Summer Blue  2

君との出会いは意味のなかったことじゃない


 青々とした葉が散って、冬を告げる白い雪が降り積もって、賑やかに一年が終わってまた始まる。
 時が止まることなく流れていくことが、これほど残酷なことだなんて思わなかった。




 学校が終わると、すぐに病院に向かうのが日課になった。廊下を走って降りて、自転車置き場に直行する。病院は、学校からはさほど遠くではない。ただ、丘の上にあるために急な坂道を登らなくてはならないが。いつも半分までは漕いで登れるのだが、菊丸は自転車で登りきったことはなかった。途中で力尽きるか、昔の古傷が痛むかのどっちかだ。そのことを大石に話すと、無理に漕いで登る必要なはないと笑っていた。
 大石は、だいぶ弱っているように思えた。放射線治療で髪の毛はすっかり抜けてしまい、あまりの痛さに会えない日も増えた。それでも生きようとしているのだから、自分が根を上げてしまってはならない。
 今日もまた登りきれずに、途中から自転車を押して病院へ着く。顔見知りになった受付の看護婦に頭を下げて、まずは売店に向かった。コーヒー牛乳プリンを二つほど買い、大石の病室へと向かう。
 ノックは二回。
「大石〜」
 返事を待たずにドアを開けると、いつものように大石はベッドに座って本を読んでいた。髪の毛のなくなった頭を隠すように、毛糸の帽子を被って。去年の夏、あれだけ海で焼いた肌はすっかり白くなっている。
 病室は個室で、几帳面な大石らしくベッドの傍の本棚などは綺麗に整理されている。本は手塚が買ってくるらしい。思いがけず、推理小説が多かった。
「お土産だぞー」
 サイドテーブルにプリンを置く。
「ありがと、英二」
「今食う?それとも冷蔵庫に入れておこうか?因みに俺は今食うけど」
「んー、冷蔵庫に入れておいて」
「了解」
 勝って知った風に引き出しからマジックを取り出し、プリンのカップに「大石」と名前を書く。冷蔵庫は患者が共同で使っているため、間違えないように名前を書いておかないといけないのだ。
「入れてくるな」
 一言断わって、菊丸は病室を出た。
 大石は、だいぶ食べなくなったと思う。食事の時間がくれば帰ることが多いけれど、たまに休日などは昼食のすぐ後に来ることもある。彼の食器を片付けられる時、あまりの残飯の多さに驚いた。本当に、箸をつけた程度しか食べていないのだ。プリンだって、食べる前に賞味期限が切れてしまうだろう。そうやって捨てられたプリンのことを、菊丸は知っていた。
 冷蔵庫にプリンを入れる。
 泣きそうになった。
「大丈夫。大丈夫だ」
 そうやって自分に言い聞かせ、足早に病室に戻った。急いでいたからノックもせずに病室に入る。
 大石は。
 大石は静かにそこにいた。
 本当にただ、静かに。
 窓から入ってくる夕焼けに照らされるまま、白い頬を赤に染めて。まるで時を止めたかのように動かない。
「大石」
「あ、おかえり」
 弾かれたように大石は微笑む。
 菊丸は何も言わずに近寄り、大石を抱きしめた。体は思った以上に痩せて小さくなっている。それでも触れた部分から伝わってくる、彼の温もりと鼓動。
「英二?どうしたの?」
「えっちしたいって思っただけ」
「ぅええ!?」
 素っ頓狂な声を上げる大石に満足して、開放する。大石の頬は、夕焼けのせいだけでなく赤く染まっていた。
「好きなんだからさー、やっぱそう思うわけだよ」
 意地悪そうに笑い、来客用のイスに座る。大石は相変わらず恥ずかしそうに顔を赤らめ、何を言っていいかわからないようだった。そんな様子がおかしくて、余計に笑えてしまう。
 ああ、こんなにも何も変わらないのに。
「不二と手塚、ここんところ週末は必ず二人で打ち合ってるんだよ」
「インターハイ、二人とも惜しかったからな」
