カレンダーは少し巻き戻り、夏の気配が薄れだした頃の話。

「風が変わったね」
不二が、誰に言うわけでもなく呟いた。
本日の部活は終了、ネットだのなんだのを片付けていた頃だった。
何の前置きもない一言だったが、そこにいた面々には十分その意味が通じた。
「確かにここ数日気温が低い・・・秋の風になったな」
ノートをパタンと閉じて、乾も足を止める。
「もうそんな時期なのか。ま、そのはずだよな。大会も全部終わったんだし」
一年生に指示を出す傍ら、大石も少しだけ感慨深げな声を出した。

最上級生である三年生たちが引退したのは先日のことだった。
部長手塚、副部長大石の、青学テニス部の新体制が始まった。

「待てコラッ!」
「るせぇんだよ、バーカ!」
どたばたと、まだ元気が有り余っているらしい桃城と海堂がすぐ目の前を駆け抜けてく。
眉間に一つ皺を寄せた手塚から、すっかり堂に入った「グラウンド10周!」の号令が飛ぶ。

「あいつらも、すぐにレギュラー入りするだろうな」
「そうだね」
先輩としての貫禄も増し始めた、自分たちの言葉がおかしくて乾と不二は二人して笑い出す。

「ま、季節の変わり目だからな。みんな風邪なんかひかないでくれよ?」
一年生を見送って、大石がにこやかに言った途端。

「ぶっくしゅんっ!」

コートに盛大なくしゃみが響き渡った。
誰だ今の、と皆がおそるおそる顔を巡らせると、さっきまで涼しい顔をしていた一番の高身長男がばつが悪そうに手を上げた。





「はあ・・・」
ありがとうございましたーとドラッグストアの店員の声に送り出されながら、乾は手の中の包みを見る。
中身は勿論、風邪薬である。
(こりゃ明日の部活は休まないとなあ・・・)
コートで盛大にくしゃみをしてしまった後、大石に即効で体温計を渡された。
計ってみるとこれが意外と高くて、37度9分。平熱が35度台の自分には高めの数字である。ところが自覚症状は全くなくて、こうして数字を見せられて初めて風邪だと自覚したほどだ。
(乾〜、お前ニブ過ぎ!)
英二の呆れたような声を思い出す。うるさい、子どもは風の子の代表格め、と内心思うのだが、たしかに数字を見て初めて発熱と頭痛を感じるあたり自分は鈍いのだろうか。
体調管理はしっかりしろ、と怒ったような手塚の声と、おうちの人に温かいものでも作ってもらえよ、と大石に苦笑混じりの声に送り出された。

(とはいってもなあ・・・)
本来心地いいはずの秋風が、急に身に染みて寒く感じる。今年は冬の到来が早いのか、そういえば桜が咲くのも例年より早かったな、なんて、どうでもいいことばかりが頭を回り始めた。

(これは・・・マジでヤバイかも)

なんて考えていたら、急に目の前がちかちかと光り始め、意識がもうろうとしてきた。

「乾・・・?」

誰かの声が聞こえたような気がしたが、発熱で乾の意識は途切れてしまった。








(あれ・・・?)
コトコトと、キッチンから随分長いこと聞いていない気がする包丁の音が聞こえた。
ぐつぐつと何かが煮えている音もする。
そして、鼻腔をくすぐる何やらおいしそうな匂い。

