Summer Blue  1

限りある時の中で


 ぽたぽたと涙が零れ落ちる。
 あまりの衝撃に、どうして泣いているのかも分からない。
 悔しい?
 悲しい?
 そんな言葉じゃ言い表せない。
 ああ、こんな身体などいらないと思わせるほどに。
 手を強く握り締めて。
 ようやく出た声は、ただの嗚咽。
 それですら、何の解決もならないと、冷めた頭で考える。
 どうにもならないと分かっていて、それでもどうしようと慌てる自分もいて。
 結局はただ、願うだけしか出来ない。





 神様、お願いです。
 俺の脚を返してください。





 別に、世界がどうなろうと関係ない。
 街頭で戦争反対を叫ぶ人々や、今度の選挙のための演説をしている政治家たちを横目に、菊丸英二は携帯電話を開いた。リダイヤルボタンを押して、待ち人の電話番号を画面に出す。けれど、通話ボタンを押すことはなかった。待ち人は、多分もう来ることはないだろう。
 一度待ち受け画面に戻し、今度はアドレス帳のボタンを押す。今度も待ち人の電話番号や、アドレスの情報を出し、菊丸はしばらくその番号を眺めた。
 そして、意を決したように消去メニューを選ぶ。
 本当に消しますか?
 無機質な文字の問いかけに、菊丸はイエスを選んだ。
 パチン。
 折りたたんで、ポケットに入れる。胸の痛みが取れたわけではないけれど、今までのあやふやな関係がようやく終わったと思えば、少しだけ楽になった。
 元々、こんな状態になってしまったのも、いつまでも怪我のことから立ち直れない自分のせいで。やっと立ち直ったと思った時は、すでに彼女の心はずっと遠い所に行ってしまっていた。
 涙は出ない。うん、結構大丈夫だ。
 これから誰かの家に押しかけてやろうか。ああ、でもこんな日に限ってみんな彼女とかと出かけてたりするものだ。
 いさぎよく家に帰って、ゲームでもしよう。そういえば借りっぱなしだったソフトがあったっけ。
 撥ねた髪の毛を指でくるりと弄んで、家の方へ歩く。賑わう街を少し離れると、静かな住宅街になった。
 最近の子供は外で遊ぶことはしないから、申し訳ない程度に在る公園に、やはり子供たちの姿はない。代わりに、車椅子に乗った青年が木陰の下にいるのが見えた。
 別に、気にするほどのことでもないのに、何故か目が止まり、そのまま足も止める。菊丸がいる場所からでは、青年の横顔しか見えなかったが、それでもその横顔がとても悲しいもので。深く胸がえぐられるような痛みを感じた。
 ふと、青年が動く。半そでから覗く左腕を自分の視線まで上げ、手首をじいっと見ていた。
 右手が動く。その右手には、遠目で見ても分かる、カッターナイフ。
 次の瞬間には、体が動いていた。
「待った!!たんま!!落ち着け!!」
 駆け寄って、彼の右手を制する。そのときに見えた、左手首。ためらい傷など一つもない、真っ直ぐな痕が何本も残っていた。
「…お前」
「離してくれないかな……」
 海の底のように、静かで冷たい声。手首から顔に視線を上げると、悲しくなるくらい無表情な瞳にぶつかった。
 手首を掴んでいた力が抜ける。
 黒い瞳は、濁っていて力がない。顔色も悪ければ、きっとあまり食事も取っていないのだろう。頬がこけている。
「これ…自分で…」
「君には関係ない」
 まるで世界の全てを拒絶するような、感情のこもっていない声。
 聞いているこっちが痛い。悲しい。そして、腹立たしい。
「…だめ、だよ。傷つけじゃ駄目だ!!」
 いつの間にか怒鳴りつけた自分と、泣いている自分に気づいて、顔が赤くなる。いきなりのことだったから、言われたほうも驚いたらしく、初めて表情らしい表情を見せた。
「く、苦しいことがあるのかもしれないけど…今……お前が…お前を傷つけたら……苦しいことを耐えようとした、今まで頑張ってきたお前自身に失礼じゃん……」
 涙を袖で拭きながら、そう言う。青年はしばらく菊丸を見上げていたが、不意に自嘲気味に笑い、俯いた。
「頑張ってきたなんて…」
「頑張ってんだろ?じゃねえと、こんなことしないんだぜ」
 カッターナイフを受け取って、自分のポケットに入れる。青年の足の上に置かれた足掛けを整えて、菊丸は隣のベンチに座った。そうすると、ようやく青年と視線が同じ高さになる。
「俺、菊丸英二っていうんだ。英二でいいから。T高校の二年だにゃ。お前は?」
「…大石秀一郎…学校、行っていれば高二だよ」
「そっか」
 大石と名乗った青年は、僅かに警戒を解いたのか、車椅子の背にもたれた。顔もそうだけれど、体の方も大分細い。
「…俺ねー、彼女と別れたばっかりなんだ」
「そう…」
「でも、あんまり悲しくないのね。結構、大丈夫。色々自分の中で納得してるからだと思うけど」
「そう……」
「でもさー、やっぱりこー、一人になると痛いのね」
「そう…」
「だから、大石が俺につきあってぱーっと遊んでくれると嬉しいんだけど」
「冗談を…この足でどこに行けっていうんだ?」
