そのときの俺はただ、ここから逃げ出したかった。 何故なのかは分からない。 分からないのに俺は、とにかく逃げようと懸命だった。 辿り着いた先がたとえ海の底より暗い闇でもかまやしなかった。 あり余るほどの寿命と退屈と何不自由なく満たされた生活こそが、闇以上の恐怖だった。 俺はきっと最初から、どこかが破綻していた。 表面の青さを切り分けて、さらに奥へ奥へと入っていったところ。 青と碧を混ぜ合わせたその美しい色も、底へ底へと沈むにつれやがて深い闇に閉ざされる。 日の光の欠片すら届かない深海の、さらに下へと窪んだ深い海淵。 地殻に近づく遥か海の底に、その奇異なる生物たちは暮らしていた。 数限りない生命を生み出した、母なる海の気まぐれか。 その生物たちは、非常に不可思議な姿をしていた。 腰から下は、魚の尾っぽ。 上は胴が伸び、腕が生え、首から顔までついている。しかもその上半身だけ見れば、地上に暮らす人間となんら遜色がない。 水の中で呼吸し、魚と同じように泳ぎ回る。 しかし同時に、その喉からは美しい声が紡がれる。 その生き物たちが「人魚」であった。 「・・・ねえ、リョーガ!待ってったら、リョーガ!」 追いかけても追いかけても捕まらない。声を張り上げ呼んでいるのに、彼はまるですり抜けるように波の合間に消えてしまう。 焦れたリョーマは、まだ未熟な尾っぽを精一杯動かして、全速力で泳いだ。 思えばいつもいつも、彼の背中を追いかけている。 魚たちに紛れて、逃げおおせられるとでも思っているのか。 すぐそこの岩場の陰から、自分と同じ色の髪が覗いているのに。 「リョーガ、捕まえ・・・!」 「おーっと残念」 腕を伸ばした先には、期待した姿はなく。 いつのまに、目当ての男は頭の上からにやにやと笑う。 「・・・リョーガ!」 「ほーれ、鬼さんこちら、魚の尻尾を追いかけろ♪」 リョーマの小さな手が、届くか届かないかのぎりぎりの高さ。そこでゆらゆらと体を揺らす影。 にんまりと笑みを浮かべ、余裕たっぷりに水中に漂っている男。 それが、リョーガだった。 「・・・もう一回、もっかいやる!今度は絶対捕まえるから!」 「おいおい勘弁しろよ、もー疲れたって。いったん休憩〜」 頭をかきながらふらふらと、やる気なさげに泳いでくるリョーガに、弟のリョーマは食って掛かった。 「なんだよ、アンタは全然疲れてないだろ」 「そりゃ疲れてねえよ、だってチビスケ泳ぎ遅えんだもん。やっぱ年二つの差はデケえなあ」 「ムカつく。なら何回でも出来るだろ」 「やだやだ、遅すぎて疲れたんだよ。お前はまだ生まれて十年ちょい、尾っぽを上手に動かせねえんだから、俺に勝つのは無理だって。諦めろ」 「じゃあ今度はアンタが鬼やってよ、俺逃げるから」 「それじゃ5秒で勝負ついちまうぜ?」 「・・・アンタってほんとムカツク」 むう、とむくれる弟の頭を、何がおかしいのかリョーガは笑いながらかき回した。 それがいっそう子ども扱いされたようで、リョーマはぷいと顔をそらす。 その反応を、面白そうにリョーガはにやにや笑う。 兄貴というのは、なんだってこんなに腹立たしいものなのか。リョーマとしては思わずにはいられない。 リョーガは常に人を食ったような笑みを浮かべていた。 自由奔放に振舞い、何者にも捕らわれない。たとえ相手が弟だろうと王様だろうと、挑発的な態度を崩さないから、しょっちゅう騒動を巻き起こす。 周りは散々振り回されるが、気がつけば本人はいつの間にかどこかへ姿を消している。 そんな男だった。 しかしリョーガは、不思議と嫌われない奴だった。素行の悪さや放縦さに眉をしかめられても、気にした様子もなくけらけらと笑っている。そんな彼の自由さこそ好ましいと、リョーマにしてみれば理解できないことだが、多くの者から愛されていた。彼には不思議と人を惹きつける力があったのだ。 しかし、弟であるリョーマは知っていた。 