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「もうじき、桜も咲くかなぁ」 歌うように楽しげに、不二はそういって笑った。 どこかショックから抜け出せないまま、俺たちは屋上に通じる扉の前までたどり着く。 懐かしいその扉はやはり記憶の中のものと変わってなくて、立ち入り禁止の校則を何度も破った過去を思い出す。 「カギの開け方を教えてくれたの、大和先輩だったよね」 不意に、不二がそんなことを言った。 「ああ、そうだったな」 まだ一年生だったとき、あの人の悪い先輩は俺たち三人を連れてこの屋上まで来ると、実践つきでカギの開け方を教えてくれたのだ。 懐かしい。 「それじゃ、開けるか」 ノブに手をかけて、おやっと思う。 鍵が掛かっているはずの扉は、するりと開いた。 風圧に押されて、ざあっと風が吹く。 思わず目を閉じた俺たちが、おそるおそる目を開けると。 屋上の、まぶしいばかりの青空の下に、手塚が立っていた。 「・・・お前が先に来てたのか」 「約束は三時って言ったのに、結局みんな早く来てるんだもんね」 不二がくすくすと笑った。 「久しぶりだな」 そういって、目の前の手塚は少し表情を緩めた。 硬質な雰囲気も、意志の強さが現れた銀フレームの眼鏡の奥の瞳もやはり変わっていない。中学生の頃から老けている老けているといわれていた彼の容姿は、今の年齢から考えれば丁度いいのだろう。 「久しぶりって気がしないな、手塚とは。しょっちゅう雑誌とかテレビで見かけるし」 中学生の頃から恐ろしく人気のあった手塚だが、今となってはお茶の間の女性たちを悩ませている始末だ。本人の自覚が薄いところがまた罪な男である。 「お前こそまったく変わっていないな。少し背が伸びたくらいか」 「あ、不二にも言われたんだよそれ。よく分かるな?」 「当たり前だ。俺もあれから伸びたが、相変わらずお前のほうが目線が上だからな」 「プラス、その眼鏡も変わってないよね乾は」 横から不二が茶々を入れた。 すると何か?俺たちはみんな割とあの頃から変わってないのか? 俺の考えを見透かしたように、不二が笑って言った。 「たぶんみんな変わってないよ。英二とか、大石とかも。どんなに変わってたって、この青学の空気を吸ったら中坊に戻っちゃうもの」 心地のいい春の風が吹く。 屋上のフェンスにもたれかかって、俺たちは腰を下ろした。 ああ、本当に。まるで中学生の頃に戻ったようだ。 「大石たちには、集合は四時って言ってあるんだろ」 「うん。でもどうせ今ごろ親しかった奴ら同士で集まってるんじゃないかな。桃と越前辺りとか」 「越前は昼ごろに成田に着くと言っていた」 「あ、向こうで会ってるんだっけ?」 「嫌でもな。同じ学校の先輩後輩だと、周りに面白がられて敵わない」 プロになった手塚と越前は、現在は海の向こうに住んでいる。 彼らを輩出した青学もすっかり有名になって、竜崎先生が退職した今でもテニス部の入部者は後を立たないらしい。 そんな思い出深いテニスコートが、この春改築されることになった。 もっと大規模なものにして場所も移転するらしく、俺たちが使った部室もコートもなくなる。 その前に、久しぶりに会おうじゃないかと連絡を回し始めたのは、桃城だったか菊丸だったか。 そういうわけで、今日俺たちはこの懐かしい青春学園にやってきたのだ。 「ここに来ると思い出すことばかりだ」 手塚が懐かしそうに眼を細めた。 「そういえば、乾にここに呼び出されたこともあったか」 ぶっ、と吹き出す。何でお前たちはこのタイミングで同じことを思い出すんだ。思わず隣の不二を見ると、あからさまな怒りのオーラを漂わせている。 「そうだよ、ボク今日はじめてそのこと聞いたんだから。手塚全然言わなかったもんね」 これには手塚も返す言葉がないようだった。 「・・・言えるか、あんなこと」 「・・・ちょっと、気持ち顔赤くなってるのはなんで?まさかキミたち、キス以上のことまで・・・」 見る見る凶悪な顔になっていく不二に、俺は血の気が引く思いで慌てて手塚を牽制した。 「ちょ、絶対言うなよ手塚!?頼むから!」 「・・・話を聞かせてもらうよ、手塚」 黒いオーラをまとわりつかせた不二が、その攻撃から逃げようと必死で顔を背けている手塚に取りすがる。 こりゃオチるのは時間の問題かと思った俺は、そろりそろりと距離をとった。 あの日、謝罪代わりに手塚にキスした俺は、真っ赤になった彼に派手にぶん殴られた。 『―― お前はいつだって前だけ見てるな』 ぶん殴られて尻餅をつきながら、突然そんなことを言い出した俺に、手塚はやや困惑しているようだった。 『お前は強いよ。技量だけじゃなくて精神的にも。お前の存在に俺たちはとても支えられてた。見えないところで一人戦って、壁を乗り越えながら、前に進んで』 『羨ましかったよ、そして追いつきたかった』 いつもと様子の違う自分に毒気を抜かれたのか、中学生の手塚は怒りを収めて自分に近づくと、ポンと肩を叩いた。 泣きそうになっている自分に、彼は気付かない振りを通した。 (今思い出しても恥ずかしいことやったなぁ・・・) 本当に、いろいろあった。 不二の追求から何とか逃れられたのか、手塚が隣にやってきてため息をつく。 腕組みして佇む記憶の中と同じポースに、苦笑しながら俺はこっそりと彼の左手を覗き込んだ。 