「車椅子あるじゃん。あ!もしかして、結構気にしてるの?」
 不機嫌そうに大石が睨んでくる。しかし菊丸は、臆することなく微笑んだ。
「ばっかだな。俺の友達に乾ってすっげー厚い眼鏡かけてる奴がいるの。あいつは、目が悪いから眼鏡かけてるのな、当たり前だけど。大石は、足が悪いんだから車椅子使ってんだろ?乾と大石はどこか違う?」
 ベンチから立ち上がり、慣れた手つきで車椅子のブレーキを外した。慌てる大石をよそに、菊丸は車椅子を押し始める。
「ゲーセン行く?人多いところ嫌?」
「俺は行くなんて一言も言ってないぞ!」
「あ!腹へってない?マック行こうか?奢るよ?」
 言いながら、すでに二人は大通りの方に出ていて。言い合うところを通行人に見られるのが恥ずかしいのか、大石は何も言わなくなった。人が多いため、すれ違う度に足を止めたり、他の人より低い位置にある大石の顔に、ハンドバックが当たらないように気遣う。
 そうやってやっと辿り着いた行きつけのマクドナルドは、ピーク時を過ぎていたため、気持ちほど空いていた。
「いらっしゃいませ。本日は店内でお召し上がりですか?」
「はい。えーっと俺はチーズバーガーセットで、ドリンクはコーラね。大石は?」
 尋ねてみても、大石は俯いているままで答えはしない。それでも菊丸は機嫌を損ねることはしなかった。
「じゃあ同じのもう一個。あー、ドリンクはオレンジジュースにして」
 注文と会計を済まし、番号札を持ってテーブルに着く。車椅子の大石には普通のイスはいらないからと、隣のテーブルにイスを一つ移し、空いたスペースに車椅子を止めた。これで普通に食事が出来るはずだ。
「暑いな〜。まだ五月の半ばだっつーの」
「…」
「なあ、そんなに怒るなよ」
 店員がトレーを二つテーブルに置いて行く。軽く礼を言って、菊丸はコーラを手に取った。
「食えよ。奢りだし。ドリンク、炭酸駄目な人がいるからオレンジにしたけど、コーラの方が良かったら代えるよ?」
「…どうして?」
「?」
「どうしてこんなことをするんだ?」
 半ば睨みつけるように菊丸を見ているが、その瞳にはどことなく悲しみが見えて、菊丸はドリンクをトレーの上に置いた。
 どうしてなんて聞かれたって、そんなの自分にも分からない。正直、初対面の人間にこんなことをする必要は、ないのかもしれない。だが、あのままあそこで方っておいたら、彼はまた手首を切るだろう。
 菊丸は左手にしたGショックの時計を外した。太いベルトのその下には、だいぶ薄くはなったけれど、相変わらず存在する一本の細い線。
「俺さ、テニスやってたんだ。これでもそこそこ上手かったんだぜ。高校だって、特待で入ったし。でも…怪我しちゃってさ。選手生命終わったのな。あ、別に普通に歩いたり、少しなら走れるけど、運動なんかはできないわけ。俺はテニスしかなかったから、もう何も考えられなくて…やっちゃたんだ」
 今なら思える。死のうとしたわけではない。自分がこれからどうすればいいのか分からずに、何か突破口を見つけたくて切りつけた。この突破口が正しかったとは思わなかったが、動き出すきっかけにはなったのだと思う。
 テニスが出来なくなっても、自分は自分だと思えるようになった。テニスほどに情熱を傾けられるものは見つかってはいないが、もう焦ってはいない。
「……テニス、やってたんだ…俺も」
 左手をテーブルの上に置いて、大石は初めて自分から口を開いた。手の甲を上にしているから、今は彼の傷は見えない。
「友達とな、テニス部をインハイに導こうって…。でも、こんな体になって、それが果たせなくなって…。学校も…辞めたんだ。この体と向き会わないとならないし、勉強はそれからでもできると思ったから」
「うん…凄いね。そこまで考えられたんだ」
「会う人、会う人頑張れって言うんだ。大変かもしれないけど、頑張れ、って。俺はこれでも治療、頑張ってたんだ。これ以上、どう頑張ればいいのかわからなくて…」
 手のひらを裏返し、右手で手首の傷をなぞる。
「家族に迷惑かける。外に出たら近所の人は気の毒そうな目で俺を見て、少し遠出をすれば迷惑そうに車椅子を見る。時には笑われる。もう…疲れたんだ」
 そう思った瞬間が、左手首の一本の線なのだろう。
 外していた腕時計をする。傷跡を隠したって、消えるわけではない。そのくらいわかってはいるけれど。
「頑張るなよ」
 頑張っている奴に頑張れなんて言葉、失礼なんだ。
 ストローに口をつけて、コーラを飲んだ。氷が溶けて、少し水っぽい。
「ゆっくりやってけばいいじゃん。泣き言言ってもいいしさ。でも、頼むから自分を傷つけるのはやめてね。あ!もし切りたくなったらさ、俺の腕を貸してあげっからさ」
 約束、と小指を差し出す。
 じっとその小指を見つめる大石の瞳が、ようやく柔らかく微笑んだ。
 なんて綺麗に笑うんだろうと、そう思った。





