人魚姫 3



日の光など微塵も届かない、はるか海の底。
ごつごつした海底を這うように泳ぎながら、リョーガはある場所を目指していた。

気ままで遊び好きな人魚たちでも、滅多に近づくことのない。
深い深い海の中の洞窟。
そこは、恐ろしい魔女の住みか。

「・・・・・・」

洞窟に入ると、リョーガは無言でひたすら進み続ける。リョーガ自身も始めて足を踏み入れる、どこまで続くのかも分からない長い長い洞窟。
向かう先は、黒々とした闇に覆われていた。
まるで、これからの未来を暗示するかのように。



どれほど泳ぎ続けただろう。
いくら突き進んでも終わりのない洞窟に、だんだんとリョーガは焦れてきた。
「どこにいやがるんだよ・・・魔女め」
チッと舌打ちして、リョーガは元来たほうを振り返った。
そして、「あっ」と声を出して驚いた。
後ろには、洞窟の入り口が見えている。あれほど泳いだのに、まるでまったく進んでいなかったかのように。
「魔女め・・・術をかけてやがるのか。気安く自分の住処に入られないように」
それなら、こちらにも考えがある。
リョーガはごぽり、と泡を吐くと、黒々とした洞窟の奥に向かって叫んだ。
「おい、魔女!聞こえてんのかよ!」
リョーガの声が、洞窟の中にわんわんとこだました。
「・・・俺は、あんたに頼みがあんだよ。姿を現してくれ」
洞窟の中は、不気味な静寂に包まれた。
「もちろん、ただとは言わねえよ。願いを叶えてくれたら、そのかわりにあんたの望むものを差し出そう」

そう言った瞬間、リョーガの周りの岩壁は音を立てて崩れ始めた。
「なんだ・・・っ?」
ゴゴゴゴ・・・と音をたて、洞窟が大きく横へ広がり始める。目の前からまばゆいほどの光が差し込み、リョーガを照らし出した。
リョーガが驚きのあまり、目をむいている間に。
そこにはぼんやりと青白い光に包まれた、ぽっかりとした空間が出来上がった。

空間の真ん中に、大きな岩が盛り上がった。
そのうえに、頭からすっぽりと布を被った、老婆が座っている。
手の中の水晶玉を撫でさすりながら、皺くちゃの老婆はちらりとリョーガを一目見て、クックと不気味に笑った。

『・・・対価を支払うというなら、不満はねえだ。さあ、何の用だね』

不思議な声だった。耳からではなく、まるで波のように頭の中に直接伝わってくる。
しかしリョーガは臆せず、むしろ、余裕のように笑ってみせて、こう言った。


「俺を、人間にして欲しい」



ごぽり、と魔女の口から泡が漏れた。
クック、と水を伝わって笑い声が響く。
『・・・これはまた、おかしなことを言う口だ』
「あん?そうか?」
臆しないリョーガに、魔女はますます面白そうに笑いたてる。
『なんとまあ面妖な。魚が、ヒトになりたがるとは』
「魚じゃねえよ。こちとら、体の上半分は人間なんだぜ」
ムッと言い返すリョーガに、『いや、お前は魚だよ』と魔女は笑った。
『・・・人魚の寿命は300年。人の寿命はその半分の、また半分。魚は広い海を自由に泳ぎまわれるが、人は狭い陸の上でしか生きられぬ。なんでそのような不自由なヒトに、わざわざなりたがる』
「・・・さあな」
は、とリョーガは笑った。
肩をすくめて、冗談とも本気ともつかぬ、いつもの調子で。

「ただ俺は、人間の世界を見てみたいだけだ。人間ってどんな生き物なのか。足があること以外に、おれたち人魚とどこが違うのか。俺は海の中とは違う世界を、見てみたいだけだよ」


魔女は皺くちゃの手で、青白く光る水晶玉を撫で回した。
洞窟を包む、ぼんやりとした青白い光は、この水晶球から発せられていた。

『・・・お前がそう思うようになったのは、一人の人間の男に出会ったからだね』
「・・・・・・」
リョーガは答えなかった。
かわりに、口角をくっと上げただけだった。
『いいだろう、お前の願いを叶えてやろう。ただし、相応の代金をもらうぞ』
「かまわねえよ。それがフェアってもんだろ」
『もう一度聞くぞ。ひとたび人間になれば、二度と人魚の体に戻ることも、海に帰ることも出来んぞ。それでもいいのかえ?』
「ああ、いいぜ」
魔女の口から、ごぽりと泡が漏れた。

