人魚姫 7



 満月の明かりが、寝室を照らし出す。
 寝息を立てている手塚も。リョーガが寝台に突き立てた、銀のナイフも。闇の中でもはっきりと見えるほど差し込む月光。

 その扉を開けて、静かに中に入ってきたのは、隣国から今日やってきたばかりの不二姫だった。リョーガはひどく驚いた。思わず寝台の反対側に身を隠し、そろそろと不二のほうを窺った。
 不二は、リョーガの存在には気づいていないようだ。まっすぐに部屋の中央の寝台に向かって歩いてくる。眠っている手塚のもとへ。

“なんで・・・こんな夜中にあの王女が手塚の部屋にくるんだよ”

 息を潜めて、様子を窺った。月光に照らし出された不二の顔は、式典のときのような微笑みを浮かべていない。無表情ともいえるほど、どこまでも空虚な表情で――。何を考えているのかまるで分からない。ただ、唯一昼間と同じなのは、リョーガしか気づけなかった他者を拒絶する空気。
 不二は、寝台の脇に立ち、無言で手塚を見下ろした。反対側に身を潜めているリョーガはいつ見つかるかをひやひやしたが、目を離すことは出来なかった。
 何か、ただならぬ予感に突き動かされて。

不二の瞳が、寝台に突き立てられた銀のナイフをとらえた。暗闇の中でも鈍く光るそれに、不二は魅入られたように手を伸ばす。
“な・・・っ”
それはリョーガの弟が、リョーガを助けるために魔女から受け取ったもの。王子を殺すための道具。しかしリョーガはそれを使えなかった。眠っている手塚に突き立てようとして、どうしてもできなくて、シーツの上に突き刺した。
 不二は、ゆっくりとナイフの刃を撫でる。にぶい光を放ったのは、ナイフの刃だったのか、それとも不二の瞳だったのか。
 不二は、手塚に向かってそのナイフを振りかざしたのだ。

“やめろ・・・・・・っ!!”

 リョーガは叫んだ。喉から声は出なかったが、勢いで体も立ち上がった。
 不二はさすがに驚いたらしい、ナイフを掴んだまま、リョーガを見る。双方の瞳が、真っ向からかち合った。
 怯えの表情を浮かべた不二は、身を翻して駆け出した。寝室の外へその姿が消える。
“待て!”
声にならない声で、リョーガは後を追った。




 無限とも思える長い回廊が、えんえんと続く。不二のあとを追って、リョーガもひたすら走った。魔女からもらった足は、歩くたびに刺されるような痛みを伴う。しかし、手塚を殺そうとした不二をこのままにするわけにはいかない。自分も途中までは同じ目的だったのだが、それはこの際置いておく。
“何考えてんだよ、あの王女・・・”
 式典で見た不二の表情が頭に浮かんだ。手塚に手を取られ、甲に口付けられたとき、一瞬だがいまいましそうに歪んだ顔。
 あの王女は、手塚との結婚を望んでいない。

回廊にも月明かりが届き、石畳が青白く照らし出される。おかげで足元も、少し前を走る不二の姿もはっきりと見えた。不二の白い寝巻きがひらひらと揺れて、幽霊のようだ。

ザ、ザン・・・

 城のすぐ外は、海。寄せては返す波の音が、開け放たれた窓から響いている。
 リョーガの足は痛みを伴うために、追いかけっこをするには不利だった。しかし、不二の脚力もそこまではもたない。そして何より、今日来たばかりの不二と違い、リョーガは城の構造を知り尽くしている。
 まもなく、長い回廊も終わる。その先は行き止まりだ。不二は、あっけなく袋小路に追い込まれた。
「・・・・・・」
はあ、はあと荒い息をしている。
 不二は初めて振り返り、自分を追い詰めるリョーガを目を合わせた。廊下の端には大きな窓があり、月の光で不二の顔もはっきりと見えた。
 リョーガは手出しせず、二、三歩踏み出せば届く距離で佇んでいた。
 長い沈黙があった。息を整いだした頃、不二は、ぽつりと言った。
「・・・人を呼ばないの?」
リョーガは動かない。呼びに行きたくとも、リョーガは声を奪われている。不二が知るすべもないのだが。それをどう受け取ったのか、不二はふっと微笑んだ。
「・・・失敗しちゃったな。正直、王子以外に人がいるとは思わなかったよ。寝室の前に護衛もいなかったし。それが、まさか小姓を連れ込んでるとはね」
不二は目一杯見下した顔で、あざ笑う。
「大したものだね。因縁の隣国から婚約者が来た夜に、自分は男色に明け暮れるとは・・・とんだ色情魔だ」