 焼香をあげるために並んだ人の列から離れ、菊丸はカッターのボタンを外した。空は嫌になるほど青く、高い。煩いくらい鳴く蝉の声が、余計夏を感じさせて暑くなる。
「菊丸」
 声をかけられて、そちらを向く。形の良い細いフレームの眼鏡と、その奥の厳しい瞳。お世辞にも愛想の良くない顔つきの彼を笑顔で紹介してきた大石に、ちょっと笑ってしまったのを覚えている。
 こんな奴と親友だなんてなれるの、お前しかいないよ。
「大丈夫か?」
「俺?うん。平気かな。十分泣いたし。手塚は?」
「……下手すればまだ泣きそうだ」
 思ってもみなかった答えに苦笑する。去年までクラスメートだった生徒達は、それでも悲しそうな顔をしているし、女生徒の中には泣いている子もいた。
 大石の人望を表しているようで、誇らしく、嬉しかった。
「葬式が終わるまでは泣かずにいような」
 葬列を見つめたまま手塚に言う。
「大石のために、笑って送り出してやろうな」
 鼻の奥がツンとなる。口内を噛んで、必死に涙を堪えた。
 空を見上げる。
 どこまでも続いていると錯覚するほどの青い空。この先に君がいると、信じて疑わない。
 このままずっと傍にいると誓った、あの夏の日。





 車椅子を電車から降ろすこと以外、困ることはなかった。
 大石が連れてきた親友という手塚国光は、テニスをやっている者なら知らない人はいないという程のプレイヤーである。もちろん菊丸も彼のことを知っていた。知っていたからこそ、余計に驚いたのだ。正直、大石がテニスをやっていたと聞いてはいたものの、そんな天才プレイヤーとインターハイ出場の夢を果たそうとするほどとは思っていなかったから。
 一方で、菊丸が連れてきた親友不二周助もまた、テニス界では有名だった。小柄な体格でありながら、数々の強豪を華麗なカウンターで破り、天才の名を欲しいままにしている。
 有名人は有名人同士、お互いを知ってはいるようで、出会ってすぐにぎくしゃくとした雰囲気はなかった。
 手塚も不二も、車椅子ごと大石を運ぶのを手伝うし、嫌がることなどもちろんない。恐縮する大石に気にするなと言い、道で車椅子を押すのは菊丸の仕事。
「とりあえず海に行く前にチェックインしないとね」
「ああ…部屋は二つとってあるのか?」
「そだよ♪二人部屋二つ。部屋割りはどうしようか?」
「くじでいいんじゃないかな?」
 大石の案に反対するものはおらず、ホテルのロビーでトランプのキングとクイーンを二枚ずつ取り出した。
 よく切って、ガラスのテーブルに並べる。
 結果、手塚と不二。大石と菊丸が同室になった。
 部屋は四階の隣同士。荷物を置いて、海へ行く準備をしようと、三十分後に会う約束をして、おのおのの部屋へと入った。
 部屋自体はさほど広くはなく、ベッドが二台とテレビとテーブルといったものがあるだけだ。しかし、そこから見える景色は絶景だった。
「うわぁ…」
 大きな窓から見える、青い海と蒼い空。
 それまで車椅子に座り、菊丸に押されるままになっていた大石が、この日初めて自分から車椅子を動かした。ゆっくりと窓に近づき、安全面から開くことのない窓ガラスに触れる。海を見つめる瞳だけが、酷く魅力的に見えた。
 公園で出会ってから数ヶ月。菊丸は時間があれば大石と出会っていた。最初は手首を切らないか見張るのが目的だったのだが、そんなのは最初だけで、今ではすっかりただの親友だ。
「それにしてもさー、まさかお前の友達が手塚とは思わなかったにゃ」
「ん?ああ。そんなに変か?」
「いや、ある意味納得」
「あいつさ、ああ見えて結構熱い奴なんだ。とっつきにくい感じではあるけど、いい奴だから。なにより、テニスに対する情熱は人一倍強いよ」
「…あ、そう」
 何故だろう。
 嬉しそうに手塚のことを話す大石を見ていて、少しだけ胸が痛んだ。嬉しそうに微笑む大石に、以前までの寂しげな面影はないし、彼の笑顔はとても素敵だ。華やかではないけれど、とても柔らかく優しい。見ていてほっとするその笑顔が、とても好きだ。
「え」
 ちょっと待て。
 今、自分はとんでもないことを思わなかっただろうか。
「英二?どうしたの?」
「…な、なんでもない!それより、早く準備しなくちゃな!」
 下から見上げてくる大石の視線から逃げるように、菊丸は窓辺から離れた。鼓動が耳のすぐ傍で聞こえる。赤くなる顔を悟られたくなくて、ずっと下を向いたままで準備を始めた。
 ほんの少しだけ浮かんだ自分の気持ちから目をそらす。
 そんなことがあってはならない。
 彼は、大石は男なのだから。
 彼の笑顔が好きなのは、そう。以前の彼からずいぶんと立ち直って、それが嬉しいからそう思うだけなんだ。
 きっと、そうだ。
「水着、もう着ていこっかにゃ〜」
「え?ここ、一階に更衣室あるんだろ?すごいよな、プライベートビーチみたいで」
「実際はプライベートじゃないけどね。大石も泳ぐんだろ?更衣室で着替えるの、狭くない?」
「そうか…そうだな。じゃあ俺も着ていこうかな」