「支払う代償は、お前のその声」


しん、と不気味に魔女の声が響き渡った。
枝のような皺だらけの細い指が、リョーガの喉を指差した。

「OK。分かったよ」

リョーガは笑っていた。
眼を細め、薄ら笑いを浮かべている。声を失うと聞いても、何の動揺も見せずに。

魔女は、懐から小びんを取り出した。
ガラスの小さなその小瓶には、小指の先ほどのわずかな液体が入っていた。その液体は、海の色のように青く光っている。
否、青く見えたのはリョーガの錯覚だったのかもしれない。見ようによっては、赤にも橙色にも見える。不思議な色をしていた。

『・・・これをほんの一滴飲めば、お前は人間になれる』
「そりゃ、ありがたいね・・・」
薬の持つ、不思議な色の輝き。
ヒトになれる薬。
リョーガはしばし呆然と、その小びんに見入っていた。
『なるだけ陸に近づいてから、これを飲むんだね。舐めるぐらいで十分だ。たちどころにお前の美しい魚のひれは消えうせ、人間の足が生えるだろうよ』

魔女の口から、ごぽりと泡が漏れた。


「ただし、この薬には一つ、条件がある」











魔女の洞窟から帰る道すがら、リョーガは黙って泳ぎ続けた。
ついに、人間になれる薬を手に入れた。
これを飲めばもう二度と、海に帰ることは出来ない。

「・・・この海とも、今日でおさらばだな」

感慨ともつかない、不思議な気持ちがリョーガの胸を覆っていた。
これを飲めば、もう人魚には戻れない。
それでも、もう引き返すことは出来ない。

もう家に帰るつもりもなかった。
このまま、朝の訪れと同時に陸へと上がるつもりだ。

出来るなら、あの男を送り届けたあの砂浜へ。
そして、自分は人間の仲間入りをするんだ。




「リョーガ」


背後からかけられた声に、驚いて振り返った。
そこには、自分と同じ顔をした少年がいた。
弟が。

「・・・チビスケ、お前」
「どこに行くの」
「チビスケ」
水しぶきも立てずに、リョーマはリョーガのすぐ側まで泳いできた。
リョーマはその大きな目を見開いて、リョーガの手の中の小びんを見つめた。それだけで、賢い彼はすべてを悟ったようだった。眼を細め、厳しい顔で、リョーガを睨み付けた。

「・・・アンタの15の誕生日。その日初めて海の上の世界を見てから、アンタはおかしくなってた。一日中ぼーっとして、何度もふらふらと海面へあがって。それで、がっかりしたみたいにまた降りてくる。その繰り返し。あの日に何かあったんだなって、俺気付いてたよ」
「・・・・・・」
「アンタは、もうここへは帰ってこないつもりなんだね」
「・・・・・・」
「人間の世界に、行ってしまうつもりなの」

返事の代わりに、沈黙が流れた。
それは予想していたことであったが、改めて衝撃を受けたように、リョーマは目を伏せた。悔しさや悲しみの入り混じった弟の表情を、リョーガは無言で見つめた。

「・・・小さい頃から、アンタってそうだったよね」
横を向いて、こみ上げてくる何かを誤魔化すように、リョーマは笑った。
「いつもニヤニヤ笑ってるくせに、なんかつまんなそうな顔してるんだ。俺の兄貴のくせに、俺が何やったって敵わないのにいつも、まるで自分の居場所はここじゃないとでも言いたげな顔してて」
リョーマは苛立ちをぶつけるように言った。そんな弟の顔を、兄であるリョーガはじっと見守っていた。
「俺、分かってたよ。ずっと思ってた、そんな予感がしてたんだ。アンタはきっといつか、ここじゃないどこかへふらっと行ってしまうんだって」

「・・・チビスケ」

静かにそう呟いたリョーガに、リョーマはきっと顔を上げて声を張り上げた。
「なんでだよ!なんで人間の世界になんか行くんだよ。人間なんかの何がいいんだ。海の中なら俺たちは、何の制約もなく毎日平和に暮らしていける。毎日うまいもの食って、追いかけっこして、眠いときはぐーすか眠って、天気のいい日は海面に顔出して。それが人魚の生活だろ」
答えないリョーガに、リョーマは頭を振った。
「悠久に近い時を、ずっとそうして生き続けることが出来るのに。なんでだよ、なんで。なんで人間になんかなりたがるんだよ」

