ダイヤル式の電話を使いづらそうに回している乾を、横目で見つめる。はい、はいと相槌を打ちながら、何かをメモし、その手はまた次の相手の連絡先を書き付けていた。
(畜生・・・)
手持ち無沙汰なまま時間が過ぎて、海堂は悪態を付きたくなる。自分も何か手伝えたらいいのだが、あいにく電話は一つしかない。


腕時計を見る。時刻はもうじき、夕暮れになろうとしていた。
ペンションに残った部長たちは大丈夫だろうか、と頭を不安がよぎった。
(大石先輩もついてるはずだし、まさかな・・・)
大石と菊丸が自分たちの後に出かけていることを知らない海堂は、胸に浮かんだ嫌な予感を無理矢理打ち消した。

間もなく乾が、チンと受話器を置いた。

「駄目だ、海堂」
「え?」
乾が両手を挙げ、肩をすくめる。
「駄目て、何がっスか」
「とりあえず分かった事から説明するよ。竜崎先生がどうして来ないのかは分かった。青学に電話したんだが、身内の方が急に入院されたらしい。合宿当日のことで、連絡が行き違ってしまったようだ」
「そうだったんスか・・・」
海堂は内心、ほっと安堵した。先生にしてみれば大変だっただろうが、ひょっとしたらこの幽霊騒ぎと関係があるのかもしれない、と危惧していた海堂にすれば一安心だった。
「今も病院にいるらしいけど、帰ったらこっちに連絡してくれると思う。そしたら昔の話も聞けるだろう。青学テニス部について一番知っているのは、あの人だからな」
「昔って、それは」
「桃の言ってた、怪談だよ」
はぁ、と乾はため息をつく。
「・・・実は、さっき駄目だといったのはこのことなんだ。20年くらい青学にいる古参の先生方に聞いたんだが、記録では過去の合宿中に死亡者なんて一人も出ていない」
「えっ?」
「念のため、卒業した先輩方にもあたってみたんだけどね。それらしい話はなし。そもそもそんな事件があったのに、まったく記録が残ってないなんて有り得ないんだよ。学校が責任を問われたはずだからね」
参ったなぁ、と乾がペンでこりこりと頭をかく。
海堂としても、そうですかと落胆せざるをえない。
「“カヅキ”って名前はどうなんすか。越前が言ってた、幽霊が名乗った名前は」
「それも調べてみたんだけどね・・・」
乾はノートパソコンを取り出すと、ディスプレイを海堂のほうに向けて見せた。こんなときにどうでもいいことだが、合宿にノートパソコンを持ってくるのはどうかと海堂は思う。
「部員名簿送ってもらったんだよ。職員室の先生に頼み込んでね。ある限りさかのぼってみたんだけど、カヅキという名前は一切なかった」
「ある限りって・・・」
どれだけ莫大な数字なのか。海堂は愕然とする。そんな膨大な量を、短時間で処理したのか。

言ってくれれば、何か力になることがあったかもしれないのに。

無力感をかみ締めている海堂に気付いたのか、乾は苦笑してポンと海堂の肩を叩いた。
「コンピュータで検索するくらい、何の労働でもないよ。・・・しかし、今のところ手がかりはこれくらいだからなぁ。事実上の八方ふさがりだ」
「桃城の与太話が当てになるんすか」
海堂は思わず口にしてしまう。
それでも乾は、しかしなぁ・・・とペンで頭をかいた。何かを考え込んでいる。
邪魔をしてはいけない。そう感じた海堂は、そっと乾から体を離した。

「越前の見た幽霊と、根本的なところが共通してるんだよなぁ・・・『あと一個が見つからない』ってやつ。だから、たしかにどこかで実際に起こった出来事だと思うんだ」

指で唇を撫でながら、じっと座り込む。

「桃の言ってた怪談は、どこかで事実が歪曲している。実際の事件は、もっと形の違うものだったのかも・・・」



「入るわよ、お二人さん」

ふいに襖が開き、海堂はぎょっと背中を振るわせた。開いた襖から、手にお茶を持った若い女性が出てくる。
「ああ、加那子さん。どうも」
対する乾は平然とした顔で、微笑みながら顔を上げた。
「随分あちこち電話してたのねえ」
「すいません、長電話をしてしまって」
「いいのよ、うちのペンションの不備だもの。ほんとゴメンね、電話が使えなかったなんて」
微笑みながら彼女は畳に膝をつき、黒塗りの卓上に湯飲みを並べた。

そう、ここは合宿に使用している“ゆすはらペンション”の管理人宅なのだ。

乾の言っていた当てとはこの家のことだった。ペンションに管理人がいないことから、おそらく近くにペンションの所有者の家があるはずだと。
実際彼の言っていた通り、管理人である梼原某さんの家はペンションと目と鼻の先、ほぼ真下にあった。

