日の光など微塵も届かない、はるか海の底。 ごつごつした海底を這うように泳ぎながら、リョーガはある場所を目指していた。 気ままで遊び好きな人魚たちでも、滅多に近づくことのない。 深い深い海の中の洞窟。 そこは、恐ろしい魔女の住みか。 「・・・・・・」 洞窟に入ると、リョーガは無言でひたすら進み続ける。リョーガ自身も始めて足を踏み入れる、どこまで続くのかも分からない長い長い洞窟。 向かう先は、黒々とした闇に覆われていた。 まるで、これからの未来を暗示するかのように。 どれほど泳ぎ続けただろう。 いくら突き進んでも終わりのない洞窟に、だんだんとリョーガは焦れてきた。 「どこにいやがるんだよ・・・魔女め」 チッと舌打ちして、リョーガは元来たほうを振り返った。 そして、「あっ」と声を出して驚いた。 後ろには、洞窟の入り口が見えている。あれほど泳いだのに、まるでまったく進んでいなかったかのように。 「魔女め・・・術をかけてやがるのか。気安く自分の住処に入られないように」 それなら、こちらにも考えがある。 リョーガはごぽり、と泡を吐くと、黒々とした洞窟の奥に向かって叫んだ。 「おい、魔女!聞こえてんのかよ!」 リョーガの声が、洞窟の中にわんわんとこだました。 「・・・俺は、あんたに頼みがあんだよ。姿を現してくれ」 洞窟の中は、不気味な静寂に包まれた。 「もちろん、ただとは言わねえよ。願いを叶えてくれたら、そのかわりにあんたの望むものを差し出そう」 そう言った瞬間、リョーガの周りの岩壁は音を立てて崩れ始めた。 「なんだ・・・っ?」 ゴゴゴゴ・・・と音をたて、洞窟が大きく横へ広がり始める。目の前からまばゆいほどの光が差し込み、リョーガを照らし出した。 リョーガが驚きのあまり、目をむいている間に。 そこにはぼんやりと青白い光に包まれた、ぽっかりとした空間が出来上がった。 空間の真ん中に、大きな岩が盛り上がった。 そのうえに、頭からすっぽりと布を被った、老婆が座っている。 手の中の水晶玉を撫でさすりながら、皺くちゃの老婆はちらりとリョーガを一目見て、クックと不気味に笑った。 『・・・対価を支払うというなら、不満はねえだ。さあ、何の用だね』 不思議な声だった。耳からではなく、まるで波のように頭の中に直接伝わってくる。 しかしリョーガは臆せず、むしろ、余裕のように笑ってみせて、こう言った。 「俺を、人間にして欲しい」 ごぽり、と魔女の口から泡が漏れた。 クック、と水を伝わって笑い声が響く。 『・・・これはまた、おかしなことを言う口だ』 「あん?そうか?」 臆しないリョーガに、魔女はますます面白そうに笑いたてる。 『なんとまあ面妖な。魚が、ヒトになりたがるとは』 「魚じゃねえよ。こちとら、体の上半分は人間なんだぜ」 ムッと言い返すリョーガに、『いや、お前は魚だよ』と魔女は笑った。 『・・・人魚の寿命は300年。人の寿命はその半分の、また半分。魚は広い海を自由に泳ぎまわれるが、人は狭い陸の上でしか生きられぬ。なんでそのような不自由なヒトに、わざわざなりたがる』 「・・・さあな」 は、とリョーガは笑った。 肩をすくめて、冗談とも本気ともつかぬ、いつもの調子で。 「ただ俺は、人間の世界を見てみたいだけだ。人間ってどんな生き物なのか。足があること以外に、おれたち人魚とどこが違うのか。俺は海の中とは違う世界を、見てみたいだけだよ」 魔女は皺くちゃの手で、青白く光る水晶玉を撫で回した。 洞窟を包む、ぼんやりとした青白い光は、この水晶球から発せられていた。 『・・・お前がそう思うようになったのは、一人の人間の男に出会ったからだね』 「・・・・・・」 リョーガは答えなかった。 かわりに、口角をくっと上げただけだった。 『いいだろう、お前の願いを叶えてやろう。ただし、相応の代金をもらうぞ』 「かまわねえよ。それがフェアってもんだろ」 『もう一度聞くぞ。ひとたび人間になれば、二度と人魚の体に戻ることも、海に帰ることも出来んぞ。