「・・・わりーな、チビスケ」
リョーガは、ぽつりと呟いた。
絶望的な言葉を聞いたように、リョーマの目が見開かれた。

その弟の顔を見ても、リョーガは笑うしかなかった。

弟の言い分のほうが、何倍も正しい。
しかし、リョーガは思う。
きっと己が嫌悪したものは、そうした平和な生活だったのだ。
待ち受けるものが、たとえ辛く苦しく、短い生涯でも。
俺は人間の世界に行きたかった。

わざわざ自分から、辛く苦しいほうに行きたがるなんて。
きっと自分は始めから、どこか破綻していたのだ。

それでも、もう決めてしまった。
決めてしまったのだ。


あの日、板切れを自分に向かってさしだした、溺れかけの男に出会ったときに。


「・・・お別れだ、チビスケ」

消えるような声で告げたリョーガに、弟はばっと顔を上げた。
信じられないというように、顔をくしゃくしゃにして。
「待って・・・!!」
リョーマは精一杯、リョーガに向かって手を伸ばした。
けれど兄は、それをすり抜けるようにして行ってしまう。ぐんぐんぐん、高い海の上へと昇っていく。

「待って、待ってリョーガ!」

初めて、弟の顔が泣きそうに歪んだ。
それを見て、リョーガは笑いかける。そう、こんなときでさえ。
リョーガは薄笑いを浮かべていた。

見ようによっては酷薄とも取れるような、そんな笑みを向けて、リョーガは最後に手を振った。



「じゃあな、リョーマ」


その瞬間、リョーマの伸ばした腕は力を失い、するすると力なく落ちた。
リョーガはもう振り返らなかった。
海の上へと向かって、その体はどんどん小さくなっていく。ぐんぐんと登るリョーガの魚の尾っぽすら、もう豆粒ほどしか見ることができない。

さよなら、だ。

「・・・卑怯者」

下を向いて、リョーマは小さく呟いた。

―― こんなときに、初めてまともに名前を呼ぶなんて。








吸い込まれるように、リョーガの体は地上へと上がっていく。
懐から取り出した小びんの蓋を、ポンと抜き取った。それはしゅるしゅるとびんから抜け出て、海の中へ溶けていく。
「・・・うわ、やべ!!」
慌ててリョーガは、びんの先に口をつけた。
あの不思議な色をした液体が、喉を通って体の中に入ってくる。

燃えるような熱さだ。
体の奥底から、何かが造りかえられていく。

―― 熱い・・・・・・!!

そう感じた瞬間、リョーガの意識は光に包まれた。









コー、コーとカモメの鳴く声が聞こえた。
そして砂浜に打ち上げられる、寄せては返す波の音。

まぶしい。
太陽の光。
そして、背中が熱い。じゃりじゃりとした砂の感触が全身にある。

「・・・う?」

リョーガはおそるおそる瞳を開けた。
まぶしいばかりの太陽と、突き抜けるような青空が前面に広がっていた。

そして。

「・・・大丈夫か」

一人の男の声が、耳に届いた。

「・・・王子、王子!どちらにいらしゃるのです・・・」
「爺、こっちだ。人が倒れている。今目が覚めたようだが、すぐに医者を呼んでくれ」

リョーガは大きく目を見開いた。
男はそんなリョーガを気遣いながら、膝をついてその体を抱き起こした。

「海で溺れたのか?もう大丈夫だ、ここは陸地だ。自分の名前は言えるか?」

答えようとして、喉がぐっと詰まった。
声が、出ない。
あの魔女は代償を持っていったのだ。
と、いうことは・・・。

「どうした?」

こちらを覗き込んでくる青年。
明らかに身分の高い、飾り気はないが質のいい白い装束を着た男は、落ち着いた表情でじっとリョーガの答えを待っていた。

厳しく誇り高い、白皙の美貌。
その顔を見て、リョーガは驚きのあまり何の反応を返すことも出来なかった。

それはたしかに、あの日リョーガが助けた男だったのだ。







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