俺は、人間の仲間になるんだ。 たとえそれが、傍からすればどれほど愚かしいことでも。 永い寿命や平和な海の生活を失うことなんか、これっぽっちも惜しくなかった。 「・・・侍従長、大変です!あの方がまた食物庫に忍び込んで中のものを食い散らかして・・・!」 「ええい、またか!」 「侍従長どうしましょう、あの方が広間に飾ってあった彫像を落として壊しておしまいに・・・!」 「なに、あれは時価数億は下らん高価な品だぞ?!」 「侍従長、あの方が外で泥遊びをしたその靴で、玉座の絨毯の上を・・・!」 「急いで掃除せんか!!」 「侍従長、あの方が廊下を走り回る音がうるさいと城の者から苦情が・・・!」 すでに老齢の侍従長は、禿げ上がった頭を沸騰させてわめき散らした。 「ええい、これもすべて王子があのような訳の分からぬ者をお連れになるからだ・・・!!」 「・・・国光様、侍従長からもういい加減にしてくれと苦情が上がっておりますが・・・」 「爺や、そう言ってくれるな」 王子――手塚国光が苦笑していると、バタンと叩きつけるような音がして扉が開かれた。そこには件の侍従長が立っている。顔を真っ赤にした彼はツカツカと歩み寄ってきた。 「・・・王子、もういい加減にして頂きたい!一体何なのですか、王子がお連れになったあの者は!」 「あの者とは・・・リョーガのことか?」 分かっているのに確認する手塚に、侍従長は大きく頷いてバンと机を叩いた。その衝撃で机の上の書類がばらばらと舞い上がる。 「そうです!あの小僧、食料庫に忍び込んで食い荒らすわ、王宮の高価な調度品を壊すわ、さっきは玉座の絨毯を泥だらけにしてくれたのですぞ!なんたる無礼者か!」 「そう言うな、侍従長」 ふう、と息をついた手塚は、いきり立つ侍従長に視線を向けた。 「食料庫の物を食い荒らしたのは、腹が減っていたからだろう。彼は口がきけないから、腹が減ってもそれを伝えられなかったんだ。広間の彫像を壊したのだって、好奇心で触っていたら落としてしまっただけのこと。玉座に泥だらけの靴で入ったのも、そこがまさか玉座だとは知らなかったからだ。わざとやったことではないし、悪意もない」 「それだからたちが悪いのではありませんか!」 侍従長は再び机を殴りつけ、爺やは再び舞い上がった書類を拾い集めねばならなかった。 「あの者は、いったいどこの生まれなんです!王子が砂浜で見つけたときにはすでに口もきけず、哀れな者だというからこの王宮に置いたのに、およそ一般常識というものがまるでない!礼儀作法どころの問題ではない、まるで野生動物だ!」 「侍従長」 怒り狂う彼の気持ちも分からないではない、と苦笑しながら、手塚はぱたんと閲覧していた書類を閉じた。 「苦労をかけているのは承知しているが、どうかあいつが王宮の生活に慣れるまで、堪えてやってくれ」 「王子、なにをのん気な!あんな得体の知れない者を・・・!」 「侍従長」 今度の言葉はひどく静かだったが、その声色が変わったことに気付き、侍従長ははっとすくみ上がった。王子は決して横暴ではなく、普段はむしろ謙虚で生真面目な方ではあったが、15歳という年齢に似つかわしくない迫力を備えており時折こうしてはるか年上の人物すら圧倒させた。 「リョーガは、俺の大切な友人だ」 「・・・は」 「それに・・・」 「はい?」 言葉の語尾は、聞き取れるか聞き取れないかほどの声量で消えていった。 「・・・リョーガとは、以前にどこかで会ったことがあるような気がするんだ」 王宮の中でも、もっとも西に位置する塔の部屋。 そこに王子の執務室があった。大きく取られた窓からは眼下に広がる海が一望でき、特に夕日が沈む風景はこれ以上はないほどの絶景であった。 手塚はわずかな書類を抱え、その自室に入った。 窓際にぽつんと一人、腰掛けている人の姿がある。 