何も考えていないような顔をして笑っているその瞳が、実は油断なく光っていること。 弟を相手にしているときは、珍しく子供らしい顔で笑うリョーガ。けれど、いつも側にいるのに、リョーマには時々リョーガのことが遠く感じられた。 今はここにいても、彼はたった一つ何かの気まぐれが起きれば、どこかへ飛んでいってしまうだろう。何の未練も残さずに、自分の魂の望むがまま。 そんな気がしてならなかった。 「・・・リョーガ、どうしたの」 「あ?・・・ああ、いや別に。何だよいきなり」 「ぼーっとしてたよ、さっきからずっと。俺の声なんか聞こえてないみたいに」 「そっか?悪い悪い、なんでもねえよ」 「嘘だ」 急にキッパリと言い放った弟に、リョーガはわずかに目を開けた。 「アンタ、最近ずっとおかしいよ。泳ぎ方だっていつも通り人魚の中ではぴか一に早いし綺麗だよ。でもときどき、鮫に食われそうなくらい危なっかしくなる。何かに気をとられてるみたい」 「物騒な例え持ってくるな、お前」 「それだけじゃない、最近ずっと何か考え込んでる。俺、ちゃんと知ってるよ」 柄にもなく必死に言い募る弟は、身を乗り出してきた。 「アンタ、最近ずっと空の方向ばかり見てるじゃない」 図星をつかれたのか、リョーガは笑みを消しておし黙った。 わずかに視線を上に上げ、リョーガは空の方角を見つめた。 ここは海の底。 はるか頭上には、太陽の照らす空がある。 しかし、その光はここまでは届かない。 「・・・しょーがねえだろ」 ふっと口角を吊り上げ、リョーガは笑った。 「俺はもうすぐ、15の誕生日なんだから」 上半身が人といえども、その生態は野生の魚と変わりはない。本能のままに生きている。 そんな人魚の世界でも、ある掟があった。 はるか海の底の、人魚たちの楽園を守るため。分別のつく年齢になるまでは、人魚たちはどんなに望んでも、海から頭を出して空気に顔をさらすことは出来ないのだ。 「今日の日が沈む頃には、俺は初めて波間から頭を出せるんだ。生まれて初めてでっかい空が見えるんだぜ。ぼーっとしてんのはだからだよ」 「・・・そうだけど」 まだ何か納得していない様子で、リョーマはこちらを窺い見た。 チビスケに悟られるなんて、俺もまだまだ。そんなことを言いながらリョーガはふざけているが、どこかはぐらかされている気がする。 なお言い募ろうとするリョーマを軽くあしらいながら、リョーガは一人すっと上へと昇っていく。 「・・・リョーガ!」 「悪いなチビスケ、鬼ごっこはまた今度だ」 ざぶん、と音にならない水しぶきを立てる、リョーガの青く透き通った尾っぽ。 碧の髪の毛が、波にきらきらと輝きながら揺らめく。 自分と同じ姿かたちの弟を残して、リョーガはぐんぐん海面へと上がっていった。 まだ、そこから頭を出すことは出来ない。 それでも、せめて日の光を感じたい。 海面が、美しいオレンジ色に輝いている。日の光が届くほどの深さまで来て、リョーガはほうとため息をついた。 今、空は夕焼けに包まれているのだろうか。 大人たちの話でしか聞いたことのない夕焼け。 それを直に見られることが、リョーガにとって何よりの楽しみだった。 「・・・あーあ、早く夜がこねえかな」 リョーガが15の誕生日を迎えるのは、今日の夜。 日暮れの時刻。 何年も前からずっと、リョーガはこの日が待ち遠しくてならなかった。 リョーガだけでなく、すべての人魚たちにとって、15の誕生日は特別だった。 それまで海の世界しか知らなかった人魚が、初めて外の世界を見ることが出来るのだ。 幼い人魚は、年長者たちが外の風景がどんなに素晴らしく圧倒的であるかを自慢げに語るのを聞いて、ずっと想像を膨らませてきた。 昼間の世界を見たある人魚は、海の上に浮かぶ太陽のまぶしい光に目が潰れそうになったと。 