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『今年の桜の開花予想は、三月二十日となっています』 テレビから聞こえてきた女性キャスターの言葉に、白衣の男はふと足を止めた。 「・・・そうか、もう桜が咲く時期か」 三階からぼんやりと窓の外を見る。 ようやく春の足音が近づいてきた三月の初め。 ぽかぽかと暖かい、春の陽気の一日。 「年取るたびに一年が早くなるっていうけど、桜だけは妙に待ち遠しいなぁ。やっぱり俺も日本人なんだな」 「・・・何ブツブツ言ってんスか。手ェ動かしてください、乾先生」 一人感慨にふけっていると、背後から物騒な声が飛んだ。 「ごめんごめん。あ、そうだ。俺今日午後から休みとるから、よろしくな」 「は?」 思い切り眉をひそめた職場の後輩に、ニヤリと笑った。 「青春台に行ってくる」 がやがやとした雑踏を潜り抜け、やがて落ち着いた住宅街をのんびりと歩いていく。 昔もこうやって毎朝歩いて通学してたなぁ、と懐かしさで胸がいっぱいで、それでも少しずつ記憶と違ってしまった風景に年月の流れを思い知らされる。 大きな犬がいた家。「飛び出し注意」と太字で書かれた看板。 部活動の割り振りで、掃き掃除させられたイチョウの並木道。 大会に向かうときに乗り降りしたバス停。 昔住んでいたマンションへ通じる道。 間もなく見えてくるのは、「私立青春学園中等部」の懐かしい校舎。 「懐かしー・・・」 最後にここに来たのはいつだったか。指折り数えて、途中でやめた。 校舎も、部室も、テニスコートも、何もかも変わっていない。 今でもすぐそこに思い出がある。 あの日の自分たちが、今にもそのドアを開けて笑いながら出てきそうだ。勿論、その手にラケットを持って。 三年間という決して長くない時間を共有した、あいつらの顔が浮かんでは消えていく。 「♪ 恋なんて〜、いわばエゴとエゴの」 「あれ、随分懐かしい歌唄ってるじゃない」 不意に後ろから、声が聞こえた。 「やっほ、乾」 「・・・やぁ。久しぶりだな、不二」 「随分早いね。約束、三時だったでしょ?」 そういって微笑む彼は、最後に会った頃とさほど変わっていなかった。 いや、中学時代から変わっていないというべきか。 自分よりもかなり低い目線。さらさらとした茶髪。柔らかい物腰も、その微笑みも。 「・・・なに?」 「いや、二十歳過ぎても高校生で通るね、不二は」 「失礼なこと言わないでよ、乾がデカくなりすぎなの。竹の子みたいにどんどん伸びちゃって」 「・・・気が抜ける例えをするなよ」 連れ立ってまた歩き出す。 言わずとも、目的の場所は同じだった。 人の気配のない校舎。 懐かしい教室、掲示板、職員室。 それぞれ頭の中で思い出と感傷を噛みしめながら、一段一段、階段を昇っていく。 「よく屋上でサボってたよね、ボクら」 懐かしげに微笑んで、不二がそんなことを言った。 「ああ、そうだったな」 「立ち入り禁止なのに、カギ開けてね」 「そうそう」 思わず頬が緩んだ。不二のほうを見ると、悪ガキのような笑みを浮かべている。彼もこの懐かしい空間に存分に浸っているようだった。 「そのせいかな、学校で思い出がある場所っていったら屋上なんだよね。テニスコートは勿論なんだけど」 「だから・・・今日も屋上で待ち合わせにしたのか?」 不二は応えるかわりに、にっこりと微笑んだ。 優しい笑顔。そして、ときに残酷だった笑顔。 その姿が中学生の頃の彼と重なる。 そうやって笑いながら、いつもただ一人の傍に寄り添っていた。 