「何だ?」 「・・・いや」 サウスポーゆえに若干太くなっている、手塚の、プロテニスプレイヤーの左手。 その指に指輪がはまっていないことを確認した俺は、はぁと息をついてずるずるとその場に座り込んだ。 (そうか・・・) 不意に俺は納得した。その事実は気味が悪いほど自然に、するりと胸に降りてきた。 変わっていないといくら言い合っても、やはり時間は確実に俺たちの間を過ぎていき、また変化し続けているのだ。 あれから、卒業のあの日から、俺たち三人の進む道は分かれた。 あの分岐点を最後に、それぞれがそれぞれの道へ、それぞれ違う時間の中を生きてきたのだ。 時間の流れ。 それはあれほど強く結び合っていた手塚と不二の関係すら変えてしまった。 二人が離れるなんてことを、あのときの俺は想像すらできなかったけれど。 その事実が少しもショックではないといったら嘘になるが、これもまた自然のことなのだ。 これまでもそうだったのだろうし、これからもそうして時は流れていくのだろう。諸行無常。ずっと変わらずにいられるものなど、何一つない。 「・・・それでも、俺は」 二人が俺を見る。 「それでも俺は、覚えておきたいと思うよ」 「・・・何を?」 不二の声は、びっくりするほど優しかった。 「あの頃の、俺たちの気持ちを」 好きだったのかと聞かれたら、おそらく好きだったんだろうと答える。 どちらが、と聞かれたら、両方好きだったと答える。 手塚も、不二も、はるか高みにいて。 俺は追いつきたくて、二人の立っている場所まで行きたくて、がむしゃらに頑張っていた。 きっとそれは恋愛とは言わないのだろうけど、ひょっとしたら傍から見た俺の追いかけぶりは恋慕にも似たものに見えたかもしれない。 ただの友情でもなく、かといって二人の仲を引き裂こうなんて思いもしなかったし、どちらかに成り代わろうなんて望みもしなかった。 ただ追いつきたかった。 はるか頂点に立って、天の際を見つめている手塚と、そんな手塚だけを見つめている不二に。 『大事にしなね、そういう関係』 いつだったか、菊丸に言われた言葉がよみがえる。 ああ、たしかに俺は。 打算も、牽制も、テニスや恋やプライドだの何だのが入り混じったこの三人の関係が好きだった。 三人でいることが、好きだった。 「・・・二等辺三角形」 またもや唐突に口を開いた俺を、二人がどうしたのかと目で訊いてくる。 「いや、つくづく二等辺三角形だったなぁって思ってさ。俺たちの関係」 「どうして?」 「ほら、ここに手塚と不二がいたとするだろ?」 俺は並んでいる二人から少し離れて、大体中心の位置に立つ。 「俺は、お前らから等しく離れてるわけ。同じぐらいの距離が開いてるんだよ」 「なんだよ、それ」 「ほら、二等辺三角形は二辺が同じ長さの三角形だけど、言い換えたら一辺だけが違う長さ、ってことだろ?俺が頂点の三角形を考えてみて。俺と手塚をつないでる辺も、俺と不二をつないでる辺も同じ長さだ。だけど、手塚と不二をつないでる辺は同じじゃなかった」 さりげなく過去形で言った。 「俺はそれを、限りなく正三角形に近づけたかったんだよ」 二人は沈黙している。 「もっとも、今は違うな。俺たちはそれぞれの道を歩んでるわけだから」 「あ、そうだ」 空気を変えようとした俺に、それまで黙っていた不二が、ぽんと手を打った。 「乾に言おうと思ってたことがあるんだよ、ねぇ手塚」 二人は顔を見合わせ、うんと頷きあった。 「ほんとはこの後全員が集まったときに言おうかと思ってたけど、乾には特別に先に教えてあげる」 不二はそれこそ花の咲くような笑顔になった。 「ボクと手塚、この春から一緒に住むことになりました」 「はぁっ!?」 思わず眼鏡のずれた俺を他所に、不二は幸せそうに笑って告げる。 「やっとお互いの家族を説得したんだよ。やっぱり隠してるのは良くないからね」 「長かったな、これまで」 「うん。けどこれでようやく堂々とお互いの家にも出入りできるね」 「ちょ、ちょっと待ってくれ・・・」 それじゃ。 それじゃ、お前ら。 あの、不二の指にはまっていた指輪は。 手塚はふっと口角を上げると、シャツの下に着けていたネックレスをするすると引き上げた。 チャリ・・・と音を立てて出てきたシンプルな銀のネックレス。その先には、不二のものと同じ銀の指輪が光っていた。 ――ああ、まったくこいつらときたら。 「・・・人騒がせな・・・」 俺はがくっとコンクリートに突っ伏した。 照りつける春の日差しが、青空が笑っているようだ。 「ねぇ乾、ボク思うんだけどさ」 不二はにやりと笑った。 「どんな三角形でも、三つの点が繋がってることには変わりないじゃないか」 ね? 不二の涼やかな声が、春の風に流されていく。 「・・・不二の握力47、持久走4分44秒。手塚の長座体前屈29.1、持久走4分39秒」 突っ伏したまま何やら言い始めた俺に、手塚と不二は怪訝な顔で近寄ってきた。 「ラケットはMIZUNO PRO LIGHT S90、不二はprince TRIPLE THREAT RIP」 俺はやれやれと顔を上げて、笑う。 目の前には、手塚と不二の顔がある。 「いまだにお前らのデータを覚えてるってことは、これってやっぱり恋だったのかな?」 いつも冷静な手塚と不二が珍しく、空を仰いで大笑いしていた。 |