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「・・・うわ、すごい」 「何が?」 「今日の夕焼け。ほら、見てよ」 言いながら不二は、ブラインドに指を差し込んで軽く透かして見せた。 部屋に、オレンジ色の光が差し込む。 ワックスのかけられたぴかぴかの床が、乱雑に資料が詰め込まれた壁の本棚が、オレンジ色に染まる。 薄暗い空間に光の道筋が浮かび上がった。空中の塵さえ見えるほどに。 「綺麗だね。全開にしようか、ブラインド」 「駄目。外から見えるって」 壁にもたれている乾が、プシュッと音を立てて缶を開けた。ここに来るまでに調達してきたのだ。きちんと三人分。 「ほら、飲め」 きちんと蓋の開けられた缶を受け取った手塚は、少しだけ不機嫌そうだ。ブルトップを開けるのが苦手だということを知られているのが、どうにも居心地が悪いに違いない。 「ほんとにすごい夕焼けだな。カメラ教室なんだよね、残念。帰る頃まで保つといいんだけど」 ふっとまた室内が暗くなった。不二がブラインドを降ろしたのだ。 教員用の机に腰掛けたまま、彼はふっと笑う。 「懐かしいね、何だか。一年の頃を思い出すよね」 それを聞いて乾が悪戯な笑みをつくり、手塚はむっと眉間に皺を寄せた。 いるべき教員が誰一人いない室内。夕暮れの部屋の中、そこには三人しかいなかった。 時は三人が一年生の頃に遡る。 そのときもやはり、同じように夕暮れ時だった。 (あーまったく、冗談じゃないよ) 不二周助(12)はかなり機嫌が悪かった。 ラケットバッグを肩に担いで、イライラと廊下を歩く。どうせ部活にはもう間に合わない。 先ほどまで教室に残されて、担任の涙交じりの熱く美しいお言葉に延々付き合わされていたために。 何てことはない、教室に飾られていたクラスの集合写真にイタズラ書きがされていたということで、放課後もずっと残って学級会が開かれていたのだ。 やった人は自ら名乗り出て欲しい、と切々と訴える若い女性教員の様子に、不二は壁の時計を見ながら内心ため息をついていた。 ――部活に遅れる。 大体ここまで大事になって、犯人が名乗り出るはずがないじゃないか。全員残されている先生は泣いているというこの状況で私がやりましたと言える奴がいるものか。 たとえ当人が今ごろ後悔と罪悪感に胸をつぶしていたとしても。 ――参ったなぁ。 学級会の中で不二は、顔には当然出さなくとも内心は非常に冷め切って、時計の針が進むのを眺めていた。 今日の放課後は先生たちの連絡会議が行われる予定で、当然スミレちゃんも出席するので、部活はいつもより早めの時間で切り上げられるはずだ。 連絡なしの遅刻は問答無用でグラウンド10周だが、はてさて事情を説明したら免除してもらえるだろうか。 時計の針はどんどん進み、いつもより早い部活の終了時間が来ようとしていた。不二が担任の熱弁を聞き流している中、ようやく一人の生徒が泣きながら手を上げた。 立ち止まって廊下の窓からコートを見てみたが、人影はなかった。もとより今日は三年生は学校行事で外出しており、一、二年しかいない。 早々と終了し、もう殆ど誰も残っていないだろう。ならばもう、行くだけ無駄だ。 (出たかったなぁ・・・部活) 不二の不機嫌の理由は、ただそれだけだった。別に学級会や担任の熱弁が馬鹿馬鹿しかったとかではなく。 (――せっかく今日は、一年生もゲームをやらせてくれるはずだったのに) 球広いばかりでろくにコートにも立てなかった。だから今日のミニゲームを楽しみにしていたのだ。 慣習から一年生はまだランキング戦に出ることは出来ない。たとえ、それに相応しい実力があろうとも。 