人魚姫 5



「姫様、そろそろ見えてまいります」
ガタンガタンと揺れる馬車の中で、白髪の老婆が、向かい側に座る少女に呼びかけた。
「・・・・・・」
「姫様。不二姫様、そろそろですよ。領地に入ったら国民がずらりと並んで姫様を待ち構えているでしょうから、窓からきちんとお顔をお見せになって、手をお振り下さいましね」
老婆の声に、不二と呼ばれた少女は大儀そうに顔をしかめた。
「・・・分かっているよ」
しぶしぶというふうに頷いた不二は、カーテンを開けて窓の外をちらりとのぞいた。すでに馬車は隣国の領地に入っており、のどかな緑の風景が広がっている。わずかに窓を開けると、近くの海からだろうか、潮のかおりが入ってきた。
不二はなんとも憂鬱そうに、むしろ忌々しげに、近づいてくる隣国の城壁を見上げたのだった。



凱旋門が開かれ、馬車が城壁の中に入った。
白いレンガの町並みが広がり、にぎやかな市場が軒を連ねている。そして、遠くに見える城まで、一直線に大通りが続いている。
大通りには、黒山の人だかりができていた。もうすぐ隣国から、この国の皇太子妃となる王女がやってくる。この国とは長らく敵対していた隣国の、唯一の王女である不二姫。国民はこの城下に集まり、花嫁の到着を今か今かと待っていた。
「・・・来たぞ!」
「馬車だ!」
民衆の中から、わっと歓声があがった。
黒塗りの豪奢な馬車が、栗色の立派な馬に引かれてやってくる。人垣は二つにわれ、みな固唾をのんで馬車が大通りへと入ってくるのを見守った。
馬の蹄の音が響く。ガタガタと音を立てて、今まさに馬車がやってきた。民衆は中に乗る人に一斉に注目した。隣国からやってきた姫君、国民たちからも絶大な人気を誇る、この国の聡明な若き王子の、妃となる姫君が到着された。

すっと静かに、馬車の窓が開いた。しんと町は静まり返る。
窓から、若い王女の顔がのぞいた。琥珀色の髪を揺らし、その髪と同じ色の瞳がのぞく。
国民たちがごくりと生唾を飲みこんだとき、不二姫はにっこりと微笑んで、白い手を人々に向かって振って見せた。

わああっ、と歓声が沸き起こった。
なんと美しい王女だ!
まるで花の精のような、美しい皇太子妃がやってきた!
「皇太子妃万歳!」
「未来の皇后陛下、ばんざい!」
民衆の人垣は大きなうねりとなり、走り行く馬車を見送った。
窓から手を振る不二姫は、来るときの憂鬱な顔など嘘のように、清純な微笑みを絶やすことはなかった。



「ごらんになりましたか、王子!あの国民たちの歓声を!」
「・・・ああ」
この国の大臣は、相好を崩して手塚の元に歩み寄った。
「不二王女はすでに大変な人気ですぞ!なにせあのお美しいご容貌、国民たちから愛されないはずがありません!」
大臣がすっかり相好を崩している中で、手塚はひとり厳しい表情を変えることはなかった。ただ黙々と、側近たちによって支度を手伝われている。
まもなく王女の乗った馬車は場内に入る。玉座の間にて、手塚は初めて未来の花嫁である王女と対面することになるのだ。
「王子、あなたもお会いになればすぐ気に入られるでしょう。真にこの世のものとは思えぬほどお美しい姫君ですぞ。そのような難しい顔をされることはありませぬ」
「・・・そのようなことは」
しかし手塚は、続く言葉を飲み込んで、黙々と装いを続ける。この国の正装である、白い大きな肩布をひらりと翻した。
「お支度整いました」
「ああ」
手塚は頷くと、そのまま大臣たちに背を向け、玉座の間に向かって歩き始めた。すでに父王も母王も控えていることだろう。
来週には、その玉座の間で結婚式が執り行われる。父王の体調は相変わらず思わしくなく、一刻も早い代替わりが望まれている。おそらく自分の戴冠式もまもなく行われることになるだろう。即位の前に妃を迎えるのがこの国の慣わしだった。この結婚はみんなに望まれている。絶対に破談になるようなことがあってはならない。
(たとえ、他に想う人があったとしても、か・・・)
手塚の脳裏には、おぼろげなある人の姿が浮かんでいた。
あの日、15の誕生日に、船上で催しを行ったとき。
沈没した船から投げ出された自分を救って、介抱してくれた、あの・・・。