それでもいいのかえ?』 「ああ、いいぜ」 魔女の口から、ごぽりと泡が漏れた。 「支払う代償は、お前のその声」 しん、と不気味に魔女の声が響き渡った。 枝のような皺だらけの細い指が、リョーガの喉を指差した。 「OK。分かったよ」 リョーガは笑っていた。 眼を細め、薄ら笑いを浮かべている。声を失うと聞いても、何の動揺も見せずに。 魔女は、懐から小びんを取り出した。 ガラスの小さなその小瓶には、小指の先ほどのわずかな液体が入っていた。その液体は、海の色のように青く光っている。 否、青く見えたのはリョーガの錯覚だったのかもしれない。見ようによっては、赤にも橙色にも見える。不思議な色をしていた。 『・・・これをほんの一滴飲めば、お前は人間になれる』 「そりゃ、ありがたいね・・・」 薬の持つ、不思議な色の輝き。 ヒトになれる薬。 リョーガはしばし呆然と、その小びんに見入っていた。 『なるだけ陸に近づいてから、これを飲むんだね。舐めるぐらいで十分だ。たちどころにお前の美しい魚のひれは消えうせ、人間の足が生えるだろうよ』 魔女の口から、ごぽりと泡が漏れた。 「ただし、この薬には一つ、条件がある」 魔女の洞窟から帰る道すがら、リョーガは黙って泳ぎ続けた。 ついに、人間になれる薬を手に入れた。 これを飲めばもう二度と、海に帰ることは出来ない。 「・・・この海とも、今日でおさらばだな」 感慨ともつかない、不思議な気持ちがリョーガの胸を覆っていた。 これを飲めば、もう人魚には戻れない。 それでも、もう引き返すことは出来ない。 もう家に帰るつもりもなかった。 このまま、朝の訪れと同時に陸へと上がるつもりだ。 出来るなら、あの男を送り届けたあの砂浜へ。 そして、自分は人間の仲間入りをするんだ。 「リョーガ」 背後からかけられた声に、驚いて振り返った。 そこには、自分と同じ顔をした少年がいた。 弟が。 「・・・チビスケ、お前」 「どこに行くの」 「チビスケ」 水しぶきも立てずに、リョーマはリョーガのすぐ側まで泳いできた。 リョーマはその大きな目を見開いて、リョーガの手の中の小びんを見つめた。それだけで、賢い彼はすべてを悟ったようだった。眼を細め、厳しい顔で、リョーガを睨み付けた。 「・・・アンタの15の誕生日。その日初めて海の上の世界を見てから、アンタはおかしくなってた。一日中ぼーっとして、何度もふらふらと海面へあがって。それで、がっかりしたみたいにまた降りてくる。その繰り返し。あの日に何かあったんだなって、俺気付いてたよ」 「・・・・・・」 「アンタは、もうここへは帰ってこないつもりなんだね」 「・・・・・・」 「人間の世界に、行ってしまうつもりなの」 返事の代わりに、沈黙が流れた。 それは予想していたことであったが、改めて衝撃を受けたように、リョーマは目を伏せた。悔しさや悲しみの入り混じった弟の表情を、リョーガは無言で見つめた。 「・・・小さい頃から、アンタってそうだったよね」 横を向いて、こみ上げてくる何かを誤魔化すように、リョーマは笑った。 「いつもニヤニヤ笑ってるくせに、なんかつまんなそうな顔してるんだ。俺の兄貴のくせに、俺が何やったって敵わないのにいつも、まるで自分の居場所はここじゃないとでも言いたげな顔してて」 リョーマは苛立ちをぶつけるように言った。そんな弟の顔を、兄であるリョーガはじっと見守っていた。 「俺、分かってたよ。ずっと思ってた、そんな予感がしてたんだ。アンタはきっといつか、ここじゃないどこかへふらっと行ってしまうんだって」 「・・・チビスケ」 静かにそう呟いたリョーガに、リョーマはきっと顔を上げて声を張り上げた。 「なんでだよ!なんで人間の世界になんか行くんだよ。人間なんかの何がいいんだ。海の中なら俺たちは、何の制約もなく毎日平和に暮らしていける。毎日うまいもの食って、追いかけっこして、眠いときはぐーすか眠って、天気のいい日は海面に顔出して。