人魚姫 2



辺りは暗い暗い闇に包まれている。

肩にずっしりとくる、一人の男の重み。
リョーガはしばらくの間呆然として、波間を漂っていた。

男の乗っていたであろう船は、先ほど完全に燃え尽きて海へ沈んでいった。残骸だけがぷかぷかと浮かんで、リョーガの周りを取り囲んでいる。
辺りには他に生存者の気配もない。燃え盛っていた炎も消え、辺りは再び深い闇に包まれた。夜の不気味な静寂の中で、寄せては返す波の音だけが響いている。
「・・・おい」
意識を失っている男を揺らしてみた。
「・・・う」
男は小さく呻いた。弱々しいが、呼吸もしている。衰弱していたが、命に影響を及ぼすほどの怪我もない。
おそらく陸に連れて行けば、助かるだろう。
「・・・畜生」
戸惑いながらも、リョーガは覚悟を決めるしかなかった。男の片腕を自分の首に回し、何とか男が沈んでしまわないよう担ぎ上げる。
行くぞ、と誰ともなく呟いて、リョーガは陸の方向へ向かって泳ぎ始めた。今日初めて海面から顔を出すことが許されたのに、陸のある方角など分かるはずもなかったが、潮の流れに何となくあたりをつけて進んでいった。
もうどうにもでもなれ、という心境だった。

気を失っている男を溺れさせないために、リョーガは頭だけ海面から出して泳いでいった。完全に水中にもぐってしまえば、そこらの魚よりよほど早く泳ぐことが出来るリョーガも、今は男を抱えているのでそうはいかない。
辺りは完全な闇で、どちらを向いても陸など見えはしなかった。いったいどれほど泳げば陸にたどり着くのかも分からない。
それでも、リョーガはひたすら泳いだ。
肩に担いだ男を沈ませてしまわないように、細心の注意を払いながら。

慣れない泳ぎ方に、じきに息が上がった。
ハア、ハアと荒い息をしながら、リョーガはしばし進むのを止めて呼吸を整えた。
今日初めて海から顔を出したのだ。水中とは違う呼吸の仕方に、まだついていけていない。それにいくら水の中とはいえ、人一人担いで泳ぐのはかなりの力を必要とした。
それでもリョーガは、男を放り出そうという気にはならなかった。
自身も溺れかかりながら、自分に向かって板切れを手放したこの男の姿が、頭から離れなかったのだ。
「・・・意地でも助けてやる」
一人つぶやき、リョーガは再び泳ぎ始めた。

頭上の星空だけが、一人孤独に戦うリョーガの姿を見守っていた。






ようやく、陸が見えてきた頃。
東の空は白み始め、太陽が昇り始めていた。

「・・・すげー、日の出だ・・・」
伝え聞いていた朝日を初めて目にした感慨に浸る間もなく、リョーガはざぶざぶと進み続けた。肩の男も、気を失ったままではあるが、規則正しい呼吸をしている。

海は徐々に浅くなり、足のひれが地面の砂をこするようになった。
男を担いだまま、リョーガは腹ばいになって進み続けた。

海はどんどん浅くなり、やがて砂浜との区別もなくなってくる。
見れば、あちこちに船の残骸と思しき板切れが流れ着いていた。この砂浜にみんな打ち上げられたのだろう。
砂や小石に腹を傷つけられながら、リョーガはひたすら進んだ。腹ばいになって進みながら、やがて背中から足のひれまでが水から外へ出てくる。
体が外気に触れるのを、不思議な気持ちでリョーガは感じていた。

「・・・はあっ」

ようやく、砂浜にたどり着いた。
あたりに散らばる船の残骸で傷つけてしまわないよう気をつけながら、リョーガはそっと男を砂浜の上に下ろした。
「・・・・・・」
体は疲れきり、リョーガは肩で息をしていた。
しかし、目線はじっとそらさずに、男の顔を見ていた。