 リョーガはためらわずに一歩踏む込み、不二の顔を平手で殴った。
 ビシッ、という音が人気のない真夜中の廊下に響く。
「・・・っ」
“あいつを、侮辱するんじゃねえよ”

 声は出せずとも、迫力は伝わったらしい。不二は黙ったが、しかしひるまずに顔を上げた。瞳が、冷え冷えと温度を下げていく。リョーガの瞳も、同じような色をしているだろう。
 不二はふっと肩の力を抜いて、話をそらした。
「・・・どうして聞かないの?ボクが、王子を殺そうとした理由」
不二は、手に持ったままのナイフに今気がついたように目をやった。リョーガも、その存在を今の今まで忘れていた。
「本当は、そこまでするつもりはなかった・・・けど、ベッドにこのナイフが刺さっているのを見て、思わず衝動に駆られたんだ」
にぶく光る銀色に、リョーガの心はぎくりと揺れた。魔女の高笑いが聞こえた気がして。

「どうしてかなんて、言わなくても想像がつくだろうね・・・この国とボクたちの国の歴史を知っていれば。長い間積み重ねられてきた憎しみが、今更跡取り同士の結婚なんかでなかったことにできるはずがないんだ」
リョーガは怪訝な顔をした。この国の歴史など、十日ほど前まで海の人魚だったリョーガが知るはずもない。
 不二の目が、だんだんうつろになっていく。ぎゅうと握り締めた拳は、かすかに震えていた。

「お祖父様たちの代から戦争を続けて、憎しみ合ってきた。終わりにしたかったのはボクたちも同じだ。でもだからって、領土も何もかも奪われこの国に統合されるなんて、あげく、ボクがこの国の皇太子と結婚して講和するなんて、どこまで人の国を踏みにじれば気が済むんだ・・・!」
その叫びを、なんと表現したらいいのか。腹の底からせり上がる様な、呪詛のような低い声。今日の式典で微笑みを絶やさなかった不二姫が、ずっとまとっていた氷の仮面。その本当の姿が、今あらわになったのだ。
「もうボクたちの国に、抵抗する力は残っていない・・・。後は君たちの国に、好きなように料理されるだけだ。敵国に嫁ぐ屈辱なんか甘んじて受け入れる。けれど、ボクの母国を陵辱されることだけは許せない・・・」
ぶるぶると震えている拳。吐き出される怒り。
 沈黙が流れた。

 しばらくの間があって、不二はささやくように言った。リョーガに聞かせるつもりがあるのかないのか、その言葉はもはや独白のようだった。
「皇太子を殺したところで、どうなるものではないと分かっているよ。けれどあんまり無防備に寝てるから、そこに、このナイフがあったから・・・つい魔が差してしまったんだ」
不二は、ぼんやりと手の中のナイフを見る。そして顔を上げ、リョーガに目を合わせた。
 哀しそうな微笑みを浮かべている。何もかもを諦めきった顔だった。
「・・・早く人を呼んできなよ。ボクを、捕らえて」
リョーガは何も言えない。そのかわり、背後からゆっくりと近づく気配を感じていた。

 石畳に響く足音。不二も気づいて、顔を上げる。月光に照らされ、今やその顔がはっきりと見える。驚愕のあまり、不二は息を呑んだ。
 手塚が、そこに立っていたのだ。

“・・・手塚”

