――3年11組。

大きくとられた教室の窓は、遮るものなく青空だけを覗かせる。

最も高い階の教室にはさんさんと夏の太陽の光が降り注ぎ、白い夏服のクラスメートたちはもくもくと黒板に集中しているようだ。
昼飯も済んで時間的に最も気温が高い頃だが、冷房完備の教室ではその暑さは感じられない。
快適な涼しさの中で、ただただ鮮やかすぎる青空と、白い太陽が眼にまぶしい。

理系クラスゆえ男子が圧倒的に多い教室の中でも、更に目立って背の高い乾は必然的に後ろの席に追いやられる。
数学教師の凡庸な説明を聞き流しながら、頭だけは空の向こうへトリップしていた。


――テニスしたいなぁ。

空は一年中365日変わらず自分たちの上にあるというのに、こんなに見事にからっと晴れた夏の青空を見せ付けられると、どうにも血が騒いでいけない。机に座ってぼおっとその青さに魅入られるのもいいが、やはりこんなに晴れた日は外へ出たい。今すぐコートへ駆け出したい。

狼男が満月に本性を現すように、こんなにも白い太陽とこんなにも青い空は心の奥の何かを刺激して止まない。

夏の空は好きだ、と乾は思う。
ふてぶてしいほど青く、濃い色。雲は浮かんでいるのが不思議なくらい力強く、山のように聳え立つ。
朝日や夕日に感じるようないっそ突き詰めた荘厳ささえ感じさせる。

生き生きとした、生命力あふれる青。



――この青空の下、何度プレイしたことだろう。





「はい、今日はこれまで」
先生の台詞とほぼ同時にチャイムが授業終了を告げる。
一斉にざわざわと騒がしくなる教室。
「ん――・・・・・・」
乾が一つ背伸びをして立ち上がろうとすると、教室から出ようとしていた担任が呼びかけた。
「そうそう、先日配った進路希望のプリント、まだ提出してない奴は早くしろよ」
乾の動きがぴたりと止まる。

「特に外部受験する奴は急ぐように」

担任が扉を閉めると、また教室は一斉に騒がしくなる。
そんな中、乾は机の中から一枚のプリントを取り出した。
(さてと・・・どうするか)
ここ最近ずっと乾の頭を悩ませているもの。
それが、この進路希望調査プリントだった。

とりあえずの希望は書いてある。
しかし、どうにもまだためらいがあって、ずっと提出できていない。
“特に外部受験する奴は急ぐように”
せかされても、乾自身はまだ決めかねていた。





部活を引退して、二週間がたった。

もう部室には自分たちのロッカーも名札も、名簿には名前すら残っていない。
後輩たちによる新体制に水をさしたくないという思いで、引退した三年生たちは積極的にコートに足を踏み入れることはしていない。 とりあえず受験生という枠組みの中に押し込まれながら、机に向かう日々を過ごしている。 それでもランニングや筋トレは欠かさず続けている。というよりもむしろ、三年間の習慣が体を休ませてくれないのだ。


昼休み、進路希望用紙を提出するために職員室へと向かっていた乾は、後ろから知った声に呼び止められた。
「やぁ」
不二だった。
思わず覗き込むようにして視線を合わせると、さりげなく一歩下がられる。
そんな不二は乾の顔をじっと見つめると、おやおやと困ったように笑ってみせる。
「浮かない顔してるね」
エスパーかお前。
俺の顔色読めるのなんてやっぱりお前くらいだと乾は内心苦笑しつつ、否定はしない。
「ヒマならちょっと付き合わない?」

不二は笑って、ちょいと上を指差した。




行き着いた場所は、この学校で一番空に近いところ。

「あ――気持ちいい」
屋上に立って、不二がく〜っと伸びをする。
カンカン照りの太陽の元でも、心地よい風が吹いて涼しさを感じる。まだまだ残暑は厳しくとも、少しずつ秋へと近づいているのだろうか。
窓ガラス越しでない視界一面に広がる青空は、それだけでも随分と心が癒される気がした。
「あれ、乾。何?そのプリント」
「あ、ああ・・・」
目ざとく見つけられた乾は、進路希望用紙をそのまま手に持ってきていたことにようやく気が付いた。
「先生に提出するヤツだよ」
「ふーん」
さりげなく自分の後ろに隠す。これが何なのか、そこに何が書いてあるのか、何となく不二には見られたくなかったのだ。

フェンスにもたれかかっていた不二が振り向く。
「そういえばさ、前にもここで乾とサボったことあったよね?」
手を口元に当て、うーんと考え込むようにする。
「二年生の頃・・・秋頃だったよね、たしか」
ああ、覚えてるとも。
「あったな。あの時は大変だったよ、まったく。お前が手塚の名前を大声で叫んだりするから」
「あのあとサボってたことがバレて、グラウンド30周だったもんね」