青空を見た人魚は、海とはまったく違うその青さに目が釘付けになり、あれ以上美しいものはないと悟ったと興奮気味に語った。 また夕焼けを見た人魚は、海も、空も、この世のすべてが赤に塗り替えられていく様に呆然とし、自身すらその赤に染まったのだと目を潤ませていた。 リョーガもまた、そうした話を聞くにつれ、外の世界がどんなものであるかを想像しては眠れぬ夜を過ごしてきた。早く、早く波間から顔を出してみたい。とてつもなく広い海よりも、まだなお大きいという空を見てみたい。 そしてようやく、今日の誕生日を迎えたのだ。 顔には自然と笑みが浮かび、わくわくと体は喜び跳ねる。 まるで子供のようだ。 あの小生意気な弟には見せられない。 「・・・今ごろ怒ってんだろうなあ、チビスケの奴」 そう一人ごちながらも、浮かれた気分は止まらなかった。 自分より二年後に生まれた弟は、まるで鏡に映したように幼い頃の自分そっくり。唯一違うところといえば、自分よりも若干クールなところか。 それでもそんなリョーマが子供のようにムキになるのは、自分が相手のときだけだということをリョーガは知っている。 知っていて、ついつい遊んでしまうのだ。可愛さゆえに。 しかし今日ばかりは相手をしてやれない。 なにせ、今日自分はついに、海の上の世界を見ることが出来るのだから。 やがて、海面がだんだんと暗く染まっていく頃。 リョーガはいよいよ、自分の誕生日が近づいてきていることを知った。 太陽はすでに沈んだ。海の色も、青から濃紺へとその色を変えていく。 やがて、海が完全に黒に塗りつぶされたころ。 リョーガは自分が海から顔を出す資格を得たことを悟った。 「・・・よーし、もういいだろ」 リョーガは一度、ざぶんと思い切り深く潜った。 ぐんぐんぐんぐん深く深く沈んでいく。 そろそろ頃合か、と見計らって、リョーガは青い尻尾をくるりと回転させ、再び上へと昇り始めた。 思い切り勢いをつけて、リョーガは勢いよく海面へと上昇した。 いよいよだ。いよいよ、海から頭を出す。 思い切り行ってやる。 ぐんぐんぐんぐん体が昇る。 もう海面は目の前だ。 「・・・っしゃあ!」 目一杯の勢いをつけて、リョーガは思い切り海から飛び出した。 ざばあっ!と水しぶきが上がり、リョーガは生まれて初めて空気に触れた。 初めての空気の感触に、目を開けることが出来ない。うわ、なんだこれ、と思いながら、リョーガはじたばたと動いた。首から上に、水とは違う感触がする。ひゅうひゅうと音を立てて、空気が顔に触れている。水よりもひんやりと冷たい。 はっはっ、と荒い息をしながら、リョーガは口から大きく息を吸い込んだ。そしてそのまま、はーっと吐き出す。 ぶくぶくと水が出ることなく、吐き出した息は空気の中に混ざって消えた。 直接に空気を吸う呼吸。なんだか新鮮だ。 「・・・はーっ」 リョーガは、おそるおそる目を開けた。 初めて目にする海の上。いったいどんな世界が広がっているんだろう。 「・・・ありゃ?」 予想に反して、そこには真っ暗闇しかなかった。 さざめく波も真っ黒だし、周りには自分以外何の気配もない。 「・・・なんだよこれ、真っ暗じゃん。これが外の世界かよ?」 あれれ? 不思議に思いながら、リョーガは上を見上げた。 そして、あっと声を上げた。 「・・・すげーっ!!」 海の上には空がある。 それは年配の人魚たちから聞いていた。時間によって、青やオレンジや黒にその色を変えるという空。 その空は、今は真っ暗だ。けれど、たくさんの光がある。 そこは満天の星空だった。 黒い布の上に宝石をばら撒いたかのように、数え切れないほどの光の石が頭の上で輝いている。しかもそれが頭上一杯に広がっているのだ。 これが。これが星というものか。 頭をうんと反らせて、リョーガは星の粒に見入った。 空は、聞いていたような青でも、夕焼けのオレンジでもなかった。 けれど、なんという美しさ。 