「手伝ったほうがいい?それとも出て行ったほうがいい?」
「あはは、一人で出来るよ。出て行かなくてもいいから、見るな」
「ほーい」
 笑いながら返事をして、大石に背を向ける。大石もだいぶ車椅子での生活に慣れたのか、てきぱきと着替えていくのが気配でわかった。
 背を向けたまま、菊丸はベッドに寝転がった。家のものとは違う、ふわふわと柔らかい感触と、ぱりっと糊の効いたシーツが心地よい。
 目を閉じると、思わず眠気に襲われる。
「英二?」
「んー」
「俺は着替えたけど?」
「うぃー」
 返事をして振り返ると、パーカーと短パンに着替えた大石が車椅子に座っていた。ちゃんとビニール製の袋にタオルや財布を入れているあたり、彼の几帳面さがよく出ている。
「俺も着替えるー」
「ってか、風呂場で着替えてきてもよかったんだよな、今の間に」
「うぉ!今更言うなよ〜」
 けらけらと笑い合って、菊丸は水着を持ってバスルームに向かった。車椅子の大石に、背を向かせるよりも、自分が風呂場に行って着替えたほうが早いのだ。
 水着に着替え、Tシャツと短パンを着る。あんまり履くことはないからと、サンダルは百均で買った。
 鏡に映る自分と目があう。はねた髪を手で撫でて、先をくしゃりと握った。去年の夏は、海に行こうと思っても、行く時間がなかった。馬鹿みたいにテニスのことしか考えてなくて。不二ほどのプレイヤーではなかったけれど、一年ではレギュラーになれなかったけれど。それでもがむしゃらに練習をしていた。
 それがずっと続くと思っていた。
 コンコン。
 ドアをノックする音。多分、手塚と不二が来たのだ。
 菊丸は髪を整えて、慌ててバスルームを出る。車椅子を自分で動かして応じようとした大石を制し、オートロックのドアを開ける。自分たちと同じように軽装に着替えた二人が立っていた。
「ほらね、手塚。やっぱり二人とも着替えてるでしょ」
「そういうものなんだな」
「何わけのわかんないこと言ってんの?」
「んー?きっと英二たちが着替えてるから、僕らも着替えて行こうって言うのに、手塚が更衣室があるのになんで着替えていくんだって」
 不二は苦笑しながら、未だに納得のいっていない表情の手塚を見上げた。納得いっていないにも関わらず、自分に合わせてくれたのだから、結構いい奴なのかもしれない。
「行かないのか?」
 そして今までの会話とは全然繋がらない台詞。思わず菊丸と不二は顔を見合わせて噴出してしまった。
 決定。
 この男は天然だ。
「何を笑っているんだ?」
「いやー、なんでもないっ!!行こう行こう!!」
「大石、君、凄い人連れてきたね!!」
 しばらく二人で笑いながら部屋を出た。それなりにバリアフリーが行き届いたホテルを選んだため、廊下もエレベーターも車椅子が通っても狭くならない程度に広い。それが普通であるかのように、菊丸は車椅子を押した。
 大石はいつも思うことなのだが、彼は今までにも他の誰かの車椅子を押したことがあるのではないかと。以前、手塚も同じように車椅子を押してくれたことがあるのだが、狭い廊下では壁にぶつかったり、人とすれ違うときは相手のカバンが顔に当たったりしたことがあった。別に手塚を責めるつもりはない。最初は誰でもそうなのだ。けれど、菊丸は初めてあの公園で出会ったときから、本当にごく普通に車椅子を扱う。そう、眼鏡をかけるのと同じだといっていたように。
 怪我をした時に車椅子を使っていたのだろうか。けれど、もし今の自分が押す側になったとして、菊丸ほど上手に扱えるかはわからない。自分で動かすのと、他人が乗っているのを動かすのでは、だいぶ違うと思うのだが。
「大石、手塚が荷物をまとめてロッカーに入れとくって。それ、貸して」
 言うが早いか菊丸は大石の手の中の袋を取り、手塚に渡す。財布や貴重品は不二が持っていた袋にまとめて入れた。
 ロビーとは反対側になる自動ドアを出ると、波の音と子供たちがはしゃぐ声が聞こえてくる。風に運ばれた潮の香りが、肌を撫でた。
「うっほ〜い♪海だ〜♪」
 緩やかなスロープを下ると見えてくる、真っ青な世界。白い砂浜を最後に、後は全てが青になる。空の青と海の蒼が地平線で溶け合っていた。
「綺麗だな…」
 やけに感慨深そうに大石が呟いた。
 浜辺では車椅子を押すことは出来ない。大石が持ってきたシートを、できるだけ道路に近い所に敷き、そこまでは手塚が大石を背負った。流石にこれは恥ずかしかったのか、大石はしきりに手塚に謝っていた。
「じゃあ手塚、頑張りついでにこれ膨らましてよ」
 パーカーを脱いで準備体操を始めている手塚に、不二がしぼんだままの浮き袋を渡す。手塚は一瞬怪訝そうな顔をしたが、すぐにその浮き袋を膨らまし始めた。
「不二は泳げないのか?」
 大石が尋ねると、不二は笑いながら首を横に振る。
「あれは大石の。英二から泳げるって聞いてるけど、一応ね」
「え。気を使わせてしまったみたいだな。すまない」
「大石、違う違う。こういうときは謝るんじゃないよ」
