『結婚式は来週になる』 『なんと言う幸福に恵まれたのだろう。想う方と一緒になれるとは』 勢い余って、手塚の部屋から出てきてしまった。 頭の中がパニック状態だった。 手塚の言葉が繰り返し繰り返し聞こえているけど、まだ意味がよく飲み込めない。いいや、本当は分かっている。けれど、認めたくないんだ。 手塚は結婚する。 本当に想う相手と。 あの王女と。 (・・・なんでだよ、なんで!!) あの暗い海で、お前を助けたのは俺なのに。あの王女ではなく、俺だったのに。 俺のことを忘れていても、仕方がないと思っていた。ただあいつの側に一緒にいられるだけで、十分だと思っていたのに。 だからって。 どうしてこんなに、悔しくて悲しくてたまらないんだろう。 すうっと、背筋が冷えた。 忍び寄ってくる悪寒。 『ただし、この薬には条件がある』 “ああ・・・” 『もしも王子が、お前ではなく心から愛する人間と結婚すれば・・・』 あのしわがれた魔女の声がよみがえった。 あの洞窟の冷たさと暗さと共に。 『たちまちお前は海の泡となって消えてしまうだろうよ』 もう、側にいることすら出来ない。 「リョーガ、こんなところにいたのか・・・」 背後から足音が聞こえた。聞きなれた王子の声だった。 振り返るとそこには、散々自分を探したのだろうか、息を切らした手塚の姿があった。 「・・・リョーガ?どうしたんだ、こんなところに座り込んで」 手塚は膝をついて、穏やかな顔でリョーガに視線を合わせた。突然走り去ったリョーガの後を追ってきて。 「・・・リョーガ?」 もしかしたら、という思いがあったのかもしれない。 手塚の顔を見たとたんに、自分でもまだ正体の分からない気持ちが溢れて。 そんなことあるはずもないのに、もしかしたらと期待してしまったんだ。 リョーガは、すっと手塚の顔に手を伸ばした。 「リョーガ・・・?」 そのまま、ゆっくりと手塚の顔を撫でていった。頬、あごを辿って、首筋へ。 何か伝えたいことがあるとき、リョーガは決まってこうして、手塚の顔にそっと触れた。 手塚はいつも正確にその意を汲み取って答えてくれた。 『お前は、“ものを言う目”を持っているからな』 よくそう言っていたのは、手塚だった。 “・・・あの日、お前を助けたのは・・・” 「リョーガ・・・?」 “あの王女じゃないんだ。しかもあいつは、お前のことを好いてもいない。あんな忌々しげな顔をしてお前を見てたんだぜ” どうか、伝わってくれ。 “・・・結婚なんか、すんなよ。お前に結婚されたら、俺は・・・” どうか。 しかし。空しい期待は、塵のように飛んでいった。 「・・・どうしたんだ、リョーガ。いったい何が言いたいんだ?」 悔しそうに顔を引き絞るリョーガを前にして、手塚はただ困惑するばかり。 声を奪われたリョーガには、何一つ気持ちを伝える手段など持たないのだ。 「リョーガ、部屋に戻ろう。俺はこれからまだ婚礼の打ち合わせに戻って、やらなければならないことがある。夕食のときにゆっくり話をしよう、さあ」 手塚の伸ばした手を、リョーガは思い切り振り払った。 「リョーガ・・・!」 大馬鹿野郎。 胸のうちでどれだけののしったかしれない。 リョーガはそのまま、ふらふらと歩き出した。 手塚は追いすがろうと手を伸ばして、しばらく迷った後、結局その手はぱたりと落ちた。 夕日が、ちょうど海に沈むところだった。 テラスからは、赤く染まる海がよく見えた。 大きな大きなオレンジ色の塊が、海に飲み込まれていく。 どこか麻痺したような頭で、リョーガはそれをじっと見ていた。 夕日が沈めば、やがて暗い夜が来る。 他に行くところなどなくて、リョーガは結局手塚の執務室に戻った。手塚は打ち合わせとやらに行ったのだろう、部屋には誰の姿もなかった。 ばさり、ばさり、と重い服を引きずりながら、リョーガは部屋の中を歩く。 ああ、本当に服が重い。 裾がひらひらと、うっとうしいったらない。 当然だ、海の中ではこんなもの着なかった。本来自分は、服なんか必要じゃないんだ。 “・・・馬鹿みたいだな、俺” 何をしているのだろう、こんなところで。 故郷の海を離れて。 