闇の中に輝く無数の光。 リョーガが生まれて初めて、外の世界で目にしたものは星だった。 その強烈な輝きは、リョーガの心を捉えて離さなかった。 また、一方で。 同じ星空の下、海の上を航海する一隻の船があった。 大きな帆船は、飾り付けがされ、甲板では盛大なパーティーが開かれていた。着飾った人間たちが、豪華な食事に舌鼓を打ち、酒を楽しんでいる。 そこにいる者たちは皆、本物の宝石を付け、美しいドレスを身にまとっている。一目でそれと分かる高貴な身分の者たちの集まりだった。 船の帆に輝く大きなエンブレム。それは、この海沿いにある大国の国章だった。 「王子、王子、どこにいらっしゃるのです」 「ここだ、爺や」 すっかり年をとった爺やが、おぼつかない足取りで探し回っているのを見かねたのか、それまで身を隠していた青年は甲板に姿を表した。 白を基調にした、飾り気のない服装。しかし見るものが見れば、その青年が身にまとった衣装がどれほど高級なものかが分かるだろう。 彼は、この国のたった一人の王子なのだ。 その姿を見つけた途端、爺やは目を見開いて飛ぶように走ってくる。まだまだ足腰は丈夫なようだ。 「あああ、こんなところにいらっしゃった!王子、パーティーの主役が勝手に消えてしまっては困りますぞ!」 「そう言うな、爺や。俺は大して酒にも強くないし、いつまでも騒がしい宴の中にはおれぬ。静かなところで風にも当たりたくなるものだ」 「なんということをおっしゃるのですか、今日はあなた様のお誕生日ですぞ。王子をお祝いするためにこうして盛大な宴が催されているというに」 「それが嫌なのだ」 王子はへさきに寄りかかりながら、疲れたように息を吐いた。 「いい年をして、誕生祝をしてもらうのもおかしいだろう。それもこんな、俺とは何の関係もない者たちに」 おべっかの相手をするのにもいい加減疲れた、とこぼす王子に、爺やはふうとため息をついた。 幼少のみぎりからずっと側にいて、お育て申し上げてきた方。 公明正大で賢明なこの王子の、妙なところで頑固な気性はよく存じてあげているのだが。 「それなら、せめてもう少し楽しみなされませ。来年からはこの日をお一人で迎えるわけではなくなるのですから」 「・・・それを言うな」 嫌で嫌でたまらないというように、王子は顔をしかめた。 「一度も会ったことのない隣国の王女と、いきなり結婚とは。いくら俺が十五になったからとて、まだ未熟な半人前の人間であるにもかかわらず。所帯を持つなど信じられぬ」 「何を仰います、お父上である王様だってご結婚なさったのは王子と同じ御年でした」 「・・・俺に、父のようなあたたかい所帯を持てるとは思えぬ」 頭上に浮かぶ星空を見上げて、王子はまぶしそうに眼を細めた。 「会ったこともない人間を、妻として愛することが出来るだろうか。何より優先すべきであるこの国の政治を行いながら、その人を幸せにすることが果たして俺に出来るのだろうか」 「国光様・・・」 「俺が本当に必要としたときに、人を愛することが自由に出来たら。その相手も自由に選ぶことが出来たら。どれだけ幸せなのだろうな」 王子の顔は、暗い暗い海へと向けられていた。 眼鏡越しの真摯な瞳は、どこまでも遠く広がる海をじっと見つめていた。 初めて見た星空に、浮かれて泳ぎ回っていたリョーガは、ふと遠くに明かりを見つけた。 海の上に赤く燃え上がる光。あれはなんだろう?とリョーガが首を傾げていると、波に乗ってぷかぷかと何かが流れてきた。 それは、木の板だった。それだけではない、次から次へと木の欠片や、布や、何かの残骸が波に乗って流れてくる。 「・・・なんだ、こりゃ?」 リョーガ思い立ち、煌々と輝く赤い光のほうへと泳いでいった。 それは、燃え盛る炎だった。 大きな帆船が、見る間に炎に包まれ、黒い炭の塊と化していく。 ぼろぼろに壊れた船の残骸が、無残にも海へと落ちていった。 