 そう。二人はインターハイに出場したものの、手塚の高校は団体戦の準々決勝で破れ(もちろん手塚自身は無敗だが)、不二は準決勝で敗れた。二人とも、並々ならぬ意欲で望んでいたため、試合結果を報告に来た時は、本当に悔しそうだったのを覚えている。
「来年があるのにね」
「来年だけじゃないよ。俺達と違って、あの二人はテニスができるもん。頂点に立つチャンスはいつだってあるじゃん」
 足をぷらぷらさせ、菊丸は自分の足を見つめた。テニスが出来なくなり、あれほど嫌いだった足だけれど、今はそんなに嫌いではない。こんな足でも、毎日病院に大石に会いに来ることができるし、大石を支えることもできる。今はそれで十分だ。
「高校サッカーのオープニングでね、小野伸二の言葉が読まれてたんだ。あの人、今はすっごい活躍してるけど、実際国立には行ったことないんだって。地区予選で、最後に自分が蹴ったボールが入らなくて、決勝敗退。チームメートは気にするなって言うけど、やっぱり負けたのは事実で、すっごい悔しかったみたいでさ。でも、彼は思ったんだ。これが始まりであって終わりではない。いつかこの俺が英雄になってやるってさ」
「カッコいいね」
「だろだろ?俺ちょっと尊敬しちゃったよー」
「手塚と不二が英雄っていうのはちょっと笑っちゃうけどな」
「それ言っちゃだめだろぉ」
 クスクスと小さく笑って。
 話題を持ち出すのはいつも菊丸の方。最初こそ大石は今日はどんな治療をしただの、こんな患者と知り合っただの話してくれたが、今では自分から話すことはない。菊丸の話しに頷いたり、軽く返すことしかしない。
 もしかしたらそんなことしか出来なくなっているだなんて、考えたくなかった。
 息を吐き出し、微笑んでみせる。弱気になっている自分なんて、見せたくなかったし、見せてはいけない。誰よりも自分が、彼を信じなければ。
「今年は一緒に応援に行こうな」
「え?」
「だから、不二と手塚の応援!んで、また海に行こう!!」
 そう言うと、大石は複雑な表情をした。そうだねと返したいけれど、それも出来ないほど顔が強張る。
「大石…」
「そうだな」
 今にも泣き出しそうな笑顔を、ようやく作り出す。今、一番不安なのは大石自身だった。いくら自分が信じていても、彼の体は彼が一番知っている。
「行こうな、英二。また、車椅子押してくれよ」
 今度は菊丸が返すことが出来なかった。話しを振ったのは自分なのに。未来の話しをすれば、目の前の現実なんて気にしないと思ったのに。何か口に出せば、全てが涙に代わりそうで。それは大石を傷つけてしまいそうで。
「……英二」
「ごめ…」
 謝る菊丸の頭に、大石の手が伸びた。幼い子をあやすように優しく、その手は髪を撫でる。
「……もう、来なくてもいいんだよ?」
 愛しそうにそのはねた髪を指で梳き、そっと離す。
「辛いだろ?英二が辛いのは嫌だから、もう来なくていいよ」
 思わず言葉を失くした菊丸に、大石は優しく微笑む。
「俺はもうすぐ死ぬから」
 ずっと互いに言わなかった、大石の病状。痛みで会えなかった次の日も、髪がなくなった日も、何も言わなかった。
 ひしひしと死に近づいているなんて、考えたくもない。
「また…転移したって。まだ精密検査はしていないけど、他にも疑いがある部分がいくつかある」
「……」
「どうするかって、言われた。このまま治療を続けて少しでも長く生きるか…痛みを抑えて安らかに最期を向かえるか。もう、お前が選びなさいってさ」
 俯いたまま、大石は言葉を切った。静けさが沈黙に変わる前に、聞こえてきたのは嗚咽。
「大石…」
「死にたくない…」
 搾り出すような声は湿っていて。小さくなった肩は小刻みに震えている。
「俺、死にたくないよ…でも…俺……俺は…」
「…だ」
「死ぬんだよ」
「嫌だ!!」
 イスから立ち上がり、菊丸は大石を抱きしめた。先ほどよりも強く、ほとんど乱暴に。
 もう、涙は止まらなかった。何度も何度も嫌だと繰り返して、子供のように泣きじゃくった。