――ああ、あれからもう一年たつのか、と乾は思い出す。

あの日、一年前の秋の日、不二は何かを胸に抱え込んでここに座っていた。
今の乾なら、不二が何に悩んでいたのかも分かる。手塚がチームメイトたちにも隠し通そうとしていた腕の異常を、不二は察して手塚を案じていたのだ。

あのときの不二は酷く疲れて、笑った顔の奥で悲鳴を上げているようだった。
だから、彼らしくもなく自分の前で心情を吐露したりしたのだ。

乾は傍らの不二を見やる。
気持ちよさそうに風に髪の毛をなびかせて、どこか遠くを見つめている。
ほんのこの前のことのように思えるのに、もう一年がたつのかと不思議だった。


「夏の空って好きなんだ」
ぼんやりしていると唐突に不二の声が聞こえて、乾は驚いて不二のほうに向き直る。
不二は乾のほうを見ず、やはりどこか遠くを見るようにしていた。
「重量感があるっていうのかな。空とか青すぎてのしかかってきそうって思わない?照りつける太陽とか入道雲とか見るとね、試合のときの興奮がすぐによみがえってくる。血が沸き立つって言うのかな」
乾は少し驚いた。自分がさっきの授業中に考えていたような事を、不二も感じていたのが意外だった。
「今となってはそのやり場に困るんだけどね」
そこで初めて不二はこちらに向き直って苦笑してみせた。
「たしかにな」
乾も同調する。愛想でなく、その感情はよく理解できた。

「試合中にコートで見上げた空の色って、いつもいつも写真に残したいくらい綺麗だって思うんだ。劣勢に喘いでいるときも、勝ってベンチへ戻るときも、必ず一度は空を見上げて立ちすくんだ気がする」

見とれる。

ただの光線の屈曲によって起こる錯覚に、実在しない青の広がりに、自分も不二も焦がれ続けている。


人に翼がないから?いや、違う。
乾は身近に一人だけ知っている。
この大空にはばたいていける人間を。

手塚は今、ドイツへ留学する準備を進めている。



青空はこの3年間のテニスに駆けた情熱を呼び起こす。
確かに今も胸に残る情熱を。

「青春だね?」
「ははは」
男二人で屋上から空を見上げて、何をやってるんだという思いがなくもないが、今はどうでもいい。

「・・・引退した日、家に帰った途端に涙が止まらなくなったんだ」
大の字になって寝転がった不二は、ぽつりとそんなことを言った。
「夕飯食べる頃になってもまだ止まんなくてね、姉さんに背中撫でられちゃった」
「・・・ああ。ものすごくよく分かるよ」
「ホントは今もね、寂しくて仕方がないんだ」

ああ――・・・

ふっと肩を揺らして笑った。
「何笑ってんのさ」
「いや、悪い」
なおも顔に笑いが浮かび、不二は剣呑な視線を投げつける。
「いやそうじゃなくて。お前は、お前だなと思ってね」
「何だよそれ」
「そういうことをさらっと言えるあたりが、不二だな」
「じゃあ乾は思わなかったの?」
にやりと人の悪い笑みを向けられる。
「思ったよ」
言葉に出すのはためらいがあったけど。

「引退する直前に何度思ったか知れないよ。“このまま、時間が止まればいいのにな”ってね」

今度は不二が目をぱちくりさせた。
「・・・そっか、乾も一緒か」
「ああ、――実を言うと、俺も家に帰ってから少し泣いた」
「あ、やっぱり?」
クスクスと笑いあって、不二は両手を宙に伸ばす。

「楽しかったね」
「ああ」
「寂しいね」
「ああ」

「でもずっと、同じところに居続けることは出来ない」
不二の静かな声が胸に染みた。
「本当に、本当に楽しかったよ、青学で過ごした時間。テニス部の連中も、今なら一人一人愛してるって言って抱きつきたいくらい大好きだよ。胸張って仲間って言える連中なんてもうこの先二度と出会えない気がするもの。居られるものならずっと居たい。テニス部に居たいよ」
「・・・ああ」
「・・それでも、前に進まなきゃ」
「そうだな」
「高等部に進んでも、もう同じメンバーでテニスはできないから」
「・・・そうだったな」


いつだったか、河村が高校ではテニスはしない、家業を継ぐと言ったとき。思えばあれが、俺たちが終わりを意識したきっかけだった。
高等部に進学しても、もう同じときはやってこない。
変わっていく。

そう、それがきっかけだったんだ。


何の疑いもなく高等部に進学するつもりでいた俺に、迷いが生じたのは。
自分も手塚のように、タカさんのように、自分の将来を真剣に見据えて考えるときだろうか。学力的に青学より上のランクも狙える。このままズルズルとテニスを続けるよりも、将来のことを、ほかの自分のやりたいことを追求するべきではないだろうか。
すでに何校か候補は選んで、受験する準備も始めている。
それでもまだ、まだ俺は決めかねている。


――過ぎ去った日々。もう戻らない、泣きたいほど恋しい日々。


いつか俺たちは、また失くしたものを懐かしむためにこの青空を見上げる日が来るのだろうか。







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