男はまだ目覚めず、ぴくりとも動かない。
濡れて張り付いた髪の毛を、そっと掻き分けた。端整に整った男の顔が、だんだんと昇る朝日にゆっくりと照らされていく。

リョーガはなぜか、その顔から目を離すことが出来なかった。
そんな自分が、自分でも不思議だった。


砂浜の向こうは、緑の木々が生い茂っていた。その森を抜けると、小さな丘の上に白い建物が海に面して建っている。
それは、教会だった。

教会の鐘は、今まさに朝を告げて大きく鳴り響いた。










その教会の一室では、ある一人の少女が机に向かっていた。
窓からさす朝日が、早朝にもかかわらず机に座って聖書を手にしている少女の顔を照らす。
少女がわずかに顔を傾けると、琥珀色の髪の毛がさらさらと揺れた。

まばゆい朝日に目を細めながら、少女はふっと立ち上がり、窓際へと近づいていこうとした。そこへ、突然廊下からバタバタと足音が響いた。
「不二様!」
ばたん、とドアが開かれる。側仕えの老女が、息せきって走りこんできた。
「不二様、もうお目覚めでいらっしゃいますか?!大変でございます!」
「どうしたんだい、婆や。そんなに急いで走ったら転んでしまうよ?お前もいい加減年を考えないと・・・」
「いえいえ、それどころではありませぬ!先ほど知らせが入ったのですが、昨夜この教会の正面の海で、船が難破したそうなのです!」

「船が・・・?」
不二、と呼ばれた少女はわずかに驚いたように顔をひそめた。
「このあたりで難破したのなら、そこの砂浜に打ち上げられるだろう。ひょっとしたら生存者がいるかもしれない」
「不二様!そんな悠長にしておられる場合ではありません、どうやらその船に乗っていたのは、隣の国の・・・!」

黒い修道服を身にまとった不二は、婆やの金切り声を聞き流して窓辺へと近寄った。丘の上からもっとも見晴らしのいいこの窓なら、ちょうど下の砂浜が一望できる。

「・・・あれは」

不二の、髪の毛と同じ琥珀色をした瞳が、大きく開かれた。

「・・・人がいる」
「え?」
「婆や、砂浜に人が打ち上げられてる。きっと難破した船に乗っていた人だ」
不二は振り返って、勢いよく部屋から駆け出しました。
「不二様!」
「婆や、すぐにお医者様を呼んで!それからお湯を沸かして!」
はい!と老婆はあたふたと駆け出していく。
不二もまた、修道服の裾を揺らしながら、砂浜に向かって駆けていった。
その背後で、朝を告げる教会の鐘がゴーンゴーンと鳴り響いていた。








砂浜にいたリョーガは、ずっとその場を動かないまま、男の側についていた。
なぜか、離れがたかったのだ。
「・・・おい」
ちょい、と男の頬をつついてみた。男はいまだ眠り続け、反応を返さない。
顔色は青白いままだったが、もう溺れる心配はない。呼吸も規則正しいし、しっかりとしてきた。きっとじきに目を覚ますはずだ。

目を覚ましたら、どんな顔をするだろう。

そんな想像をして、リョーガはぷっと笑った。
年老いた物知りの人魚達に伝え聞くところによると、人魚を目にした人間はとても数が少ないらしい。人魚たちが足の生えた人間を見て驚くように、人間もひれを生やした人魚を見てたいそう驚くのだという。
この男は、どんな顔をするだろう。下半身が魚の生き物に助けられたと知れば、相当に驚いて飛び上がるのではないか。

「・・・さあ、早く目を覚ませよ」

わくわくして体を揺らしながら、リョーガは眠る男を見つめた。
ふと、男の身につけているものに目が留まる。ところどころ破けているが、白い服はさらさらとしてとても触り心地がいい。肩や腕には、きらきらとした石のついた金ぴかの輪っかがはまっている。
(・・・こいつ、いったい何者なんだろ?)
そんな疑問が、ふと芽生えたころ。
突然リョーガの耳に、ガサガサと木の葉を掻き分ける音が聞こえてきた。

(誰か来た・・・っ!)

リョーガは慌てて、辺りを見回した。近くにちょうど、身を隠せるほどの岩陰がある。あたふたと海の中に舞い戻ると、リョーガは大きな岩の陰に隠れた。

(誰だ?まさか、また人間・・・?)

陸に人魚がいるはずもなかった。
森を抜けて駆け出してきたのは、黒い修道服をまとった少女だった。
少女はきょろきょろと辺りを見回していたが、砂浜に横たわる男を見つけて、はっとして口を覆った。

(人間の、女・・・?)