「・・・やっぱりここにいたのか、リョーガ」 窓際の人物が、くるりとこちらを振り返った。リョーガは手塚を見ると、にっと悪戯な笑みを浮かべる。 「聞いたぞ、今日もあちこちでやらかしたらしいな。侍従長がかんかんに怒っていた」 リョーガはクックと笑った。“まあな”、という代わりのように。 “だってあのヤカン頭、ちょっとのことでも怒るんだぜ?やってらんねーよ” すとん、と軽やかに窓から降りたリョーガは、手塚のもとに歩み寄ってきた。手塚は執務机に座ると、とんとんと書類をそろえてファイルを開く。 “なんだよ、持ち帰り仕事かよ。大変だなあんたも” 覗き込んでくるリョーガに、手塚は幾分かリラックスした表情で言った。 「見てもお前が面白いと思うようなものではないぞ。昼間の仕事のやり残しだ」 侍従長の苦情やら説教やらを聞いていたぶん、わずかに残してしまった分だ。 「明日はまた明日のやることがあるからな。今夜もまた宴があるから、その前に終わらせておく」 ごそごそと机の引き出しを開ける手塚に、リョーガはひょいと手を出した。 “探し物はこれかよ?” 手の中には、羽ペンとインクがあった。手塚はわずかに微笑んで、「すまない」と受け取った。“いいってことよ”まるでそう言いたげに笑っているリョーガの瞳を見て、手塚はしみじみとした表情を浮かべる。 「お前は口をきけないが、本当に“ものを言う目”を持っているな」 机に向かい、書類と取り組む手塚を見ながら、リョーガは腕を上げてくわあと欠伸した。 大きな窓を見る。夕日がちょうど、海に沈んでいくところだ。 今日も、一日が終わる。 あっという間だ。 人間の生活というのは、なるほど噂どおり窮屈なものらしい。 リョーガが海を捨て、人魚である自分も捨てて王宮で暮らし始めて一週間が過ぎた。 人間というのは、特にこの王宮という場所は異様なまでに決まりごとが多くリョーガにとっては厄介だった。 食事の時間から寝る時間まで、すべて制約がある。食いたいときに食い、眠いときには眠れた海の中とは大違いだ。 それにリョーガがどんなに嫌がっても、ひらひらした洋服を着せられるし、熱い湯は苦手なのに風呂にも入らされる。王子の客人ということで実に丁重なもてなしを受けているのだが、あいにくリョーガはそれを実感できるほど人間社会のことは知らない。 (・・・人間も、なかなか面倒なもんだなあ) しかしリョーガは、自分のことより机に向かう王子を見て、特にそう思うのだ。 お城の王子様というのは、下々の者たちからすれば夢のような豪華な暮らしをしているらしい。食い物には困らないし、身の回りのことは何でも召使いがやってくれる。手塚の着ている服だって、見た目は質素だが高価な材質を使っているし、正装するときはきらびやかな宝石を身に着ける。 けれど、リョーガの目にする手塚は、いつもどこか疲れている。 王子というのは、それでいてなかなか気の休まるときがないらしい。朝から晩まで四六時中、お付の者たちの目が光っているから、気が抜けるときがないらしいのだ。若い王子も、そろそろ王様の助けとならなければならない年頃。言うほど気楽な生活ではなく、こなさなければならない仕事も山のようにある。毎日遊びに明け暮れたりする暇もないようだ。それは王子自身の真面目な性格にもよるのだろうが。 唯一、夕方この執務室に帰ってくるときが、王子が一人になれるときだという。 この一週間、毎日疲れた顔でこの部屋に戻ってくる王子が、少し心配だった。 疲れだけではない。 王子が何か、悩みを抱えているように見えて。 そっと、リョーガは手塚の顔に手を伸ばした。 ひんやりとした手が触れて、手塚はふっと微笑んだ。 「どうした、リョーガ?」 “働きすぎなんだよ、王子サマ。ちっとは休めっつーの” 魔女との契約で、リョーガの声は奪われている。だからリョーガは手塚に何の言葉も伝えられない。 