「あ、起きた」
目の前に、不二の顔があった。
(・・・?!)
「やだなあ、乾。驚きすぎ」
思わず飛びのいた自分に、不二が不満そうに口を尖らせる。彼らしくもない可愛らしい仕草だ。
「ああ、乾、気が付いたか」
キッチンから顔を出したのは、やっぱりというか何と言うか、手塚だった。しかし彼はシンプルなベージュのエプロン姿で、乾はもう一度驚いた。
「な、何やってるんだお前ら・・・!」
ていうか此処は・・・俺の家のリビング?
「感謝してよ、七階まで運ぶの大変だったんだから」
得意げに笑う不二の顔に、乾はすべての合点がいった。
意識を失う直前、聞こえたのはこいつらの声だったのだ。
自分が寝転がされていたのはリビングのソファで、額に濡れタオルが乗せられていた。さすがに部屋のベッドまで運ぶのは無理だったのだろう。 カッターシャツの第一ボタンは外されて、ベルトも緩められている。
「眠ってる間に測らせてもらったけどね、まだ少し熱があるみたいだから。手塚のご飯食べて、大人しく寝てるように」
「あ、ありが・・・え、手塚の?」
さっきのエプロン姿は幻覚じゃなかったらしい。言っている間に、カッターシャツの袖をまくって鍋を持ちながら、手塚がこちらにやってきた。
「冷ましてから食え」
「すごーい、手塚。おいしそう」
最早驚いて言葉も出ない乾に変わって、不二がぱちぱちと拍手する。やれやれ、と手塚は俺の寝ているソファの脇に腰を落とした。
野菜と卵のたっぷり入ったお粥。スプーンで一掬いして口に運ぶと、存外に美味い。おっと、眼鏡が曇った。
「・・・包丁の音で目が覚めたけど、まさか手塚だとは思わなかったよ。お前、こんなキャラだっけ?」
「失敬な。俺だって他人に粥など作るのは初めてだ」
「へ?じゃ、どうやって作ったんだよ」
「電話で母に聞きながら」

ぶっ。

危うく口の中身まで噴出すところだった。
じろり、と剣呑な視線が突き刺さる。悪かった、もう笑わないって。
怒っているというよりは、照れてるんだろうけど。それぐらいは分かるよ。
「ありがたくいただきます」
「さっさと食え」
不二が一人、手塚の隣で満面の笑顔でやり取りを見守っていた。
「不二は?お前の家は女性率高いから、料理はできそうなのに」
「ひどいなあ、ボクだって手塚並には出来るよ?手塚がやらせてくれなかっただけ」
なんで?と手塚の方を向くと、渋面で言葉が返ってくる。
「マスタードとタバスコ入りの粥が食べたかったのか?」

・・・それは、お気遣いありがとうと言うしかない。

「乾、一口頂戴。見てたら食べたくなっちゃった」
言うが早いか、不二は俺のスプーンをぱくっと咥える。俺も一瞬思考が止まったが、怖々目線をやると、手塚も固まっていた。
「ごちそうさま」
ぱちっと片目をつぶって天使のような笑顔を向けられるが、不二、怖いって。手塚へのあてつけは他の方法にしてくれ。手塚、俺を睨むな、俺のせいじゃないってば!


何とはなしに部屋を見回すと、時期が早いがエアコンのスイッチが入っていた。
暖かく調整された部屋に改めて感謝し、礼を言おうとしたそのとき、テーブルの上の時計を見て俺は目をむいた。
「・・・って、もう十一時じゃないか!」
「ああ、四時間ほど眠っていたからな」
「ほら乾、安静に」
飛び起きた俺を二人してまた寝かせる。なんでお前らそんなに落ち着いてるんだ。
「家に連絡はしたのか」
「大丈夫だって、あ、でも今日は泊めてね」
「それは構わんが・・・お前らなあ」
お人よし過ぎやしないか、こんな時間まで、ずっと付いててくれたなんて。
「ご家族の方は、今日も戻られないのか」
手塚が立ち上がって、もう一度エプロンをつけながら、さらりと尋ねてきた。
食べ終わった粥が運ばれていく。
「・・・ああ、忙しいみたいだから」
「・・・そっか」
少しだけ寂しそうに、不二が微笑む。お前がそんな顔する必要はないだろうに。

思えば、去年のあの日。
部室で手塚と不二の諍いを見てしまってから、ずっとこんな調子で付き合いが続いている。
勿論それぞれ仲のいい奴は別にいるし、大石や菊丸とだって腹を割って話せる間柄ではあるけれど。

この三人でいるときの空気は、それとは別物だった。


「不二、手伝ってくれ」
「はーい」
パタパタとキッチンへ向かう二人を見送る。
(傍から見たら、“カップルとその共通の友人”って感じなんだろうなあ・・・)

この自分がどれだけ複雑な思いを隠しているかなんて、誰が知ろう。

「まあいいけどね、今のところは“共通の友人”で」

一人ごちながら、乾は眼鏡の奥で少し笑った。







おまけ