灰色の空間の中で、やけに鮮烈にその色彩を放つ、赤。

「不二・・・」

人気のない路地裏で、呆然と立ち尽くす彼を見つけたのは、全くの偶然だった。

振り返った彼は、自分に声をかけてきたのが見知った男だと知って微笑んだ。
いつものような微笑みではなく、翳のある、どこかうっそりとした笑顔で。


灰色の雲が重苦しく立ち込める空は、今にも雨が降り出しそうに頭上に広がっている。





足元のコンクリートに、赤いものが付着しているのが見えた。血痕らしい。
不二の顔も、唇が切れて血が滲んでいた。

「喧嘩したのか」

責めるでもないのに無感動な声になってしまうのは、まだ驚きが抜けていないからかもしれない。
いつも穏やかに微笑む彼のイメージとは、あまりに遠かったから。

「うん」

傍に来るわけでもなければ行くわけでもない、三メートルほどの距離を保ったまま、二人は静かな会話をする。

「絡まれたのか」

不二は、そんなとき上手く切り抜ける方法をいくらでも知っている。
殴り合いにまで発展したのは、本人も予測していなかった事かもしれない。

その行動を軽率だと責める気にはならなかった。
何より到底そんなことは出来ない。目の前の彼の様子を見れば。

「大丈夫。青学の生徒だとはバレてないから。相手高校生だったし、テニス部に迷惑はかけないよ」

不二が手に握っていたのは、自分でもぎ取った校章だった。
これさえなければ青学の制服はさして珍しくないオーソドックスな学ランだから、万が一のことを考えて咄嗟にもぎ取ったのだろう。

「仕返しする気も起きないくらい叩きのめしておいたから。小遣い稼ぎにカツアゲしてきた小物だから、たぶん後腐れもないよ」

切れた唇を、不快そうに指で押さえる。


「もし何か問題起こったら、すぐに辞めるから」


何を、など聞くまでもない。
テニス部をだ。


「冗談でもそんなこと言うんじゃない、不二」



しかし不二はなおも皮肉な笑顔を浮かべて、ぼすっとコンクリートの壁にもたれかかった。

ぼんやりと空を見上げて、少しだけ疲れたように息を吐く。
壁も、地面も灰色のコンクリートに覆われて、見上げた空すらどんよりと曇っている。

それでも不二は、何かを探すかのようにじっと空を見上げていた。





こんな不二は初めて見るな、とふと場違いなことを考える。

彼の言う「小遣い稼ぎの小物」に絡まれただけで、どうしてここまで影のある表情を作るのか。
切り抜け方などいくらでも知っているであろう彼が、どうして絡んできた相手を叩きのめさずにいられなかったのか。

何が、彼の奥の奥に隠されているであろう激情に火をつけたのか。


この不二周助という人物は、一見優しげな笑顔を浮かべていても腹の底でも笑っているとは限らない奴である。
言い換えれば、怒りに心が燃え滾っていても表面には出さない人物である。

天才と評される底の見えない実力と、どこか本音を感じさせない掴み所のなさ。
温情と冷徹さを併せて身のうちに秘めた人物。

少女じみた外見で判断したであろう彼に絡んだ馬鹿な連中は、十分すぎるほどその身に思い知らされたはずだ。


―― だが。

「行くぞ」

ぼんやりと突っ立っている不二の腕を引く。

「は?」

不二の、こんな顔を見ているのは好きではない。
こんな尖らせた感情を剥き出しにしながら、まだ心の距離を保っているような彼よりも。



「早くいつもの、腹の読めない笑顔に戻ってくれ」

しばし目を瞬かせていた不二は、困ったようにくすりと笑った。

「腹の読めないって・・・ちょっとそれ酷いよ、乾」



くすくすと、しばらく不二は笑い続けた。



ぱらぱらと通り雨が降り出す。







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