「手塚と・・・打ちたかったなぁ」 手塚国光。 入部当初から圧倒的実力を見せつけた同級生。彼となら、さぞスリルのある試合が出来るに違いない。先輩相手ではないから妙な気を使うこともない。遠慮なしで全力で出来ただろうに。 “手を抜いて打つな” “癖になるぞ、お前のためにならない” あれは数日前のことだった。もう誰も残っていない部室で、いきなりそんなことを言われたのは。 ドキリとした。 手塚は良くも悪くも目立つ人間だった。 テニスの実力もさることながら、何よりも強烈な印象を与えるのはその眼光だ。顔が整っているから尚更たちが悪い。入部早々、上級生とひと悶着起こした。 そして自分は、どちらかというと目立たないほうに属していたつもりだった。なるだけ自然に。 出る杭は打たれる。 12年ほどの人生でも、それぐらい分かっている。だから・・・ “私、不二くんが好きなの” “ごめんね、ごめんね不二くん、あんなことして・・・” ――ああ駄目だ。思考が逆戻りしてる。 「さて、もう帰ろっかな・・・」 どこの教室もがらんとしている。時計はもう五時半を回っていた。いつもなら人の多い校舎が今日はしんとしている。 夕焼けでオレンジに染まった廊下を歩いると、角からいて一人の生徒が飛び出してきた。 光が差し込んでいる部分とそうでない部分とで明暗の差が激しい廊下で、一瞬不二はそれが誰だか分からなかった。 「乾・・・」 同じ部活の、乾貞治だった。 彼とは何度も話したことがあるし、クラスと住んでいるところぐらいは知っている関係だ。ただそれプラス・・・。 「不二じゃないか。部活はさっき終わったぞ」 分厚い眼鏡で表情を見せずに、彼は飄々とした口調で言った。 きちんと学生服の詰襟を上まで止めて、そんなことを言い放ちながら眼鏡を中指でくいっと上げる。わざとらしいくらい芝居がかった仕草だ。 「あ、これ?いや俺も苦しいしイヤなんだけど、さっき生徒指導室の前通ったもんだから、何となく」 あげく、聡い。あまり分かりやすいタチではないと自覚している不二の機微にも反応してくる。 別にそれはそれで楽なのだけど、この間手塚と部室で言い争っている現場を見られてから、どうも気まずいのだ。 「乾・・・もう着替えて戻ってきたの?」 「いや、委員会で今日行けなかったんだ。窓から見たらもう終わってた。不二は?どうして今頃・・・」 「ボクのクラスでトラブルがあってね、今まで残ってたの」 「トラブル?」 乾は興味を示してきた。噂話が好きなタイプではないと思っていたが、どんな情報でも収集せずにはいられないのだろうか。 「キミってやっぱり結構分かりやすいよ」 「は?」 的外れの返答に、乾が一瞬詰まる。その反応に、不二にも自分の言葉が、乾に普段向けられるものとは間逆のものだと想像がついた。 「キミその眼鏡で瞳が見えないから、何考えてるのか分からないとか言われない?実際よく見てれば逆に分かりやすいのに。口元とか、顔の筋肉の動きとか、目茶目茶感情的だよ?」 この間みっともないところを見られたとはいえ、随分歯に衣着せぬ物言いだなと不二自身、自分で言い放ったくせに驚いていた。誓って言うが他の同級生には「キミって単純だよね」なんて決して言わない。 乾のほうも、何か言おうとして口を開いたが、珍しく何も言葉が浮かばなかったのかまた閉じてしまう。 何だか変な空気だ。 どちらも、そう馴れ馴れしく胸襟を開いて語り合うタイプでもないのに、不意に気安くしてしまって戸惑っているというか。 「あ、あれって・・・」 不意に乾が背後を指差した。 窓からの光が差し込まない、薄暗い廊下の奥。 人っ子一人いない廊下に、ぽつんと一人。 生徒指導室のドアの前に、手塚が立っていた。 |