「これは・・・」 それもまた、リョーガにすれば初めて見る光景だった。あっけにとられ、呆然と見ていると、燃え盛る船から今度は大きなマストが崩れ落ちてくる。 「うおわっ!」 リョーガのほうめがけて落ちてくるそれを、危うく避けた。ぶくぶくと不気味な音を立て、マストは海の底へと沈んでいく。 壊れた船の残骸で、あたり一面は埋め尽くされていた。 このままここに浮かんでいたら、船の残骸に体を傷付けられてしまう。 そう悟って、リョーガその場から離れようとした。 しかしそのとき、あるものが目にとまった。 船からばらばらと落ちてくるのは、残骸だけではなかった。 自分とよく似た形をして、しかし下半身は尾っぽではなく、二本の足がはえている。悲鳴を上げながら、ざぶんざぶんと海へ落ちて沈んでいく。そしてそれは、そのまま上がってこなかった。 (あれは・・・) あれは、まさか。 年寄りの人魚たちに伝え聞いた、あの。 人間という、陸に住む生き物? 興味を引かれたリョーガは、無謀にも再び燃え盛る船に近づいた。 先のとがった板切れが刃物のように流れてくるのを避けながら、リョーガは徐々に船の下へと泳いでいく。 今にも崩れ落ちそうな船の、その真下だった。 一人の人間の男が、板切れにつかまりながら波に漂っていた。 男は額から血を流して、浅い息をしていた。 怪我をしているのか、意識が朦朧としているようで、板にもようやく掴まれているという有様だった。 力尽きてあの板を離せば、彼は脆くも海に沈んでしまうだろう。 リョーガは、じっとその男を見ていた。 そのとき、不意に男が顔を上げた。 目が合ったリョーガは驚いて、あっと声を上げそうになった。 白い額から血を流しながら、男は波に漂うリョーガに向かって、何かを呼びかけていた。それは人間の言葉だから、リョーガには理解できない。しかし男は、リョーガも自分と同じく乗船していた誰かと思っているようだ。 (おいおい・・・) 男は、今にも意識を失いそうな危うい様子だった。それなのに、こちらに向かってなんとか泳いで来ようとしている。 「おい、無茶すんなよ・・・」 いったいどうしたのかと、リョーガが訳が分からない思いでいると、男は徐々にこちらへと近づいてきた。ふたたび何かを呼びかけてくる。 (なんなんだよ・・・) 男は、自分の掴んでいる板を、ぐいと突き出した。 リョーガが慌てていると、なおも突き出して何かを叫ぶ。 「『つかまれ』って、言ってんのか・・・?」 男には海の下のリョーガの魚の尾っぽは見えていない。同じく波間に漂っている自分に、板につかまれと言っているのだ。 「・・・おい、やめろよ。俺は人魚なんだから平気だって、それよりお前のほうが危ねえだろ。血が出てんじゃねえか」 震える声で言っても、当然男には通じない。 そして、何を思ったのか。 男はリョーガに向かって、ぐっと板を突き出した。そして、自分はその手を離してしまったのだ。 「っ、おい・・・っ!!」 リョーガは慌てて水をかいた。かいて泳いで、男の元まで駆けつけた。 水に沈みそうになる男を慌てて引き上げ、肩に担いだ。 青白い顔をした男は、すでに意識を失っていた。白い服はあちこち破れて、波間に漂っている。体はだんだん冷たくなっていく。 「おいおい・・・マジかよ」 こいつ、今にも死にそうなのに。 自分が死ぬかもしれないところなのに。 唯一の命綱を。自分の掴んでいた板を、リョーガに向かって突き出した。 「自分が死ぬかもしれないときに、俺のこと、助けようとしたのかよ・・・」 体が震えていた。 男はリョーガの肩で、かすかな呼吸をしている。 白い顔は、よく見ると、はっとするほど美しい顔立ちをしていた。 リョーガはどうしていいかも分からぬまま、男を抱えて、波間を漂っていた。 背後で船が大きな音を立てて、炭となって崩れていった。 INDEX NEXT |