「……あ!ありがとう」
 少し照れくさそうに微笑む大石を見て、菊丸はチクリと胸の痛みを感じた。大石より体が小さい自分は車椅子は押せても、手塚のように大石を背負うことは出来ない。いや、できないこともないだろうが、手塚が運んだほうがはるかに安全だ。海に行くことを計画したのは自分だけれども、不二ほどに気が利く性格ではない。
「…」
 別にたいしたことではないのだろう。二人とは違う人間だし、自分が出来ることをすればいいとわかっている。
 わかっているけれど。
「英二?」
 不意に呼ばれて、内心焦りながら大石の方を見た。まずい、今の自分は上手く笑えているだろうか。
「ん?何?」
「いや、何か考えてるふうだったから」
「残念、大石。英二は何か考えるほど複雑な奴じゃないんだよ。悲しいことにね」
「不二!!それちょっと酷すぎー!!」
「浮き輪、膨らんだぞ」
 文句を言いながらも、不二と手塚に感謝する。手塚のタイミングは偶然だろうが、不二が自分をからかったのは、今の自分の気持ちを察したから。ひょうひょうとしているようで、その辺はやけに聡い。
 その聡さが、嫌になる時もあるのだけど。
「よっし!じゃあ入ろうぜ〜♪」
 手塚から浮き輪を奪い取る。どうせ海までの距離は手塚が大石を運ぶのだ。荷物持ちくらいしなくては。
 サンダルを脱いで、熱された砂を踏む。ちりちりとした痛みが走ったが、慣れてしまえばそれほどではない。手塚が大石を背負ったのを確認すると、海へと挑む。水は、冷たくはない。寄せて返す波と、急に柔らかくなる砂に足をとられながら、胸のあたりまで浸かる。
「手塚、そろそろ降ろしていいよ。浮けると思うから」
「そうか」
 手塚がゆっくりと手を離すと、大石は手で水を掻きながら浮いた。その様子が少し危なっかしくて、菊丸はすぐさま浮き輪を持たせる。大石はそれを掴むと、少し残念そうな顔をした。
「水の中なら、もう少し自由が利くと思ったんだけどなぁ」
 浮き輪を持つと、手は使えなくなる。足の方は全く動かないから、ただ、浮いているだけの状態。
「ま、仕方ないか」
「大丈夫だよ、大石。どこか行きたくなったら、ちゃんと引っ張ってあげるから、英二が」
「お前じゃないのか」
「もちろん」
 なんだか漫才をしているような手塚と不二に思わず笑ってしまう。
 菊丸は、大石が掴んだほうとは逆の方の浮き輪を持った。そのまま四人で沖の方を目指す。別に沖へ行ったからといって、何があると言うわけではないが。
 子供たちが多い浅瀬とは違い、足も着かない沖は人が少ない。ゆれる深い蒼に、続く澄み切った青。誰ともなく言葉がなくなる。
「…不二はインハイ行くのかい?」
 浮き輪に顎を乗せて、大石が尋ねる。
「行くよ。個人戦だから手塚とは当たらないけどね。手塚は団体戦メンバーなんでしょ?」
「ああ。お前の分も、頑張ってくるさ」
 まじめな顔で言われ、大石は照れくさそうに笑う。寡黙で言葉少なな彼だけれど、本当は誰よりも熱い奴だと知っていた。インターハイを目指すと言われたときは驚いたが、それを実現するだけの実力を持っていると知り、実力を維持知るための努力を知り、だから彼について行こうと思った。
「じゃあ不二は俺の分も頑張ってねーん」
「嫌」
「ひでっ!!」
 ぱしゃっと菊丸が水をかける。不二は笑顔でその倍の水を返した。そのまま互いに水かけ合戦になりそうで、手塚はすばやく大石を連れて距離をとる。
 ばしゃばしゃと水をかける菊丸に対し、不二は器用によけてカウンターを狙う。ああきっと、テニスのプレーも今と変わらないのだろう。
 できれば一度くらい、彼等とコートで戦いたかった。
「あ…」
 手塚の呟きに顔をあげる。
「あ」
 頭上高くまで上がった波。叫ぶこともできず、零れたのは本当に間抜けな声だけで。
「うわぁぁ!!」
 ザバーン。
 とりあえず浅瀬の方まで流された。





 ねえ、好きだよ。
 たとえ君が傍にいなくても、君の形が変わってしまっても。
 君の形がなくなって、白くてもろい骨になって、小さな小さな壺に納まっても、この気持ちは変わることはないんだ。
 火葬場から遺骨と一緒に家に戻ると、もう学校の生徒も親戚も帰っており、家族の他にいるのは菊丸と手塚、そして不二の三人だった。
 もうそろそろ帰らなければならないとわかっているのに、三人は形を変えてしまった大石の傍から離れることができなかった。
 仏壇の前に、そっと桐の箱と布に包まれた骨壷が置かれる。菊丸は手を伸ばして、布に触れた。何の温度もないそれが、悲しかった。
 大石の母親が冷えたお茶を出してくれた。手塚と不二は礼を言って受け取ったが、菊丸は布に触れたまま何も言わない。
 葬儀が、終わった。
 お経も耳に入らなくて、友人代表なんてできるわけなくて、火葬場で最後のお別れをする時は、この暑いのに、わざわざ熱いところに行かなくても、なんて思った。
「へへ…」
 立派だろう?