 いつかこの体がなくなるなんて、受け入れることはできなかった。





 足元に転がるテニスボールを拾い、コート内に放り投げた。礼を言う不二に力なく微笑んで、菊丸はベンチに座る。
 休日のテニスコートだが、連日の寒さのせいか人は少ない。天気だって、今にも雪が降り出しそうな曇り空。練習熱心な手塚と不二の練習に顔を出すのは、なんだかんだで初めてだった。
 お互いに軽くアップを済ませ、打ち合いを始める二人を、何も言わずに眺める。時折転がったボールを拾うだけで、後は何もしない。寒さで指先の感覚がなくなるけれど、それでも菊丸はただ、二人を見ていた。
 心地よい、ラケットにボールが当たる音。シューズの底が擦れる音。もう二度と係わり合いのない音。
 ふと、音がやんだ。
「……あにゃ?どったの?」
 コート内の相手ではなく、二人は自分を見ていた。手塚は相変わらずの無表情で。不二はどこか不機嫌そうな表情で。
「どうしたの、はこっちの台詞」
「俺?どうもしてないけど」
「今日は大石の元には行かなくていいのか?」
「最近、授業が終わった後も行ってないよね。あれだけ毎日通ってたのに」
 いつの間にか二人はコートから出て、菊丸の正面に立っていた。座ったままの菊丸は、二人を見上げて苦笑する。
 もう、笑うしかなかった。
「半端な好きなら近づくなと言ったはずだ。お前の本気はその程度だったのか?」
 手塚の睨むような視線に耐えられず。思わず目をそらす。
「…違う」
「じゃあ何故ここにいる?」
「それは…」
 容赦なく問いただしてくる手塚に返す言葉などない。たとえどんな言葉を尽くしたところで、自分は逃げたのだ。
 彼の前ではずっと笑っていようと決めていたのに。どんなに未来が絶望的なものでも、決して諦めまいとしていたのに。ずっと信じようと決めていたのに。
「答えろ、菊丸」
 今は会えない。
 会いに行けばきっとまた泣いてしまう。自分が泣けば、彼が苦しむ。これ以上苦しめたくない。
 けれど、それとは反対に、とても彼の傍にいたいと思う自分がいることも確かで。
 結局の所、ただたんに自分が弱かったのだ。彼を、愛し続けていくだけの強さが、自分にはなかった。
「………もぉ、どうしようもないんだってさー」
 ああ、また目が熱くなる。二人の姿がぼやけたと思ったら、ぽたりと零れ落ちる涙。かっこ悪いなんて頭の端で思うから、口元だけはせめて笑って見せた。
「あっちこっちに転移したって。治療を続けても、死ぬことに代わりはない。だから……もういいって。もう来なくてもいいって……」
 死にたくないと泣いていた彼の姿が目に浮かぶ。今も彼は泣いているのだろうか。眠れない夜を過ごしているのだろうか。
 そうして自分は、何の役にも立てないでいる。
「だから…もう行かないの?」
 不二の言葉に首を横に振る。彼の元に行きたい。けれど、行けない。
「英二って、その程度だったの?」
「どうしろっていうんだよ!!」
 思わず声を荒げ、不二の肩に掴みかかった。大石とは違い、しっかりと筋肉のついた肩。今はそれすらも憎たらしい。
 お前に、何がわかる。
 あんな細い肩を抱いて、生きてくれと望む自分の気持ちなど、何もわからないくせに。
「もう死ぬってわかってて!!俺はあいつの何の力にもなれなくて!!俺はあいつの傍にいて、何ができる!?お前等の試合の応援に行こうとか、また四人で海に行こうとか、そんなこと言えっていうのか!?」
「……違うよ、英二。違う」
「傍にいてやれ。お前のにはその義務が在る」
「簡単に言うな!!傍にいたって…傍にいたって俺には何も出来ない!!何も出来ないんなら、傍にいる意味なんてない!!」
 これはもう、八つ当たり以外の何者でもない。
 本当はわかっているのだ。何を言ったって、ただ彼から逃げているだけだってことくらい。
「……嫌なんだ。あいつがいなくなるの。堪えられな…っ!!」
 パンッ!
