人魚姫 7



(結局のところ、俺は人間になれなかったんだな)

廊下を一人歩きながら、リョーガは考えていた。人魚としての生活は悪くなかった。けれど、どこか退屈だった。ここではないどこかへ行きたいという思いが常に側にあった。
そしてあの日、俺はあの王子に出会った。

同じ日に生まれ、15の誕生日を迎えた俺たち。
死にかけたあいつの命を助けたことが、俺の運命を変えた。
人間になりたい、人間の世界に行きたい。その願いのままに、魔女に声を捧げ、人間の足を手に入れた。

それが、どうだ。
(足なんか手に入れたって、駄目だったんだ)
所詮、俺は人間じゃないってのに。

手塚は、あの王女と結婚する。俺に助けられたことなんか覚えてもいない。逆に自分を憎んでいるあの王女とこれから共に生きたいと言う。もう十分、分かっていた。手塚が必要としているのは、不二だ。仮にこの先、海で手塚を助けたのが俺だということを思い出しても、あいつは不二を選ぶ。

手塚の言っていた話は、俺には半分も分からなかった。二つの国の歴史だとか、戦争を止めたいとか、そんなこと俺じゃ力になれねえ。ちゃんとした人間の、あの王女でないと。
(俺じゃ駄目なんだ)

命がけで愛した。それまでの人生のすべてを捨てた。
それでも構わないと、後悔しないと思っていた。じゃあ、胸にぽっかりと穴が開いたような、冷たい風が吹くような気持ちは何なんだ?

二人は結婚する。俺は、海の泡となる。
それでも、手塚を殺せない。



呆然として、ふらふら廊下を歩いていたリョーガは、前方からやってくる人影に気づかなかった。カツカツと足音を立てながらやってきたその人影と、思い切りぶつかってしまった。
“・・・ぶっ!”
「む・・・」
驚いて顔を上げると、神経質そうな背の低い男とばっちり目が合った。オールバックに撫で付けた髪に、口ひげを生やした初老の男。王族の正装並みに高級な服を身にまとっている。
 皇太子の手塚ですら、式典でもない普段のときは質素な格好をしているので、その姿は少々城では浮いている。
 リョーガが黙っていると、三白眼にぎらりとにらみつけられた。
「・・・汚い子どもだな、どこに目を付けているのかね。この私にぶつかってきておいて、侘びの言葉もなしか」
いきなり高慢な言葉を浴びせられた。
“・・・はあ?何だよ、このオッサン”
リョーガの目に侮蔑の色が宿ったのを、初老の男は敏感に感じ取ったらしい。
「きっさま・・・」
低い声でうなり、リョーガの胸倉を掴みあげる。リョーガはそんなことでは驚きもしないし、逆に飄々としている。男の顔に血管が浮かんだ。
 殴りかかってこられるかと思ったが、思わぬところから叱責が飛んだ。

「・・・大臣、何してるの!」
声の先を振り返ると、部屋の扉から琥珀色の髪の毛が覗いている。同じ色をした瞳が鋭く男に向けられている。
 不二王女だった。
「はっ・・・」
リョーガを掴みあげていた男は、途端にかしこまり、手を離した。不二王女はつかつかと歩み寄る。
「よその国の城で乱暴な振る舞いをしないで。祖国に恥をかかせる気なの」
「・・・申し訳ありません、しかし」
「この方は、王子様のご友人です。無礼を謝罪なさい」
大臣と呼ばれた男は、ぎょっとした顔で王女とリョーガの顔を交互に見た。謝罪しろと言われたことか、リョーガが皇太子である手塚の友人だということか、どちらに驚いたのかは分からないが。
「・・・誠に失礼致しました、ご無礼お許し下さいませ」
男は大人しく頭を下げた。しかしリョーガは見た。
 その目が、剣呑な光を宿しているのを。


「行こう」
不二王女は冷たい声で言うと、リョーガの手をぐいぐいと引っ張っていく。リョーガは何も言わないまま、その手に引っ張られるままに進んだ。
 一度だけ振り返ると、大臣はこちらを睨み付けるように見ていた。その目に、何ともいえない嫌な気分になった。




「さっきはごめんね、あの男が」
リョーガを部屋の中に招き入れてから、不二は気まずそうに頭を下げた。
連れて来られたのは、城の中の奥まったところにある部屋だった。部屋の中は広く、美しい調度品が彩りを与えている。窓からは海が一面に見え、眺めも素晴らしい。ここは不二のために与えられている部屋なのだ。
「あれでもうちの国の大臣なんだけど、どうも何を考えているか怪しいというか。実はボクも苦手なんだ」
自分の国の人間なのに、ずいぶん冷たい扱いをするなとは思ったが。不二はあの大臣を嫌っているらしい。
「父王とも考え方が違って、よくいらぬ進言をしては波風を立てていたんだ。今回も、わざわざ結婚式に前乗りしてやってくるなんて、余計なこと考えてなきゃいいんだけど・・・」
ふう、と不二はため息をつく。