 こんなにこんなに悲しいのに、泣かなかった。
 もういいよね。
「お…いしっ」
 我慢しなくても、いいよね。
「英二…」
 不二がそっと肩を抱く。それをきっかけに、せきを切ったように嗚咽が零れた。もう散々泣いて、枯れてしまったと思ったのに、亡き人を想う涙は溢れて止まらない。
 ねえ、君が好きだよ。





 ホテルのレストランで食事を済ませ、四人は菊丸と大石の部屋にいた。せっかく旅行に来たのだから、ゲームでもして遊ぼうという菊丸の案に乗ったのだ。
 小さなテーブルを四人で囲んで、持ってきたトランプでゲームをする。そんな修学旅行みたいだね、と笑い合う時間。
「くっそー、また負けたぁ!!」
「英二は弱いよね」
「不二が強すぎなの!!」
「菊丸は顔に出しすぎだ」
 パサリとトランプを投げ出し、不貞腐れた風にイスにもたれる。そんな菊丸を見て、大石は静かに笑っていた。
 ふと、その優しい瞳とぶつかり、菊丸は慌てて目をそらす。
 自分でも驚くぐらい、ドキドキしていることに気付き、そのことに対して動揺する。
 なんでこんなに気になるんだろう。
 好きだなんて、そんなこと。
 男同士なのに。
「さて、そろそろ寝るとするか」
「え?うわ、もう二時なんだ!!」
 立ち上がった手塚につられ、腕時計を見た不二が驚きの声を上げる。菊丸は無理やり思考を中断させて、同じように立ち上がった。
「朝は八時にレストランだから…まあ、八時に迎えに来るよ。英二、起きててね」
「あはは、大石、頼んだ!」
「……え?うん、早起きは得意だから」
 イスに座ったまま体を向けて応える大石に、二人は微笑んで手を振り部屋を後にする。
 二人きりになり、先ほどまで止めていたはずの思考が再び動き始める。そっと大石の方を見てみれば、疲れたのか顔を伏せていた。
 その頬に触れたい、だなんて。
 思ってはいけない。
「寝ようか。ほら」
 捕まってと手を差し出すと、いつもみたいにすまなそうな顔をして手をとる。そんな何気ないことが、嬉しい。
 抱き上げて、ベッドへと降ろす。顔が赤いのは、気のせいだろうか。
 きちんと布団までかけてやり、自分も早々に布団に入る。頭元のスイッチを切ると、部屋がとたんに真っ暗になった。
「…英二」
 暗闇の中、大石に呼ばれる。
「凄い、楽しかった。ありがとう」
「礼なんていいって。俺も楽しかったしさ」
「…英二は俺に沢山のものをくれるね。初めて会った時から、ずっと」
「そんなことないって。友達なんだし」
 自分で言って、少し悲しくなる。
 友達。
 そう、それでいいんだと思うのに。胸が痛い。
「…ふぅ」
 少し熱っぽい大石の溜息。
「大石?」
「ん…」
 疲れているからだと思ったが、返ってくる返事が心もとない。電気を点けて、大石に駆け寄る。
「どうしたの?大丈夫?」
「へ…き」
「平気じゃないじゃん!!えっと、えっと…」
 額に手を当てると、明らかに普段より熱を持っていることがわかる。突然のことにどうすればいいのかわからず、菊丸は携帯を手に取った。
 かけるのは、不二。すぐ隣の部屋なのだから、行けばいいのだろうけれど、今は大石の傍からひと時も離れたくない。
 数回のコール。
『もしもし…』
「不二!!どうしよう!!」
『英二?どうしたの、落ち着いて。すぐそっち行くから』
 自分の声の調子から何か察してくれたのか、何も聞かずに電話が切られ、すぐに部屋をノックする音に変わった。
 菊丸は大石を気にしながらドアに向かい、ドアを開く。心配そうな顔をした手塚と不二を見ると、言葉が急に出なくなった。
「どうしたの?」
「が…大石が」
 全てを言い終わる前に、手塚が菊丸を押しのけて部屋へと入る。
「大石!!」
 不二に支えられるようにベッドの傍まで来ると、手塚は先ほど自分がしたように大石の額に手を当てていた。
 こんな時だというのに、その手塚の行動が気に入らない自分がいた。
「不二、フロントに電話して救急車を呼ぶよう頼んでくれ。早く!!」
「え…ああ、わかった」
 内線電話を取る不二を確認し、手塚は冷えたミネラルウォーターを取り出し、タオルを濡らした。灰皿の上で水を絞ると、それを大石の額の上に乗せる。
「…大石、今救急車を呼んだからな」
「……づか」
 大石は苦しそうに首を横に振った。幼い子がいやいやをするようだ。
「大石!!」
「…なお…ったんだ……そう、だろ?」
「…大石」
「………やだよぉ」
 初めて聞く、弱々しい声。それは公園で出逢った時の小さくて無気力な声とは違って、純粋に何かに恐れ、それを拒絶しようとしている。
 手を伸ばそうとして、布団からはみ出ている手に触れようとして、できなかった。少しでも安心させてやりたいのに、大丈夫だよと言ってあげたいのに。たったそんなことすらできない。
「手塚、すぐに救急車来るって」
「ああ……」