 リョーガの心配そうな視線に、手塚は軽くうなずいて答えた。大丈夫だと、リョーガが身を引くと同時に手塚は前へ出る。不二の顔に、緊張が走った。
「あなたの気持ちはもっともです、不二王女」
静かな声だった。
 リョーガは驚いて顔を上げた。不二も驚いている。手塚は続けた。
「俺は王位継承者として、両国の歴史を清算する責務があります。その中で、あなたの国の国民から石つぶてを浴びることもあるだろう。それでもやり遂げねばならない。これ以上の戦争を続けないために」
だが、と手塚は言葉を切った。
「俺は、あなたが結婚相手で良かったと心から思っている。そう思ったのは、先ほどあなたの話を聞いてからだ」
その言葉に、リョーガは目を丸くした。
不二も、言葉もなく目を見開いた。
「先日の15の誕生日、海に投げ出された俺を介抱してくれたときから、俺はあなたを想っていた・・・しかし今はそれ以上に、二つの国を豊かで平和な一つの国にしていく方法を、あなたとなら一緒に考えていけると思っている」
手塚は、不二にむかって一歩足を踏み出した。不二の体がびくりと震える。
「あなたの言うような国家への陵辱をする気は毛頭ない。もう俺とあなたは敵ではない。二つの国が、争いのない一つの国になることを俺は心から望んでいる。どうか、あなたにも協力して欲しい」
手塚は、手を差し出した。
 自分の寝首をかこうとした相手に向かって。

「・・・簡単に、人の気持ちは変わらないよ」
不二の、やっと搾り出した声は、震えていた。
「ボクたちの憎しみは、消えない・・・」
「変えてみせる。誠意と覚悟をもって臨めば、たとえ時間がかかっても必ず変えることが出来ると、俺は信じている」
凛とした手塚の声が響き渡る。その声も姿勢も、彼にはどこまでも迷いがなかった。
 静かな対峙の後、力の抜けた不二の手から銀のナイフが滑り落ちた。カランカラン、と石畳にその音が響く。
 不二は呆然として手塚を見やり、手塚は深い海のような穏やかな瞳で不二を見る。
 リョーガもまた驚きに包まれたまま、その光景を見守り続けた。








結婚式は、もう後数日に迫っていた。

「正直に言うと、ずっと不安があったんだ」
あの事件の後、手塚はリョーガに語った。
 リョーガは無言で問い返す。
“不安・・・?”
手塚は頷く。
「王位を継承することにだ。結婚式が終われば、すぐに戴冠式が行われるだろう。病の父上からも周囲からも、一刻も早い王位継承を望まれていることは分かっていた。だが、ずっと不安だった」
自分とて、まだ15歳の経験の浅い未熟な子どもに過ぎないのだと、手塚は自嘲する。
「永い間敵国同士だった隣国との和睦・・・戦争で荒廃した隣国への支援・・・やることは山積みだ。それに加えて、顔も知らない隣国の唯一の王位継承者との結婚だ。それが、二つの国の統一の条件とはいえ・・・対峙するものがあまりに多すぎる」
手塚は目を伏せる。
「15の誕生日の夜、船上でも俺は、ずっと憂鬱だったんだ」
リョーガは思い出す。それは、自分と手塚が出会った日だ。
 溺れた手塚を、必死で岸まで運んだ。けれど、そのことを覚えていない。
 リョーガは手塚と出会って、人間になりたいと望んだのに。
 彼を、愛したのに。
 手塚の言葉は、リョーガに絶望しか与えない。

「不二王女と出会えて、良かった。あいつとなら、一緒に両国の問題に取り組んでいけるだろう」
“お前を殺そうとしたのに、協力してくれるか?”
リョーガの声が聞こえているはずはないのに、手塚は正確にその意を理解する。
「王女の望みと俺の目的は同じ、両国の平和的な統合だ。不信感は簡単には取り除けないかもしれないが、それでも溝を埋めてみせるさ」
手塚の瞳に挑戦的な色が宿る。そこにはもう、テラスでワインを片手に、瞳を揺らしていた手塚はいない。

(もしも王子が、お前ではなく心から愛する人間と結婚すれば・・・たちまちお前は海の泡となって消えてしまうだろうよ)

魔女の言葉が、脳裏をよぎる。

朝を告げる鐘の音が聞こえた。どこかの教会だろうか。
まるで終わりの始まりを告げるようだと、リョーガはうつろな心で思った。









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