 リョーガは正直に言って、まるでついていけていなかった。この王女とは、顔を合わせたのも昨日の夜が初めてだ。加えて手塚の殺害計画を防がれた者と防いだ者同士だ。ちなみにその事件については、王子もリョーガも一切口外していないので誰にも知られていない。(もっとも、リョーガ口外したくてもできないのだが)
 そんな二人の間にこんな気安い空気が生まれるはずがない。なのに、なぜ急にこんな親しい態度を取られるのだろう。
 リョーガがいぶかしんでいると、不二はふっと微笑んだ。
「今日、手塚王子にたまたま会ってね。少しだけ話したんだ」
不二は手近な椅子に座り、リョーガにも勧めてくる。
「君の事を聞いたよ、声が出せないんだってね。知らずに昨日はごめん」
別に謝られる義理はない。リョーガは居心地が悪かった。
「・・・王子が言っていたよ、皇太子として気の休まるときのない王宮で、唯一心を開いて話せる相手はリョーガだけだと」
リョーガは目を見開いた。
「大切な友人で、君になら何を話しても大丈夫だと。そう聞いたからね」
不二に微笑を向けられて、リョーマはむずがゆくて仕方がない。
 それでも、手塚がそう思っていてくれたことは、純粋に嬉しい。
 冷たくなっていた心に、少しだけ光が差しこんで温まった気がした。

“なんつー単純さだよ、俺は・・・”

 頭をかきながら、笑うしかない。
 視線をそらせ、窓の外の海を見る。ふと、窓際に置かれた大きな花瓶に目が留まった。
 薄紫の色の小さな花がたくさんついた枝が、溢れんばかりに生けられている。
 リョーガの視線の先に気づいた不二は、複雑そうな顔で笑った。
「藤の花だよ」
“藤・・・?”
花もまた、リョーガが陸に上がってはじめて目にしたものだった。
「今朝、手塚王子から届けられたんだ。ボクと同じ名前の花・・・」
呆れ返った様子で、不二は窓際へと歩いていく。花を一枝手に取り、顔に近づけた。
「花なんかでボクを懐柔しようなんて、馬鹿にもほどがあるよ。そんなもので誤魔化されるほどボクは単純じゃ・・・」
怒った調子で、頬を膨らませている。けれど、不愉快そうなその声に、正反対の感情が混じっていることを、リョーガは気づいた。

愛してるんだろうな。
リョーガはぼんやりと思った。

たまらなくなって部屋の反対側に目をやると、花嫁衣裳を着たマネキンが置かれていた。真っ白いそのドレスは、日の光を浴びてきらきらと輝いていた。








 結婚式は、刻一刻と近づいていく。
 もう、後はただ、海の泡となる日を待つだけ・・・
 そのときのリョーガは、そう思っていた。


 それは、本当にただの偶然だった。
 不二の部屋から出て、人気のない廊下をぶらぶらと歩いて。そしたらたまたま、あのいけすかねえ大臣の後姿が見えた。
“何やってんだ、あいつ・・・”
まったく興味はないが、初対面のときの嫌な感じを思い出した。自分と不二をにらみつけていた姿が頭に浮かんだ。この城はもはや、リョーガにとっては庭のようなもの。気が疲れないように後を付けるのは簡単だった。
 不二の国の大臣は、なぜか人目を気にするかのようにきょろきょろと辺りを見回している。柱の陰に隠れて、後を付けているリョーガには気づいていないらしい。
 すると、大臣は城の奥のとある客室に入った。大臣のために与えられた部屋だろうか。

 扉に耳を付けたのは、ほんの好奇心に過ぎなかった。しかし、聞こえてきたのは信じられない内容だった。

『・・・気づかれてないだろうな』
『勿論でございます、準備は万端。しかし、本当に・・・よろしいのですか?』
尊大な声は大臣のものだ。しかし、もう一人声が聞こえる。大臣の部下だろうか。
『我が国の存続のためだ。不二王女には尊い犠牲になってもらおう・・・』
クック、と忍び笑いが聞こえた。
“何の話をしてるんだ?”
突然聞こえてきた不二の名前に、リョーガは更に耳を澄ませた。
大臣の低い声がぼそぼそと聞こえてくる。
『講和など、断じて認めるものか。わが国はまだ戦える。まだ勝機はある』
何かに取り付かれたかのように、熱っぽい口調だった。
『不二王女が結婚式の最中に暗殺されたとなれば、愚かな平和主義のわが国の王も重い腰を上げるだろう』
『・・・この国の愛国者の仕業に見せかけるのですね』
『そうだ。手塚王子の側の陰謀だとでっち上げる。そしてそれを口実として、再びこの国に攻め込む。講和の架け橋として政略結婚するはずだった我らが姫君が、哀れにも誓いの言葉の最中に狙撃されるのだ。疲弊していたわが国の世論も変わるだろう・・・。休戦を解いて、再び戦争をしようと、な』

“何言ってるんだ・・・こいつら”
耳に入ってくる言葉の数々を、リョーガはとても信じられなかった。

『しかし、不二王女を殺してしまっては、わが国の王位継承者がいなくなりますが・・・』
『まだ幼いが、弟君がいるだろう。大臣である私が摂政として政治を執り行えばよい。必ずや再び戦争を始めさせる。それがわが国の生き残る道よ』

 リョーガは戦慄した。
 正直言って、大臣たちの話の半分も理解できなかった。
 唯一分かったことは、ひとつだけ。

(どうしたら、いいんだ)

 不二王女は、大臣に命を狙われている。










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