「あ、思い出した」 「なに?」 「屋上でさ、乾がボクにキスしたことあったよね」 ガタン。 一段踏み外した俺に、不二は肩を震わせてクスクスと笑う。 「・・・お前ね、なんでそう昔の恥を持ち出すの」 「貞操奪っといて恥はないんじゃない?」 「奪うか!大体お前はとっくの昔に手塚のモノだっただろ!」 今日初めて、お互いの口から手塚の名前が出た。 ハッとする俺に、不二はただ微笑んだ。昔と変わらない、穏やかな笑顔だった。 「・・・キミ、殴られたもんね。手塚ってば怒り狂ってたし」 「ああ、でも俺はちゃんとあいつに謝ったぞ」 階段を登っていた不二の足が、ぴたりと止まる。 「うそ・・・手塚から聞いてないよ、それ。お互い全部なかったことにしてさらっと卒業したんだと思ってたのに」 「違うよ。ちゃんと謝罪した。それこそ屋上に呼び出して」 そんなこともあったなぁ、なんてこっ恥ずかしいことを思い出した。 『・・・言い訳する気はないよ、手塚』 『乾・・・お前』 『だから、受け取ってくれ』 訝しげな顔で佇む手塚に、俺は真っすぐ腕を伸ばした。 「・・・それで?」 「あいつにもキスした」 瞬間、空気が凍る。 「・・・どこに」 「口に・・・って、ちょっと待て待て不二!怒るなって!」 「それのどこが謝罪なんだよ!」 「いや、お前にキスしただけじゃ不公平だから・・・俺としても」 「意味わかんないよ!」 「『この変態がっ!』って滅茶苦茶怒ってたよ。真っ赤になってたな」 「・・・キミ、よく殺されなかったね」 盛大に突っ込まれた俺は、これ以上不二を刺激しないように黙って階段を登った。手塚のヤツ不二に言わなかったのか、まあそれもそうか、なんてことを思いながら。 しばらくして、不二がぽつりと口を開いた。 「まぁ・・・知ってたからね、ボクも」 「乾が手塚のこと好きなの、知ってたから」 不二は俺のほうは見ず、足元だけを見ながら登っていく。 「乾はずっと手塚のこと見てたもんね。テニスしてるときも手塚を目標において、すごい執念で追っかけてた。乾自身が気づいてたかどうかは知らないけど、ボクは知ってたよ」 すべて過ぎ去ったことというふうに、不二の顔はとても晴れ晴れとしていた。 告げられた言葉の内容よりも、その晴れ晴れとした顔がとても印象に残った。 「だからボクにキスしてきたとき、内心『やっぱり』って思ってた。手塚のこと好きだから、こんなことしたんだろうなって」 ずっと追いかけていたから。 「不二、俺に嫉妬したことあった?」 「あったよ」 「どんなとこ?」 「手塚を見下げられるところ」 「ぶっ」 「ね、白状しなよ。手塚のこと好きだったんでしょ?」 「うーん、どうだったかな」 俺は笑ってごまかした。不二がさりげなく俺を牽制していたのかと思う場面は、思い返してみればいくつかあった気がする。当時は全然気付かなかったけど。 そうか、俺もそれなりにこいつらに危機感とか脅威みたいなものを味合わせることが出来てたんだな。 そう思ったら笑えてきた。スゴイじゃないか、当時の俺も。 (でも、それは少し違うよ、不二) 心の中で否定しておく。 好きなのは、手塚だけじゃなかった。 「・・・不二は今、付き合ってる人とかいるの」 「乾は?」 はぐらかされてしまった。 「秘密」 「じゃボクも教えてあげない」 ふふふ、と笑われる。相変わらずその笑顔の裏は読めない。 「それにしても今日はあったかいねぇ。もう春なんだね」 厚手のコートを着ていた不二は、ぱたぱたと手で仰ぐようにした。 そのとき、彼の左手に指輪がはまっていることにようやく俺は気がついた。 |