「・・・心配してくれているのか」 “・・・そうだよ” けれど、こうして目を見るだけでも、通じることはあった。 だからリョーガはそれを不便だと思うことはなかった。 疲れた顔をして帰ってくる王子が、こうして自分と顔を合わせれば、安心したような表情を浮かべる。自分といるとき、王子は周りの視線からも雑務からも解放されて、リラックスしている。 それだけで、リョーガは満足だった。こうした日々がずっと続いていけばいいと思った。 その夜。王宮では、大勢の客を招いた盛大な舞踏会が催された。 派手な催し物が好きではない王子も、今日はどこか楽しそうに見えた。そしてリョーガはその何倍も、楽しい気持ち一杯で臨んだのだ。 舞踏会は、リョーガが手に入れた“足”の見せ場だった。 魔女のとの契約によって手に入れた、人間の足。 その足の力を惜しみなく発揮できるのが、舞踏会だった。 リョーガの見せる踊りは、それは見事なものだった。 そこいらにいるどんな人間よりも、元から足を持っていた者たちよりもずっと美しく、軽やかに、リョーガは踊って見せるのだ。 王子が珍しく舞踏会を楽しみにしていたのは、このためだった。 厄介者とリョーガを蔑んでいた侍従長すら、あんぐりと口を開けてその光景に見とれていた。あわよくば王子に近づこうとしていた娘達も、恥じ入って壁へと張り付いてしまった。 まるで、背中に羽根が生えたようだ。 くるくると宙を舞い、地面に落ち着く間もないほど軽やかにステップを踏むその足先。 舞踏会は、リョーガの独壇場だった。 その華麗な踊りに、誰もがため息をつき、惜しみない拍手を送った。 一礼して下がるリョーガに、手塚が歩み寄った。 見事だった、と肩を叩く手塚に、リョーガは嫌味のない笑顔でにっこりと笑い返した。 本当は歩くたびに、魔女からもらった足はナイフで突き刺されるような痛みが走った。 そのあまりの痛みに、リョーガは普段極力歩かないようにして、手塚の執務室でも椅子や窓辺に腰掛けていたほどだ。 しかしリョーガは、決してそれを顔に出すことはなかった。 舞踏会でのリョーガは、手塚の前で何度でも華麗に踊って見せた。それは美しい笑顔を浮かべて。 夢のような一夜が瞬く間に過ぎていった。 ザー・・・ 波の音が聞こえる。 執務室に帰ったリョーガは、舞踏会の礼装のままで、テラスに出ていた。 柵に両手をかけて、眼下に広がる海を眺めた。 王子の執務室からは海がよく見える。今日は月夜だが、海面が月明かりに照らされてきらきらと光っているのがよく見える。懐かしい波の音も、潮のにおいも、切り立った崖の上のこの部屋までよく届いた。 “海って、上から見るとこんなふうに見えるんだな・・・” 人魚として暮らしていた頃は、決して見られなかった光景を目にしながら、リョーガは潮風に髪の毛を揺らしていた。 夜の空を映し出す海は闇色に光って、昼間とはまた違った趣がある。 こうして人間の世界に暮らしだした今も、リョーガはこうして海を眺めるのが好きだった。いや、人魚だった頃よりも今のほうが、リョーガは海を好きになっていた。 一週間前まではたしかにあの海の奥底で暮らしていたのに、なんだか今は遠い昔のように思える。寄せては返す波の音が、潮のにおいが、故郷を思い出させる。 懐かしい気持ちに浸っているときだった。 テラスのガラス戸が開かれ、背後から人の気配がした。 「リョーガ」 手塚だ。彼もまた、宴を抜け出してきたのだろうか。礼装のままだった。 「お前は本当にこの場所が気に入りだな」 しょっちゅうこうして海を眺めているリョーガを知っているのだ。 「海が好きなんだな。そういえば、気を失っていたお前を見つけたのも浜辺だったか」 手塚はそう言いながら、リョーガの隣にやってきて柵にもたれかかった。 「・・・まだ、昔のことは思い出せないか?」 