 乾いた音がコートに響く。
 ひりひりと痛む頬を右手で押さえて、ようやく手塚に叩かれたということに気づいた。その時見上げた手塚の顔が、どうしようもないくらいに痛いもので。
「それが、中途半端だって言ったんだ」
 表情とは違い、口調はいつも通り静かで。いや、いつも以上に静かで。責めているのに、それよりも痛い。
「お前は、大石から好きだって言われたことがないだろう?」
 必要以上に静かな口調。
 菊丸は、弱々しく頷いた。
 確かに大石は好きだと言えばありがとうと答えてくれる。抱きしめるのも、口づけするのも照れはするけれど、拒否はしない。
 けれど、彼から好きだと言われたことは一度もない。気にならないわけではなかったが、それを口にすることはなかった。そんなことを言う余裕が、彼にはないと思っていたから。
「…大石が、俺に言ったことがある。お前のために生きたいと。ただ、もしもの時にお前に辛い思いをさせるのが嫌だから…だから……」
『だから、絶対言わないんだ』
「好きだなんて、絶対に言わない、と」
 そう言って泣いた彼の横顔は忘れることはできない。
 好きだと言われて、傍にいて。それだけで十分幸せだった。だからいつだって笑顔で、前向きでいられる。
 この幸せをくれる彼を、不幸にしてはいけない。
 自分に、縛り付けてはいけない。
 好きだ、なんて綺麗な言葉で、縛り付けてはいけない。
 いつかいなくなる自分で、彼の未来まで縛り付けてはいけない。
「堪えているのは、お前じゃない。あいつだ。死ぬのはお前じゃない。痛いのも、お前じゃない。お前が逃げるのか?あいつの優しさに依存するのも大概にしろ!!」
 吐き捨てるように言い切ると、手塚は菊丸に背を向けた。
 誰もいないコートはやけに広くて。ひらり、と。真っ白な雪が舞い降りてくる。
 手塚の背後で、菊丸が立ち上がる気配がした。そして遠くなっていく足音。ようやく、大石の元へ行く決心がついたのだろう。
 知らず知らず、白い溜息が零れた。
 正直、これが正しいことなのかはわからない。ただ単に、自分のエゴになってしまうのかもしれない。けれども、自分にできることがこんなことしかないのも事実だ。
 親友、なのに。
 親友、だから。
 堪えられないのは、大石や菊丸だけじゃない。
 何もできないと言うのならば、自分の方が何も出来ない。
「手塚…」
「……俺は間違っていたか?」
「…ううん。君は君にできる最善のことをしたよ」
 不二は地面に視線を落とした。
「きっとこれが最善のことだったんだ」
 たとえ未来に別れしかなかったとしても。
 だから、泣かなくてもいいんだよ。





 いつもの坂を駆け上がる。運動不足の体は悲鳴を上げて、古傷の残る足はズキズキと痛む。飲み込む空気と、吐き出す空気のバランスが取れない。強さを増した雪が邪魔で、視界も悪い。
 それでも、会いに行かなきゃいけないと思った。
 彼が死ぬことが怖くてたまらない。別れるのが怖くてたまらない。
 そんな自分を、彼はとうの昔から理解していた。だから自分が逝く時に、少しでも菊丸への負担が少ないように、最小限でしか愛さなかったのだろう。
 なんて自分は小さくて、無力なのか。彼の死を止められることが出来ないだけでなく、そんな彼に無理をさせることしかできなかっただなんて。
 まだ、間に合う?
 看護婦に院内を走らないようにと注意されたが、それすらも気にせず、病室に駆け込んだ。
 そこには、いつも通り大石が座っていて。突然の来客にいったん目を大きく見開き、そしてすぐに悲しそうな表情をした。
 違う。そんな顔を見に来たんじゃない。そんな顔をさせたいわけじゃない。誰よりも、幸せにしたいんだ。
 濡れた髪からしずくが落ちる。息を整えながら、彼に近づき、笑った。
 多分、泣きそうなのかもしれないけれど。
「英二…もう来ないでいいって」
「来るなって言われてない」
 本当に嫌なら来るなと言えばいい。そう言わなかったのは、彼だって自分に会えないのが嫌だからとうぬぼれてもいいだろうか。
「俺、大石が好きだよ」
 冷え切った手で、大石の頬に触れる。普段は大石の方が冷たいのに、今は自分の手の方が冷えていた。
「最期まで、傍にいるからね。大石が、誰よりも幸せな人生を送ったって威張れるくらい、傍にいて、大石を愛するから」
「英二…」
「俺は、すっげえ弱い人間だけど、もう決めたから。世界が終わるまで、大石だけを愛するって」