“おい、手塚!”
はっと手塚が顔を上げると、そこには声なき声を発する、大切な友人の姿があった。
「・・・リョーガ」
“何だよ、シケた面しやがって”
リョーガはにかっと笑った。彼は言葉を発することができない。しかし、なんとなく意味のつかめるその表情とその瞳に、手塚は苦笑して肩の力をぬいた。
「どうしたリョーガ、こんなところで。また腹でも空いたか?」
“んなわけねえだろ。なんだよ、今日はずいぶんしゃれた格好じゃんか”
「なんだ、そんなに裾をつかんで。ああ、この服が珍しいか?これは、これから・・・あの方とお会いするから、そのための正装だ」
手塚の声にいつものような覇気がなく、表情も暗いことにリョーガが気づかないはずもなかった。これから手塚が会うのが結婚相手であること、そして手塚自身がそれを望んでいないことも、リョーガは昨夜聞いて知っていた。
しかしそれを顔には出さず、何も気づいていないかのように、リョーガはにっと笑ってみせた。
“しっかりしろよ。自分で決めたことだろ”
そんな励ましの言葉が聞こえたようで、手塚はふっと柔らかい表情になった。
「そうだ、リョーガ。お前も一緒に玉座の間に来ないか」
?と首をかしげるリョーガの手を、手塚はすっと取った。後からばたばたと追いかけてきた侍従長が、顔を真っ赤にして怒鳴った。
「王子!そのような下賤な者を玉座の間に、それも王女との謁見のときに立ち合わせるなど、とんでもな・・・!!」
「黙れ」
ぴしゃり、と手塚に切り捨てられ、侍従長はぐっと詰まった。
「行くぞ、リョーガ。堅苦しいばかりでつまらんかもしれんが」
“手塚・・・”
「来てくれ」
歩いていく手塚の横顔を、リョーガはじっと見守った。
何も言わないその顔の下で、リョーガが何とも言えず切ない表情をしたことに、手塚が気づくことはなかった。




宝石と絹に彩られた玉座には、すでに手塚の両親である国王とお后、そして数多の重臣たちがずらりと並んでいる。決して下品な装飾が施されているわけではないが、この国の豊かさを象徴するような美しい空間だった。
リョーガはさすがに手塚のそばにいることは許されず、大臣たちの陰に隠れるようにしてこっそりと立っていた。手塚は立派な様子で、国王の隣に立っている。
しゅるしゅる、と音もなくビロードのカーテンが開かれた。
ざわざわと賑わっていた玉座の間が、しんと静まり返る。
重厚な扉がギギギ、と開かれ、そこから王女が入場してきた。
大臣たちも、国王陛下も、身を乗り出してそれを覗き込んだ。
手塚も、そしてリョーガも。

隣国の正装である薄紫の衣装に身を包んだ若い王女が、静かにそこに現れ、膝を折った。
すっとその顔が上げられる。とたんに、玉座の間にため息が一斉にもれた。
ざわざわと、しかし遠慮深く人々のさざめき声が満ちる。
「不二でございます」
涼やかな声が響き渡ったとき、国王ははっと夢から覚めたかのように身を起こした。
「・・・あ、ああ。不二姫、お初にお目にかかる。話には聞いていたが、しかし本当に美しい方だ・・・」
国王の声はまだ夢から冷め切っていないようにおぼつかなかったが、誰もそれを気にする者はいなかった。それよりも、噂以上の王女の美しさにみな驚いて言葉も出なかったのである。