少女は息を切らして、男の元に走り寄ってきた。砂浜に膝をつき、男に向かって呼びかける。少女の声に反応し、男はわずかに頭を傾けた。
いまだ気を失ったままだが、少女はそれで男の生存を確認したようだった。リョーガには分からない人間の言葉で、振り返って何かを叫んでいる。まもなく、少女の後を追って年老いた老婆と白衣を着た医者が走ってきた。

リョーガは完全に出て行くことが出来なくなった。
ただ岩陰で、呆然と状況を見ているしかなかった。

男は何人もの人間に取り囲まれ、やがてリョーガからも見えなくなってしまう。岩陰から身を乗り出して、リョーガは男を窺い見た。ただ純粋に、心配だったのだ。
見つかるかもしれないと危惧しながら、リョーガは精一杯身を乗り出した。そして見えたのは、少女が自らの服の裾を破って、砂で汚れた男の顔を拭いている姿だった。


リョーガはそのまま、どうすることも出来ず、海へと帰っていくしかなかった。







「・・・不二様、すぐにお城から使いの者たちがやってくるようです。やはり昨夜難破したのは、隣の国の王子様がお乗りになっていた船だったようです」
「お医者様、どうですか。この方の容態は」
婆やの声を聞いているのかいないのか、不二は医者に向かって尋ねた。
年配の医師は落ち着いた様子で、ほっとしたように息をつく。
「大丈夫、じきに目を覚まされるでしょう。ほとんど水を飲んでいないのが幸いした、本当に幸運でした」
「そう・・・」
不二は膝をついたまま、男の顔を見下ろした。
まだ意識のないままだったが、男はわずかに身をよじった。周りの声のせいだろうか、覚醒の気配が見えつつあった。
しかしまあ、と医師は驚嘆したようにため息をついた。
「あの沖合で難破した船に乗っていながら、よくここまで無事に流れ着いたものです。見たところ、板や何かにつかまっていた様子もないのに。まるで、天使にここまで運ばれてきたようだ」

不二はじっと海を見つめた。
波が打ち寄せて、膝をつく不二の裾も濡らしていく。
「・・・おかしいな」
ぼそり、と不二はつぶやいた。
「さっき窓から見たときは、もうひとつ人影があった気がしたんだけど」


まもなくして、男は小さくうめいた後、ぼんやりとその目を開いた。
お気づきになられたか、と医者が安堵の声を上げる。 不二は、その青年の顔をじっと見つめた。 意識の戻った青年の瞳には、琥珀色の髪を揺らす少女の顔が映っていた。










海の奥底に帰ったリョーガには、またつまらない日々が待っていた。
それはこれまでとまったく変わらない日常だったのが、リョーガにはそれが以前よりずっと、退屈に思えて仕方がなかった。

つまらない。
そんな思いがぐるぐると渦巻き、リョーガは家にも帰らず海面へと上がった。

三日三晩、リョーガは海面にぷかりと浮かびながら過ごした。
朝日が昇ってから、太陽が真上に昇り、やがて夕焼けの中に沈むまで。
月が昇り、夜空を満天の星空が彩っても、リョーガは海面に浮かび続けた。

そこは、あの船が難破した周辺だった。
しかしそうしてずっと待っていても、船の一隻も通りかかることはなかった。


「・・・リョーガ、いったいどうしたの?それにアンタ、最近ずっとどこ行ってるんだよ」
心配した弟がいくら問いかけても、リョーガは上の空だった。馬の耳に念仏で、まるで反応を返さない。
そしてまた海面へと上がっては、何かの病気のように。じっと空を見て過ごすのだ。

そうしてずっと待っていたが、結局、再びあの人間と出会うことはなかった。



そして、四日目の晩。
リョーガは海底深く潜った。しかし、それは家へと帰るわけではなかった。
リョーガが向かったのは、深い海淵の更にはるか奥底。
人魚達でさえあまり足を踏み入れない、暗く恐ろしい場所だった。

このとき、リョーガはすでに決意していた。

そしてリョーガは、海の魔女の住む場所へと向かったのだ。






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