海堂はお茶を持ってきてくれた、Tシャツにジーンズという軽装の女性を見やる。セミロングの茶髪、年は二十台半ばだろうか。
彼女の名前は梼原加那子。ペンションの管理者であり所有者である彼女の父にかわって、ずぶ濡れの乾と海堂を快く家に上げてくれた人だ。彼女の父が現在入院していることが、ペンションに管理人が不在だった理由らしい。

座り込んでいる海堂と乾を見て、その加那子さんはころころと笑った。
「最初に見た時は大学生のサークルか何かかと思ったわ。まさか中学生だなんて。それもうちに宿泊してる、青学さんの」
彼女は口に手を当ててくすくすと笑った。
「あれ、俺たちそんなに中学生に見えません?」
「見えないわよぉ」
楽しそうに笑う彼女と乾。だいたいこの先輩は、なんでこうも年上に強いのか。輪から外れて、海堂は内心フンと鼻を鳴らした。
いや、年上に限った事ではない。口も上手いし、人となりもどんな気難しい人でも態度を軟化させてしまうような・・・言い換えればつけ込むような、絶妙な上手さがある。

この梼原加那子さんに口八丁であっさりと取り入り、こうして計画通り電話を貸してもらうに至ったのだから。
五時間ほぼかけ通しだった。
電話代がどうなっているのか、ちょっと怖い。
(すいません、梼原さん)
来月の明細を見て驚愕する彼女の姿を想像し、海堂は心の中で深々と頭を下げた。


そんな海堂の心情を知ってか知らずか、乾はにこやかに世間話を持ちかけている。
「そういえば、俺たちが泊まっているあのペンションも今年一杯で終わられるとお聞きしましたが」
「ええ、そうなのよ」
加那子は少し沈痛な面持ちで、ふうとため息をついた。
「うち、この辺りの山にいくつかペンション持ってたんだけどね。高速道路が通るとかで、立ち退かなきゃいけなくなっちゃって」
そういえば、来る途中でそんな話を聞いたな、と海堂は思い出す。
「この不景気でしょ。うちみたいな古いところにはあまりお客さんも来てくれないのよ。どっちみちそろそろ廃業かなって思ってたから、うちの親としても丁度よかったのよね」
少し無理をしたような顔で、加那子は笑った。
「だから、最後のお客さんに青学の皆さんが来てくれて良かったのよ。青学テニス部さんは昔よくうちのペンションを合宿に使ってくれてたから、久しぶりにいらしてくれて嬉しいわ」

「最後、そうか・・・」
小さく呟いた乾に、加那子がえ?と首をかしげる。
「いえ、・・・青学がこちらのペンションを使わせてもらうのは、そんなに久しぶりなんですかね?」
「・・・そうみたいよ?」

最後だけ、加那子は少し含むような言い方をした。
それに気がついた海堂は、不信げなまなざしで彼女を見る。

加那子のほうはそんな海堂の目には気付かないのか、あまりお喋りしては悪いわねと立ちあがった。


「・・・海堂」
「なんすか」
加那子がいなくなった途端、突然話しかけられ、海堂は少し驚いて振り返る。そこには、いつも手にしているデータノートをぱたんと閉じた乾の姿があった。

「海堂。俺は正直言って、今この状況に付いて行けていない」
「え?」
「幽霊なんてものは今までまったく信じていなかった。越前を疑うわけではないが、実を言うと今も半信半疑だ」
「先輩・・・」
海堂は、信じられないような気持ちで乾を見返した。
乾はというと、海堂と目を合わせようとしない。どこか遠く、窓の外を見るようにしている。
「手塚がただならぬ状態なのは分かる。けど俺は情けない事にまるで分からないんだ・・・ああ、上手く言えないな悪い。自分がこの状況に応じた本当に適切な対処が出来るのか自信がない、とでも言うべきかな」
「・・・」
こんな乾の姿を見るのは、初めてだ。

「だから、助けて欲しいんだ、海堂」
ふいに自分のほうに向けられた真剣な目に、海堂は息を呑む。

「お前を通してなら、俺にも理解できそうな気がする。お前に何か感じることや思うことがあったら、率直に俺に伝えて欲しい」
「先輩」
「いつも俺が指示する側だったが、今回は・・・お前が、俺に指示してくれないか」

乾の目は、まっすぐ自分を向いている。

(先輩・・・)

海堂は、乾に見えないところでぎゅっと拳を握った。

「俺が・・・幽霊が視えるからっすか」
「それもある。けど、お前だからだ」

「はい」
海堂は力強く頷いた。

「俺に出来る限りの事を」





夕暮れに朱く染まりはじめた空は、今夜の空が晴れ渡ることを示していた。

きっと今夜も月が出る。海堂はそんな予感を感じていた。





『はやく、はやく。あと一晩で、合宿は終わっちゃう』









←back++ *index* ++next→