“・・・・・・”
離れたところに立っていたリョーガからも、その様子はよく見えた。
琥珀色の髪、と同じ色の淡い瞳。
透き通るような白い肌。
神に仕える巫女のような神聖で侵しがたい雰囲気が漂っている。
「おそれいります」
鈴が転がるような声で言った後、不二姫はにっこりと微笑んだ。みながほおとため息をついている。
しかし。リョーガは妙な違和感を覚えた。
“なんだ、あいつ・・・”
不二姫の微笑みは、作りもののようだ。闇を閉じ込めた暗い深海と、同じにおいがする。巫女のような雰囲気は、かえって誰にも近寄られないよう周囲を拒絶しているかのようだ。
重く冷たい警戒心。
誰も気づかないのだろうか?

“手塚・・・?”
リョーガは、国王の隣に立つ手塚の姿を見やった。手塚はまさに今、未来の花嫁に挨拶をするところだった。歩み寄り、手塚は佇む不二の手をとった。その動作に、リョーガはなぜか胸の奥が引き絞られるような気持ちがした。
しかしリョーガは、次の瞬間はっと目を見開いた。
手塚の表情。
それが、さきほど廊下で会ったときとはまったく違っている。
昨夜、結婚を望まないと言ったときの手塚の顔ではない。
“手塚・・・”
他人からすれば、それはいつもの厳しい表情にしか見えなかったかもしれない。しかし手塚はたしかに、頬をいつもより高潮させ、感動したようにぼおっとして不二の顔を見つめている。リョーガにはすぐに分かった。手塚は、完全に不二に目を奪われている。
まるで突然与えられた幸福に、驚いてどうしようもないというような顔。
「・・・お会いできて光栄です、不二姫」
厳かな声でそう言いながら、手塚は不二の手にうやうやしく口付ける。

リョーガはそのとき、たしかに見たのだ。
不二の顔が、たった一瞬だが、忌々しげにひそめられたのを。





「・・・リョーガ、ここにいたのか」
堅苦しい式典が終わり、手塚が自室に帰ってきたのは、すっかり日も暮れたころだった。
リョーガが振り返ると、手塚はわずかに疲れた様子ですぐそばの椅子に腰掛けた。仰々しい衣装の首元を緩めながら、ふうとため息をつく。
「・・・打ち合わせが長引いてしまった。式は来週だからな」
望んだ結婚ではない、と。昨夜の手塚はそう言っていた。王子という身分から、また一刻も早い王位継承のために、自分は結婚相手を選べる立場ではないのだと。
それなのに、どうだろう。手塚は長い打ち合わせで疲れてはいるようだったが、その顔は輝いている。抑えきれない喜びに耐え切れないという顔だ。
“・・・なんでだよ”
王子だから、義務で、仕方なく妻を娶るんだろ?
本当は嫌だって、昨日そう言ってたじゃねえかよ。
なんで、そんな嬉しそうな顔してるんだよ。
「・・・どうしたんだ、リョーガ?そんな不審そうな顔をして」
執務机の上にどっかりと腰掛け、じっと手塚を見つめるリョーガを見て、手塚は苦笑した。
「本当にお前は、“ものを言う目”を持っているな。お前は口がきけないが、お前の考えていることはいつも不思議と分かる」
ばさり、と重い肩布を取り外すと、手塚はいつもより少し饒舌に語り始めた。
「昨夜、俺はお前に話しただろう。この結婚に、俺が本心では迷いを抱いているということを。ワインを飲んでいたせいか、ついつい喋りすぎてしまったが」
“・・・ああ”
「その理由も、たしか話したな。誰にも言えないことだったが、俺には・・・ひそかに想う方がいた」
どきり、とリョーガの心臓が跳ねた。