 動いているのは二人だけで、菊丸はただ呆然とその光景を見ていることしかできなかった。





 真夜中の病院は不気味だと思った。大石は集中治療室に入ったきり、出てこない。手塚は大石の家族に連絡を取り、不二はホテルに電話をしていた。そしてやはり自分は、何も出来ないままで。
 ぱたぱた。
 二つの足音に顔を上げる。各々の連絡が終わった手塚と不二が、戻ってきたのだ。
 どうしてこんなことになったのか、きっと手塚は何か知っている。そう思うのに、言葉が出ない。何があったのか聞きたいのに。何があったか聞きたくない自分がいる。何かとても嫌な予感がする。
 口を開いたのは、意外にも手塚だった。
「お前は、大石が好きか?」
 それはあまりにも直球で。菊丸は目をこれでもかと見開く。あまりにもその台詞が手塚には似合わず、冗談を言われているのかとも思った。けれど、眼鏡の奥の手塚の目がすぐさまその考えを否定する。
 好きかと聞かれれば、すぐさま返せるさ。
「…好きだよ」
「どういう好きだ?」
「え……」
「半端な好きなら、これ以上大石に近づくな」
「なんだよ…」
「手塚」
 言い返す前に、いつもより幾分低い不二の声が静かに響く。温和な笑みを浮かべる不二はそこにはおらず、ただ鋭い目付きで手塚を、睨んでいた。
「君が大石の親友なのはわかる。でも、君にそれを言う権利はない。違うかい?」
「……」
 手塚は不二を睨み返したが、目を伏せると小さく息を吐いた。そして疲れたように菊丸の隣に座る。
「……俺は大石の親友だ。だから、こんなことを言えるのも俺だけだ」
 少しだけ悔しそうな顔をする手塚の横顔。菊丸はようやく体から力を抜き、手塚と向き合った。
「好きだよ」
 好きだ、なんて。
 思ってはいけない間柄なのだろうけれど。それでもこの気持ちは止められない。
「大石が好きだ」
 悔しそうだった手塚の顔が、今度は辛そうに歪む。その顔を見られたくないのか、彼は俯いた。
 いくつかの言葉を捜しているようにも思えた。
「俺が今から言うことを聞いても、お前は大石が好きだと言えるか?あいつのそばにいれるか?」
 その言い回しが、ざわりと不安を伝えてくる。本当なら声を出して応えたかったけれど、頷くことしかできなかった。
 手塚は菊丸のその様子を見、そして立ったままの不二を見上げた。不二も菊丸と同じように頷くのを見ると、ようやく覚悟を決めたのか、真っ直ぐと集中治療室を見る。
「…大石は、ガンだ」
「ガン?」
 手塚は静かに頷く。
「ちょっと待ってよ。ガンって…俺達まだ高校生…」
「骨肉種……これは骨のガンだが、俺達のような十代、二十代の男子に多い」
「でも…手塚。骨肉種は今は前ほど怖い病気ではないだろう?放射線治療や手術で…」
「脊髄硬膜外に転移していた。その治療で、あいつは足を失った」
 ああそう言えば、彼は言わなかっただろうか。『治療』を頑張ったと。『リハビリ』ではなく、治療。
「脊髄硬膜外に転移したガンは…回復の見込みがほとんどないと言われていた。それをあいつは…克服したと……言って」
 最後は言葉にならなかった。
「手塚、まさか…」
 不二が震える声でその先を言うのを止める。集中治療室の扉が開き、中から数人の看護婦と医師が出てきた。
 手塚は立ち上がり、頭を下げる。
「大石は?」
「急な発熱だね。解熱を打ったらだいぶ落ち着いたよ。ただ…」
 手塚の顔が曇る。手のひらを強く握り締めるのがわかった。
「再発…ですか」
 医師は辛そうに顔をしかめ、気遣うように手塚の肩を叩く。
「まだ諦めてはいけないよ」
 その医師の一言が、死刑宣告のように聞こえた。





 どこまでも続く、青い空。
 世界はいつだって変わることなく時を紡ぎ、朝が来て一日が始まる。人の悲しみも苦しみも関係ない。
 大石の荷物を手に取る。几帳面な奴だから、こっちが気を使ってまとめる必要なんてなかった。主のいない車椅子に荷物を乗せて部屋を出ると、すでに手塚と不二が待っていた。遅れたことに頭を下げて、無言なままエレベーターに向かう。
 フロントでチェックアウトと昨夜の礼を済ませると、そのままタクシーに乗った。車椅子は荷物と共に荷台に乗せる。
「お兄さんたち、高校生?」
 初老のタクシードライバーが人の良い笑顔を浮かべて話しかけてくる。
「はい」
 助手席に座った手塚が応える。
「夏休みだからこっちに遊びに来たんだねぇ。楽しかったかい?」
「…楽しかったよ」
 窓の外を向いたまま、今度は菊丸が応えた。あの夜、大石は確かに楽しかったと言った。だからこの旅行は、楽しいものだったんだ。
「それはよかったねぇ。また来年もおいで」
「はい」
 そう、来年もこの四人で。
 病院に着き、タクシーから降りる。最後まで笑顔だったタクシードライバーに礼を言い、大石の待つ病院に向かった。