 やんわりと大石の手が菊丸の手を退けた。
「だめだよ、英二。俺はもうすぐ死ぬんだから」
 この前よりも幾分落ち着いたのか、無理やりにでも笑う。笑わなければいっそ、泣いてしまいそうな顔で、笑う。
「笑うな」
 もう、そんな笑顔はいらない。泣いてはいけないなんて、誰が決めたんだ。
「最期まで傍にいる」
「俺は…」
「泣いていい。俺は全部受け入れる。俺が決めたんだ」
 離れていった手を握り、そらされた瞳を自分に向ける。そっと顔を近づければ、濡れた瞳が閉じられる。
 願わくば、最期にこの瞳に映るのが自分であるように、なんて思いながら、その唇に口付けた。
 時間を下さい、神様。
 これから先、俺の寿命をどれだけ削ってもかまいません。
 ただ、彼の傍にいられる時間をできるだけ長く下さい。
 永遠なんて望みません。
 たった一秒の触れ合いでいいんです。
 他に何も望みません。
 お願いです。
 時間を下さい。
 神様。





 蝉の鳴き声は止んで、外はすっかり夜が始まっていた。誰も何も言わずに、ただ、時だけが流れる。
 泣き疲れた菊丸は、襖によりかかってじっと大石の遺影を見つめている。写真は、去年の海での写真だそうだ。葬儀屋の合成によって、首から下は黒い服を着ている。それがなんだか滑稽だった。
 同じ写真を、菊丸も持っていた。菊丸だけではない。あの夏の日の思い出は、不二によって数枚の写真となり、手塚にも配られていた。一度だけ手塚の家に遊びに行ったことがあるが、あの簡素な部屋のすっきりとした机の上に、四人で撮った写真が飾られてあり、くすぐったい気分になったものだ。
 病院に行って大石に言うと、大石も照れくさそうに写真立てに収めて、サイドテーブルの引き出しに入れていると告白した。飾ればいいのにと言えば、恥ずかしいだろと返して。じゃあ手塚はどうなるんだと、笑い合った。
 一年とちょっと。
 時間にしてみれば、なんて短い恋だったのだろう。
 恋は、恋した相手がいなくなれば終わりなのだろうか。それとも、この恋する気持ちが続く限り、恋は永遠なのだろうか。
 ねえ、追いかけたいなんて、君は怒る?
「菊丸君」
 部屋の入り口に立っている大石の母親に呼ばれ、菊丸は心持姿勢を正した。
「手塚君や不二君も、今日は秀一郎のためにありがとう。あの子、喜んでいると思うわ」
 息子の闘病生活に最期まで付き合った彼女は、若干疲れ気味でどこかほっとしている印象を受けた。それは決して看病から解放されたからくる安堵ではなく、苦しみから解放された息子に対する安堵。
 そして、最後まで戦い続けた息子への誇り。
「あの子がこれまで頑張ってこれたのは、貴方達のおかげよ。幸せな子だったわ」
「…大石、一人じゃ天国に行けないよね…車椅子押してくれる人、いないもん」
「菊丸君…」
「約束したんだ。また来年、車椅子押してねって……」
 行くのは天国ではなく、海だったけれども。
 腕時計を外した手首に目を落とす。一本の細い線。こんなところを切ったって、君に近づくことはできないんだ。
「皆にね、聞いて欲しいものがあるの」
 大石の母親は菊丸の前にテープレコーダーを置いた。三人の目が、その無機物に向けられる。
「最期にあの子が残したものよ」





 シルバーのリングを買った。
 雑貨店で売っている、同じデザインが沢山ある、千円程度のリングを二つ。サイズは両方同じもの。プレゼント用だと言って包装してもらうと、それは結構立派に見えた。
 坂を登って、病院へ向かう。ふと顔を上げると、桜の花がひらひらと足元へ舞い落ちており、青々とした葉桜に変わろうとしている。
 季節の移り変わり。
 お花見は病室からになったけれども、こうやって同じ時の流れを感じるだけで嬉しかった。
 二回のノック。
 病室に入ると、大石はベッドに横になっていた。最近ではもう、体を起こしているだけで辛いらしい。
 食事も離乳食のように噛む必要がないものに、後は点滴。呼吸を助けるための機械が取り付けられ、心電図が延々と動く。
 病室も変わって、無菌室へと動かされていた。
 指定された服に着替え、殺菌する。ビニールの扉を潜り抜けると、大石が微かに目を開けた。
 口元には柔らかな微笑み。
「誕生日おめでとう、大石」
「…あれ?今日…四月三十日なんだ」
 小さく掠れた声が彼の衰弱ぶりを教えてくれる。それでいい。もう、何も隠さないと決めたから。
