――2年前。

「おい・・・何だよ、あれ」
関東の強豪とされる青春学園男子テニス部にちょっとした波乱が巻き起こった。
先輩たちの言葉をなくさせ、同級生すらも畏怖させる中。
サムライのごとくばっさばっさと、遠慮もなくそのラケットで倒していく、少年が一人。

「ありがとうございました、杉山先輩」

手塚国光、12歳。

そして、それをコート脇で見守る少年が二人。

一人は、メモ帳を片手に分厚い眼鏡に隠れた瞳を輝かせて。
もう一人は、少女のような柔らかい顔立ちに、どこか白けた薄笑いを浮かべて。

乾貞治、12歳。
そして不二周助、12歳。

三人がお互いを認識するのは、もう少し後になる。






時は過ぎ、そろそろ梅雨が訪れそうな、六月半ばの曇り空のある日のことだった。
(あー、やっと終わった・・・)
乾貞治(12)は、首を回してゴキゴキと関節を鳴らしながら、埃臭い器具庫から外の世界に出てきた。
一年生のお仕事、玉拾い、コート整備、その他雑用の本日の当番だった乾は、これでようやく帰れると安堵の息をついた。
外はもう薄暗い。とうに諦めはついているが、やはりその空模様を見ると抑えていた苛立ちが顔を出してきて、乾はもう一度息を吐いた。

今日の当番、本来ならもっと早く終わるはずが、同じく当番だった先輩に仕事を押し付けられて逃げられてしまったのだ。 しかもその理由がデート。そんなんじゃレギュラーへの道ははるか遠い。もともと実力だってそうあるわけでもないのに、呑気なもんだ。

どうもこの青学テニス部は全体的に、やる気というか、ハングリー精神に欠けるきらいがあった。
かつての強豪もここ四、五年は都大会止まり、あげく先輩風を吹かすだけで実力は乏しく、鼻の高さだけはいっぱしの先輩たち、ときた。 部活の空気もどこかたるんでいて、こうして当番を平気でサボる者までいる。
青学の名前から強豪の看板が落ちる日も近い、と密かに乾は睨んでいるほどだ。

――まぁ俺の知ったこっちゃないけどね。
乾は思考をストップさせる。他人の事などどうでもいいことだ。
第一、自分だってそれほどテニスに情熱を燃やしているわけでもない。

――今日の晩飯何にするかな、コンビニ寄らないと。
いつも通り、一人きりの食卓を思い浮かべながら、乾は冷めた顔でスタスタと部室に向かった。



(おや・・・?)
部室の扉の前に立ったところで、中から人の話し声が聞こえた。電気は消えていて室内も薄暗いのに、まだ誰か残っているらしい。
しかし、そろそろ暗くなるのに電気も付けず、何をしているのか。
乾ははてと首をかしげた。
もうすぐ時刻は七時半になる。今日の練習は比較的早く終わったから、とっくに全員帰ったはずだ。
それなのに、部室の電気も付けずに部室に残っているなんて、まるで人目を忍んでいるかのようだ。
(・・・ということは、密談かな)
乾は面倒臭げに当たりをつけた。
ひょっとしたら、先輩が中でこっそり煙草でも吸っているのかもしれない。だとしたら、うっかり見てしまったら面倒な事になる。

回れ右すべきか、否か。

しかし、あいにく乾の荷物も制服も部室の中なのだ。
乾はそっと、窓から中の様子を伺った。

そこにいたのは、少し意外な人物だった。
「手を抜いて打つな」
強い口調で、学生服に着替えた少年がもう片方の少年に詰め寄っている。
(あれは、手塚じゃないか・・・)
手塚国光(12)。入部早々先輩たちを全員倒し、部長の期待と他の先輩の反感を買ってしまった、あの異質の同級生だ。
「何が言いたいのか分からないよ。いい加減にしてくれない?」
(あっちは、不二か・・・)
詰め寄られている方の少年は、不二周助(12)。先輩たちの間では「そこそこ上手い」という評価だ。小柄でパワーもなく、特に目だって注目されているわけでもない新入部員だ。
不二はまるで少女のような綺麗な顔をしたいつも笑顔を絶やさない少年だが、今はその顔を疎ましげにしかめている。そんな彼に対峙する手塚は、不二とは違う方向に整った怜悧な顔で、眼鏡越しに強い視線を投げかけていた。
喧嘩かと思われたが、二人は特に声を荒げているわけではない。しかし、二人の間の空気が張りつめているのは傍目にも明らかだった。
「だから何度も言っている。試合中に実力半分で打って、わざと負けてやるなんて真似はするな」
「そんなことしてないよ。キミ、ボクのことを何だと思ってるの」
嫌悪の表情を隠そうともしない不二に、手塚は顔を更に厳しくした。その強い視線には、とても同い年とは思えない凄みがある。
「隠し通せると思っているのか」
一切甘さのない、逃げ道も残さないという声だった。
その声色に少しだけ気圧されたのか、不二は黙る。
「お前自身のためにならない」
裁判の判決文を読むのように、キッパリとした声が響き渡る。ガラス窓越しの乾にすら威圧感を感じさせるほど。
不二は少しだけ唇を噛んだかと思うと、次の瞬間にっこりと笑って顔を上げた。そして何でもないことかのように穏やかに言い放つ。
「キミに人のことが言えるの?」
含むものなど何もないかのような満面の笑みだった。なのに、なぜか恐ろしい。
「利き腕と逆の手で試合して、あげく全部勝っちゃって。バレて一気に反感買ってる手塚君に」
その笑顔は、有無を言わせない迫力があった。普段見ている穏やかな笑顔とは、同じ笑顔でも程遠い。
手塚はそんな不二をじっと見つめ続けている。
「言っちゃ悪いけど、キミ世渡り下手過ぎ。あんなに目立って相手の神経逆なでして、どうなるか分からなかったの?」
「・・・それが、お前の手を抜く理由か」
「痛い思いしてるくせに、どうしてまだそんなこと言ってるのさ」
不二は、横を向いて息を吐いた。だが乾からは、不二がその顔をくしゃりと歪めたのが見えた。
らしくもなく、苛立ちを隠しきれず泣き出しそうな。
自分の痛みのように、辛そうな顔だった。


手塚もまたそんな不二を見て、軽く目を伏せた。
しかし少し間を空けて、また顔を上げる。強い意志を伴った瞳だった。

「相手を思いやって、自分を守っているつもりでいた。だが、誠実で在らなかった代償は必ず自分に撥ね返ってくる」

手塚の瞳が、真っ直ぐ不二の瞳を捉える。

「お前の実力が見たい」



―― おいおい・・・ずいぶんな現場に居合わせたのかな、俺。

とりあえずこの場を離れようと、乾は窓に張り付いた手を離し、一歩下がろうとしたのだが。
ガサッ。
「あ。」
「誰だ!」

・・・参った。
後ろに下がった瞬間、植木にぶつかった。枯れ葉を踏んで足音がたち、部室の中の二人にもしっかりと気付かれてしまった。

降参、というように乾は窓から顔を出す。
ガラス越しの手塚と不二は驚愕した顔で乾を見つめている。あまり感情を顕わにしないタイプの手塚と不二が、こんなに驚いているのも珍しい。もっとも、それは自分も同じか。

化け物でも見るかのように。お互いまじまじと見詰めあったまま、動けない。

(・・・本気で、参ったな)

――これはひょっとしたら、先輩の煙草現場よりよほど面倒なところに立ち会ってしまったのかもしれない。



乾が部室に引っ張り込まれるまで、後五秒。



これが、三人の始まりのきっかけだったりする。







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