リョーガはおもむろに、着ている服を引っ張り始めた。びらびらとした服の着方はいまだに分からなくて、手塚の側近たちに着付けてもらっている。だから脱いだら到底もう一度着ることなんか出来やしないけど、構わずに引っ張った。 めちゃくちゃに引っ張ったらボタンも紐も外れた。 “全部、全部、なくなっちまえ” 服なんか、どうして必要なんだ。 どうせ、自分は人間でもないのに。 裸になって、リョーガが振り返ると。 そこには大きな鏡があった。 姿見の前まで歩いていくと、リョーガ自身が映った。鏡の中に、はっきりとした自分の姿が。 魚だった頃と変わらない上半身。変わっているのは、その先にひょろ長く伸びた二本の足。立ったり、歩いたり、踊ったりするための、人間の足。 “・・・格好悪りいなあ” なんて不恰好。 なんて不自然。 所詮俺は、人魚だというのに。 鏡の中の自分は、ひどい顔をしていた。 この情けない顔に、リョーガは見覚えがあることに気がついた。 『待って・・・!』 ああ、そうだ思い出した。 最後にそう言って、自分を追いすがった弟の顔だ。 あんだけ気の強かったあの弟が、なんて顔してんだ、チビスケらしくもねえ。そう思ったっけ。それが、どうだ。 今の俺は、あいつと同じ顔じゃねえか。 ぱしゃ、ぱしゃっ。 何だ、とリョーガは振り返った。 ぱしゃぱしゃっ! それは、窓の外から聞こえてきた。窓の外には海しかない。それは水音だった。 リョーガは吸い寄せられるように、窓へと近づいていった。ふらふらとした頼りない足取りで。 海に大きな夕日が沈んでいく。 オレンジ色の空と海がひたすら広がっている。 圧倒的なその光景に、リョーガが呆然としている中で。 たしかに、その声は聞こえた。 「リョーガ」 まさか。 窓の外は、断崖絶壁だった。 そのはるか下を、覗き込むと。 「なんて顔してんの、アンタ」 あの、生意気な弟が海面から顔を出していた。 + + 「・・・なんて顔してんの、アンタ」 “チビス、ケ・・・?” リョーガの声にならない驚きが届いたかのように、波間から顔を出しているリョーマは、ふんと鼻を鳴らした。 「アンタ喋れないらしいから、こっちの用件だけ言うよ。助けに来た」 リョーガは呆然として、その声を聞いていた。 すると、ひゅっと何かがリョーガめがけて投げ込まれた。 “・・・うわっ!” 反射的に避けると、それはからんっ!と音を立ててテラスの中に落ちた。 リョーガがはっとした。 それは、銀色に光る鋭いナイフだった。 「リョーガ、聞こえてる?」 リョーガが再び海を覗き込むと、醒めた顔をした弟が、そのナイフを指差した。 「魔女に教えてもらった。王子が結婚したら、アンタ死ぬんだろ。だから魔女に頼んで聞いてきたんだ。そしたら、アンタが海の泡になる前に、助かる方法がひとつだけあるって」 あの魔女はただで願いをかなえてくれはしない。 リョーガが人間になるために声を失ったように、弟は、チビスケは自分を助ける方法を聞きだすために、いったい何を引き換えにしたのだろう。 恐ろしさで胸が潰れた。いや、それでも。 助かる方法が、あるのか? テラスの策を握るリョーガの手に、ぐっと力がはいった。 「そのナイフで、王子を殺して」 ナイフのにぶい銀色の光が、リョーガを誘惑していた。 空と海は、完全に夜の闇に落ちた。 とっぷりと夜は更けた。 城の長い回廊を、リョーガは一人で歩いていた。カツン、カツン、と足音が響いている。それほどの静寂だった。城は完全に寝静まっていた。草木も眠る時間。場内に起きている人の姿はまったくない。 一人歩いているリョーガを、咎める者もまったくなかった。 もう真夜中だ。 城の時計は深夜を指している。なんて暗い、暗いくらい闇。 月の光だけが、城の中とリョーガの姿を照らしている。 リョーガの手には、にぶい銀色の光が握られていた。 『そのナイフで、王子を殺して』 『そうすれば、アンタは助かるから・・・!』 最後のほうは、懇願だった。あの醒めていて生意気な弟が。あの日のように、必死で俺を見つめて。 生きてくれ、と。 よほど俺は、死んだような目をしていたのだろう。 “またあいつに、あんな顔させちまったな・・・” チビスケの顔が、繰り返し頭をよぎった。 自分が苦しんだのと同じように、あいつも死ぬような思いで魔女からこのナイフをもらってきたのだろう。すべて自分を助けるためだけに。 手の中をナイフを、リョーガはしみじみと見つめた。 古びた木の柄には、綺麗な文様が施されてあった。刃は月の光を反射してきらきらと光って、それでもかつて何人もの血を吸ってきたような、恐ろしい感じはちっとも受けなかった。 “これで、あいつを刺したら” 俺は、また海に帰れる。 チビスケの顔を見たとき、本当は懐かしさで涙が出そうだった。あいつの体からは、俺の故郷の海のにおいがしていた。帰りたかった。切実に帰りたかった。 今ならやり直せる。 人間になろうと思ったことなど、一時の過ちだったのだ。 再び海の世界に帰りたい。 手塚を殺す。たったそれだけで、俺はまた悠久の時を生きる人魚に戻ることができる。 リョーガの手は、手塚の部屋の扉を、ゆっくりと開けていた。 部屋の窓のカーテンが開いて、青白い月の光が部屋を満たしていた。 真ん中に置かれた大きなベッドの中から、かすかな寝息が聞こえる。 手塚が、眠っていた。 何も知らない、穏やかな顔で。 月光に浮かび上がったその顔は、彫像のように綺麗で、端整だった。 “手塚・・・” リョーガはゆっくりと、手塚のベッドに近寄った。 誰か、来てくれればいいのに。 あの爺やでも、ヤカン頭の侍従長でも。 やめろ、王子に何をするんだ、誰かこやつをひっとらえろと・・・ 誰も、来ない。 ここで、眠っている王子の胸にリョーガがナイフを突き刺しても、誰も気付かない。 ぎしっ、と音を立ててベッドが軋んだ。 リョーガベッドに足をかけ、手塚の顔を上から覗き込んだ。 起きる気配はまったくなかった。 『そのナイフで、王子を殺して』 チビスケ、ありがとよ。 リョーガは、銀のナイフを取り出した。 妖しくねっとり光るその銀色から、魔女の笑い声が聞こえてきたような気がした。 リョーガは渾身の力を込めて、ナイフを思い切り突き立てた。 あの日。 夜の海に燃えさかる炎と、沈んでいく船と。 手塚、お前に出会ったのは、いったいなぜだったんだろう。 同じ日に生まれ、15の誕生日に海に出た俺たちが出会ったことは、何の意味を持っていたのだろう。 ベッドカバーに深々と突き刺さったナイフは、変わらないにぶい光を放っていた。 手塚は変わらず、穏やかな顔で眠り続けている。 リョーガはひとりテラスに出て、月を見ていた。寄せては返す波の音が、潮の香りが、窓まで届いてくる。 “・・・そんなこと、できるわけねえだろ” 俺の目がそう言っていたことに、チビスケはきっと気付いていたのだろう。 だからあんなに必死で言い募ったのだ、生きてくれ、と。 ありがとよ、こんな兄貴なんかのために。 でも、おかげで俺は一つ気が付いたんだ。 俺には、絶対に手塚を殺すことなんかできやしない。 一瞬、本気でやろうかと思ったんだ。ベッドの上に上がるまでは、本気でそう考えてた。 でも、やっぱりどうしても出来なかった。 出来るはずがなかった。 その理由に、やっと俺は気が付いたんだ。 あいつが王女と結婚することが、あいつが俺に助けられたことを覚えていないことが、どうしてこんなにも胸に突き刺さるのか、やっとその訳が分かった。 愛しているから。 もう、それだけ分かってしまえば、リョーガには十分だった。 空に浮かぶ満月のように、満たされた気持ちだった。 もう、何もいらない。 すべてが分かった。 俺が、あんなにも人間になりたかった理由も。人魚の世界を捨ててきたことも。 俺の何より焦がれてやまない海よりも、いとおしいと思うものが出来てしまった。 “・・・悪いな、チビスケ” 静かな海に向かって、リョーガは小さく呟いた。 そのときだった。 ギギギ、と音を立てて、部屋の扉が開いた。 リョーガは目を見開いて、慌てて物陰に身を隠した。 “誰だよ、こんな時間に手塚の部屋に・・・!” そこに立っていた人物の姿を見て、リョーガはあっという声を飲み込んだ。 そこにいたのは、隣国の王女である不二の姿だった。 INDEX BACK NEXT |