「数週間前だ。俺の15の誕生日に、海の上で祝賀会が開かれた。この国は海に面しているおかげで、海の幸に常に恵まれながら豊かに発展を遂げてきた。海の神に感謝する意味もこめて、代々15の誕生日は船上で催しを行うのが伝統なんだ」
それは、まさか。
リョーガが思い起こしていると、手塚はふっと目を伏せ苦しげに語った。
「しかしあの日、座礁した船は沈没し、俺は海に投げ出された。波間に漂いながら俺は、為す術もなく炎に包まれる船を見ていた」
そうだ。夜の暗い海には船の残骸が漂い、闇に浮かび上がる赤々と燃え盛る炎はさながら地獄のような光景だった。
「しかしその俺を、救ってくれた人がいた」
それは、まさか。
あの日の。
リョーガは思い出していた。
あの日は、リョーガも15の誕生日だったのだ。
初めて海から顔を出すことが許された日。忘れるはずもない、自分の運命が変わった瞬間。
ごおごおと音を立てて焼け落ちる船。波間に漂っていた手塚を見つけたのだ。
忘れるはずもない記憶。それは、リョーガの中の一番大切な記憶。
俺はその恐ろしい場所で、こいつと出会ったんだ。
(あの日のこと・・・)
手塚は、覚えていたのだ。
漂いながら、手塚と自分は目が合った。手塚は自身のつかんでいた板切れを、自分の唯一の命綱をリョーガを助けるために突き出したのだ。それを見た瞬間、矢も立てもたまらずリョーガは手塚を陸まで運んだ。
あの日、手塚を救ったのは・・・

しかし、次に聞こえてきたのは信じられない言葉だった。

「どうやって陸に着いたかは覚えていない。しかし、砂浜に流れ着いた俺を見つけて、医者を呼んで介抱してくれた方がいた。それが今日来られたあの方、不二王女だ」
時間が止まったかのように、リョーガは動けなくなった。
手塚はまだ感動覚めやらぬという様子で、熱っぽい声で語る。
「あの方がいなければ、俺はこの世にはいなかっただろう。あの日一目見て以来、俺はずっと彼女のことが忘れられなかった。結婚を機にこんな気持ちはすべて消してしまおうと思っていたのに、まさかその相手が彼女だったとは」
手塚の言葉一つ一つが、鋭いナイフのようにリョーガの胸を突き刺していく。
頭の中が真っ白になっていく。
「聞けば王女は婚礼までの間、あの海辺の教会で修道女としてお過ごしになられていたらしい。あの日の朝、砂浜の俺を一番に見つけて下さったのは彼女だったそうだ。俺はなんという幸福に恵まれたのだろう。ずっと想っていた方と一緒になれるとは」
それは、とどめの一言だった。

違う、違う。
あの日、お前を助けたのは・・・

手塚。
覚えてたんじゃなかったのか。
あとからやってきた女、あいつのことしか覚えてないのか。

俺のことは、覚えてないのか。

胸がひどく痛んだ。言いようのない痛みに胸が締め付けられて、苦しいのか、悲しいのか、腹立たしいのか、自分でもよく分からなかった。
ただ、出来ることなら今すぐに手塚の顔をめちゃくちゃに殴って、執務机をひっくり返して、カーテンをびりびりに引き裂いて、窓ガラスを粉々に割ってやりたかった。

しかし、リョーガはそうはしなかった。かわりに、勢いよく立ち上がると、手塚の前を通り過ぎて執務室から出て行った。
「・・・リョーガ?!」
後から追う声が聞こえたが、リョーガはそのままどすどすと走り抜けた。
やがて誰も追ってこないのを確かめると、廊下の真ん中で、ずるずるとそのまま座り込んだ。
誰もいない廊下は、ひどく寒々しい。
ひどく冷たい。


ざああ、と波の音が聞こえた。
窓が開いていたのだ。リョーガは顔を上げ、そちらのほうを見た。
つんと香ってくる、これは何だろう。
ああ、これは潮のにおい。懐かしい、海のにおい。
海だ、海が。

今は、あんなに遠い。

今まで、人間の世界に来たことなんて何の後悔もしていなかった。
それなのに、今、急に。
猛烈に、帰りたくなった。








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