 大石の部屋は二階で、車椅子があるからどうしてもエレベーターを使うことになる。病院の広いエレベーターに乗り、菊丸はこっそりと溜息をついた。一度俯き、顔を上げた次の瞬間には、いつものように笑顔を浮かべていた。
「俺、諦めないから」
 宣言するように、手塚と不二に言う。答えが返ってくる前にエレベーターを降り、真っ直ぐに大石の部屋へ向かった。
 早く、早く、彼に会いたい。
 病室の前に立つ。二回ほどノックして、部屋に入る。その瞬間、息を呑んだ。
「何やってんだよ!!」
 ベッドに座った大石の、その手の中にあるものを叩き落とす。ぴりっとした痛みの後に、菊丸の手のひらから、赤い滴が零れ落ちた。
「っ!」
「……英二」
「…約束だったじゃん。切りたくなったら、俺の腕を貸してあげるってさ」
 ぽたりと、赤い転々が床にできる。その横には、大きなガラスの欠片。きっとこれで切ろうとしたのだろう。
 自分ではなく、他人を傷つけてしまったことに、大石は呆然としていた。自分の手と菊丸の手を見比べて、微かに震えている。
「俺、ずっと傍にいるよ。俺は、大石が思っている以上に大石が好きだから」
「英二…」
「一緒に生きようよ。諦めないでよ」
「えい……」
 全てを受け入れるように、抱きしめる。ほっそりと頼りない体を、守りたいと思った。この温もりを、失いたくはなかった。
「ぅっ」
 大石の嗚咽を自分の胸の中に閉じ込める。力なくその腕が自分の背中に回された時、愛しさがこみ上げた。
 微かに体を離して、その頬を両手で包む。まだ止まりきっていない血が、大石の頬についた。
 そして、触れるだけのキス。
「好きだから、一緒に生きたいよ」
 頬を流れる涙を拭ってやる。その手を大石が握り締める。
「傍にいて…」




 大石を菊丸に任せ、手塚と不二は屋上にいた。夏の空は嫌になるほど青く、涙がこぼれそうになるほど綺麗だ。誰もいない屋上のベンチに座り、缶コーヒーを手の中で弄びながら時間をつぶす。
「……大変なことになっちゃったな」
 ぽつりと、不二が呟いた。手塚はちらりと不二を見たが、何も言わずに手の中の缶コーヒーへと目を戻す。
「英二、今まで女の子と付き合ってたのに。どうしてよりによって…」
「好きになる相手が同性だっただけだ。お前はそんなことを気にするのか?」
 今度は不二が黙る番だった。
 別に同性愛を否定するわけではない。誰かを愛することに性別なんて関係ないとも思う。菊丸が大石を好きになったということも、驚きはすれ反対なんてするつもりはない。ただ、毒ついたのは、これからの彼を想ったから。
「…英二は親友なんだ。彼の苦しむ姿はみたくない」
 骨肉種は自分たちのように十代の少年に多く発病する病気だ。早期に発見し、適切に取り除けばそれほど怖いものではない。骨肉種は現在ではほとんど治る病気だ。だが、再発や転移した場合が恐怖なのだ。特に臓器などに転移してしまえば、生存率は極端に低くなる。ましてや若いうちのガンは、体の成長に合わせてかなりのスピードで広がっていく。
 多分、大石はこれからどんどん弱っていくだろう。放射線治療などで髪も抜けてなくなるかもしれない。痛みに苦しむ彼を、見たくない時だってきっとある。それでも菊丸は大石の傍にいて、励まして、未来を信じるのだろう。
「もし、大石が…」
「不二」
「もし大石が死んだら、英二はどうなるんだよ!!」
 願ってはいる。菊丸と大石の幸せな未来。たった一日しか共に過ごしていないけれど、高校で大石の名前は何度も菊丸から聞いていた。本人は気付いていないかも知れないが、間違いなく大石のことを好きであることくらい、大石に恋をしていることくらい、その様子からすぐわかった。
 親友だから、幸せになって欲しいと思う。
 親友だから、冷静に大石との未来を考えることが出来る。
 長くない。
 ずっと傍になんて、いられない。
「……俺は、諦めない」
 手塚は顔を上げ、立ち上がった。空を見上げ、その眩しさに目を細める。
「あいつは死なない」
 半ば自分に言い聞かせるように告げる。
 そう、テニスをしていた彼はいつも言っていなかったか。
『最後まで、自分たちの力を信じよう』
「俺は、信じる」
 空き缶をゴミ箱に投げ捨てる。そろそろ病室に戻っても大丈夫な頃だろう。お昼過ぎには大石の両親が来るから、それと交代に自分たちは家に帰らなければならない。明日からはまた部活が始まる。
「僕らに、何が出来るかな?」
 未だに俯いたままの不二に手塚は肩を竦めた。
「インターハイで勝つしかないだろう」
「それは大変だ」
 ようやく上げた顔は、弱々しいながらも笑顔で。
「僕も、信じてみるよ」
 それでもやっと踏み出せた一歩。
 未来が、どうなるかなんてわからない。疑い出せばキリがない。だから、もう疑わない。代わりに信じることにする。
 彼等の、未来を。





 夏の風が、優しく頬をつたう。
 願わくば、来年の風もこの空の下で。





NEXT