どこから来たのだ、そう問われるたび、リョーガは首を振った。相手は勝手に記憶を失っているのだと思い込んでくれた。まさか人魚であったなどと言えるわけもないし、どのみちそれを伝える言葉をリョーガは持っていない。 また首を振るリョーガに、手塚はそうか、と短く返した。 夜の海を見つめる手塚の瞳は、なぜか物思いに沈んでいるようだった。 どうしたんだ、何かあったのか。 そう問いかけることが出来ない代わりに、リョーガは自然と手塚のもとに歩み寄り、その顔に触れた。 何か伝えたいことがあるとき、リョーガは決まってこうして、手塚の顔にそっと触れた。手塚はいつも正確にその意を汲み取って答えてくれた。言葉もないのによく分かるものだと思うが、手塚曰く「お前は“もの言う目”を持っているから」らしい。 手塚は一度リョーガを見つめると、それから不意に背中を向けて部屋に戻った。リョーガが不思議がっていると、手塚は再びテラスに戻ってきた。その手にはワイングラスが二つ握られている。 その片方をリョーガに渡すと、手塚は黙って瓶の酒を注いだ。透明な海水のような酒がとろとろとグラスに流れ込んだ。 手塚は自分もグラスを傾けながら、じっと海を見つめていた。 どれほど経ったか、手塚は不意にぽつりと漏らし始めた。 「・・・父上の容態が、あまり思わしくない。大臣たちはなるだけ早急に代替わりをと言っているし、父上もそう望んでおられるようだ」 15歳の誕生日を迎えた皇太子は、目を伏せていた。聞き取れるか取れないかほどだったが、軽くため息をついていたようだった。 「いずれ、その日が来ることは分かっていたんだがな。いざとなると・・・やはり、正直気が重い話だ。自分がこの国の、国王となるのは」 酒の力も手伝ってか、手塚は珍しく饒舌で、憂いを帯びた顔で訥々と話した。 「父は偉大な方だった。果たして、俺のような若輩者が父のような賢帝となれるのか、この国を守っていけるのかが不安だ」 そういう手塚の姿が、不意に年相応の少年に見えて、リョーガはぽんと背中を叩いた。大丈夫だよ、とそう言いたくて。伝わったのか、手塚もわずかに微笑んだ。 気持ちを切り替えるように手塚は体を起こすと、ふっと背筋を伸ばした。 「気弱になっている暇はないな。もうすぐ、守るべきものが増えるのだから」 “?” 首を傾げたリョーガに、手塚はああと思い至ったように話した。 「そうだ、お前にはまだきちんと話していなかったな。大切な友人なのに」 その後手塚の口から発せられた言葉に、リョーガは思わずグラスを取り落とした。 「明日、俺の妃となる人が隣国からやってくる。結婚式は来週になるだろうな。侍従長たちは今、最終調整のために大忙しだ」 リョーガの取り落としたグラスは、柵を越えてはるか真下――海へと落下していった。その落ちた先がどうなったのか、リョーガは呆然として見ている暇もなかった。 手塚はそんなリョーガの姿には気付かずに、顔を伏せて呟いた。 「隣国の姫君との結婚は、前から決まっていたことなんだがな・・・何分、まだお会いしたこともない。それにひとつ、残念なことがあるんだ」 「・・・俺には今、心から思う人がいる。願わくば、その人ともう一度お会いしてみたかった。結婚の決まっている俺にはどのみち、叶わない思いだがな」 自嘲気味にそう呟く手塚の声を聞きながら、リョーガの頭にはあることがよみがえっていた。 魔女との契約。 声と引き換えに人間の体を手に入れた、魔法の薬。 ただし、魔女はひとつだけ条件を出したのだ。 『ただし、この薬にはひとつ、条件がある』 いいぜ、なんだよ。そう問い返したリョーガに、魔女はニタリと笑ってこう告げた。 『もし王子が、お前ではなく心から愛する人間と結婚すれば、その瞬間たちまちお前は海の泡となって消えてしまうだろうよ』 INDEX BACK NEXT |