それが人魚の生活だろ」 答えないリョーガに、リョーマは頭を振った。 「悠久に近い時を、ずっとそうして生き続けることが出来るのに。なんでだよ、なんで。なんで人間になんかなりたがるんだよ」 「・・・わりーな、チビスケ」 リョーガは、ぽつりと呟いた。 絶望的な言葉を聞いたように、リョーマの目が見開かれた。 その弟の顔を見ても、リョーガは笑うしかなかった。 弟の言い分のほうが、何倍も正しい。 しかし、リョーガは思う。 きっと己が嫌悪したものは、そうした平和な生活だったのだ。 待ち受けるものが、たとえ辛く苦しく、短い生涯でも。 俺は人間の世界に行きたかった。 わざわざ自分から、辛く苦しいほうに行きたがるなんて。 きっと自分は始めから、どこか破綻していたのだ。 それでも、もう決めてしまった。 決めてしまったのだ。 あの日、板切れを自分に向かってさしだした、溺れかけの男に出会ったときに。 「・・・お別れだ、チビスケ」 消えるような声で告げたリョーガに、弟はばっと顔を上げた。 信じられないというように、顔をくしゃくしゃにして。 「待って・・・!!」 リョーマは精一杯、リョーガに向かって手を伸ばした。 けれど兄は、それをすり抜けるようにして行ってしまう。ぐんぐんぐん、高い海の上へと昇っていく。 「待って、待ってリョーガ!」 初めて、弟の顔が泣きそうに歪んだ。 それを見て、リョーガは笑いかける。そう、こんなときでさえ。 リョーガは薄笑いを浮かべていた。 見ようによっては酷薄とも取れるような、そんな笑みを向けて、リョーガは最後に手を振った。 「じゃあな、リョーマ」 その瞬間、リョーマの伸ばした腕は力を失い、するすると力なく落ちた。 リョーガはもう振り返らなかった。 海の上へと向かって、その体はどんどん小さくなっていく。ぐんぐんと登るリョーガの魚の尾っぽすら、もう豆粒ほどしか見ることができない。 さよなら、だ。 「・・・卑怯者」 下を向いて、リョーマは小さく呟いた。 ―― こんなときに、初めてまともに名前を呼ぶなんて。 吸い込まれるように、リョーガの体は地上へと上がっていく。 懐から取り出した小びんの蓋を、ポンと抜き取った。それはしゅるしゅるとびんから抜け出て、海の中へ溶けていく。 「・・・うわ、やべ!!」 慌ててリョーガは、びんの先に口をつけた。 あの不思議な色をした液体が、喉を通って体の中に入ってくる。 燃えるような熱さだ。 体の奥底から、何かが造りかえられていく。 ―― 熱い・・・・・・!! そう感じた瞬間、リョーガの意識は光に包まれた。 コー、コーとカモメの鳴く声が聞こえた。 そして砂浜に打ち上げられる、寄せては返す波の音。 まぶしい。 太陽の光。 そして、背中が熱い。じゃりじゃりとした砂の感触が全身にある。 「・・・う?」 リョーガはおそるおそる瞳を開けた。 まぶしいばかりの太陽と、突き抜けるような青空が前面に広がっていた。 そして。 「・・・大丈夫か」 一人の男の声が、耳に届いた。 「・・・王子、王子!どちらにいらしゃるのです・・・」 「爺、こっちだ。人が倒れている。今目が覚めたようだが、すぐに医者を呼んでくれ」 リョーガは大きく目を見開いた。 男はそんなリョーガを気遣いながら、膝をついてその体を抱き起こした。 「海で溺れたのか?もう大丈夫だ、ここは陸地だ。自分の名前は言えるか?」 答えようとして、喉がぐっと詰まった。 声が、出ない。 あの魔女は代償を持っていったのだ。 と、いうことは・・・。 「どうした?」 こちらを覗き込んでくる青年。 明らかに身分の高い、飾り気はないが質のいい白い装束を着た男は、落ち着いた表情でじっとリョーガの答えを待っていた。 厳しく誇り高い、白皙の美貌。 その顔を見て、リョーガは驚きのあまり何の反応を返すことも出来なかった。 それはたしかに、あの日リョーガが助けた男だったのだ。 INDEX BACK NEXT |