 あの冬の日からずっと、菊丸は大石の見舞いを欠かすことはなかった。ガンの痛みで苦しんで、普段からは考えられないような酷い八つ当たりを言われても傍にいた。死への恐怖は人を変える。
 けれど、それでも大石は大石で、自分が愛した人に変わりはない。
「これ、プレゼント。お揃いだぞー」
 綺麗に包まれた箱を開けてやり、中のリングを見せてやる。大石は嬉しそうに微笑んで、右手を伸ばした。
「違う違う、左手だよ」
 布団の上に置かれたままの左手を取り、その薬指にそっとリングを嵌めてやる。すっかり痩せてしまった指に、自分の指に合わせたリングでは大きかった。
「あちゃー…サイズ間違ったかな。ごめん」
「…嬉しいよ……ありがとう。エンゲージリングみたいだ……」
 右手で左の薬指を撫でる。ゆったりとしたその動作を見守って、菊丸は甘えるように大石の胸に頭を乗せた。苦しくないように、体重は全てかけずに。
 大石はその左手を菊丸の頭に乗せ、三度ほど撫でた。後は動かさずに、ただ腕を乗せただけにする。
 そうやって何も言わずに、同じ時を過ごす。
 言葉はもう、何の意味ももたないとわかっているから。
 結局、彼は好きだという一言を言ってはくれないけれど。
 菊丸は自分の頭にある左手に、自分の左手を重ねた。薬指には、彼の薬指にあるリングと同じリング。
「英二…」
「ん?」
「夢を見たんだ……」
 手を重ねたまま、菊丸は体を起こした。大石から話しをすることは珍しい。たどたどしい言葉使いを、優しく拾う。
「どんな夢?」
「テニスしてるんだ…二人で」
「マジ?大石強いんだっけ?俺負けないぞ」
「……違うよ」
 楽しそうに大石は笑う。
「ダブルスのパートナー同士なの」
「へ?」
 重ねただけの大石の手に、微かに力がこもる。
「英二が前衛…俺が後衛。黄金ペアって呼ばれて……全国の強豪と戦うんだ」
「…俺、ダブルスやったことないけど」
「英二とだったら、いいダブルスペアになれただろうなぁ」
「そうだね」
「テニスが…したいなぁ」
 微笑んだまま閉じられた瞳から、一筋の涙が零れ落ちる。空いている右手で拭ってやると、再びその瞳が菊丸を見つめた。
 少し、いたずらっぽい笑みが、愛しかった。
「こんな時までテニスなんて……テニス馬鹿?」
「上等じゃん」
 二人でくすくすと笑い、そして口付けた。いつからか儀式のように恒例になった、別れを告げる口付け。
 触れるだけのキスをして、また明日と菊丸は帰るのだ。
 そんな日々が一日も長く続けばいいのに。




 風が吹く日。いつもより遅れて病室へ向かった。
 台風も、嫌な時に来る。
 ハンカチで濡れた服を拭き、いつも通り無菌室へ入る。目を閉じた大石に近づいて、静かにイスに座った。
 眠っているのか、疲れて目を閉じているかわからない。布団から出た手には、ぶかぶかのリングが嵌めてあって、少し嬉しかった。
「……えい…じ」
「あれ?起こした?ごめんね」
 大石は唇を少し動かした。それが今できる、彼の精一杯の笑顔なのだ。
 無菌室の壁を風が叩く。
「……ウォンバイ………おおいし…きくまる……ペア…」
「また、テニスの夢?」
 頭元には大石が使っていたラケットと、大石が通っていた高校のレギュラージャージが置かれていた。以前、テニスの夢を見たと大石が言った次の日に、菊丸が大石の家族に頼みこんで持ってきてもらったものだ。
「さいごまで……あきらめちゃ………だめだ………じぶんたちの……力を……しんじよう」
「うん。そうだね」
 かさかさの、老人のようになった手を握り締める。冷たいその手に、少しでも自分の体温を移すように。
 このまま、一つになれればいいのに。
「………えー、じ」
「ん?」
「…アリガト」
 頷くと、嬉しそうに目を細める。そうしてそのまま目を閉じて、眠りについた。
 それが、最期の会話になった。
 次の日。
 台風が過ぎ去り、青く澄み切った青い空の下で。
 最期までそう決めたように、菊丸は大石の傍にいた。大石の家族も、それを望んでいた。
 まだ温もりを残した左手に、左手を重ねる。
 規則正しく心音を告げていた心電図が止まり、医師が大石の口に被さった人工呼吸器を外した。
 まるで、眠ってるだけのようだった。
 蝉の鳴き声が夏を告げる。
 街はいつも通りに動いている。
 時は相変わらず流れていく。
 彼は静かに。
 本当に静かに、永遠の眠りについたのだった。





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