憂鬱な月曜日 朝が来た。 カーテンを開けると、快晴の空が目に飛び込んでくる。 たしか昨日の天気予報では、今日は雨だということだったけど。実際に窓から見えるのは晴れ渡った青空だった。とんとんと階段を下りると、パンが焼ける匂いが伝わってくる。 (そういえば、今朝は姉さんいないんだっけ) たしか、昨日から出張だと言ってた。夜には出ただろうから、今朝の食卓は母さんと二人きりになる。 「おはよう」 扉を開けると、自分によく似た顔の母がにっこり微笑んでキッチンに立っていた。 「おはよう周助。もう少しかかるから、ちょっと待っててね」 「うん・・・あれ?」 そのときボクの目にとまったのは、壁にかかったカレンダー。待っている間にと思って近づくと、そのカレンダーは先月の、5月のままの日付を指していた。 おかしい、たしか、今日から6月になったはず。 「母さん、カレンダー変わってないよ?」 「あら、ほんと?周助、めくっておいてくれる?」 キッチンから聞こえてくる声に返事をして、ボクはカレンダーを一枚破った。5月分の日付のカレンダーを丸々一枚破ると、新たに6月の一ヶ月間の日付が現われる。 6月1日。 赤い文字で印刷されているその日付に、ボクは満足してそのまま背を向けようとした。 (・・・・・・ん?) テレビからはニュースキャスターの元気な声が聞こえてくる。 『おはようございます! 月曜日の朝のニュースをお伝えします』 ・・・あれ? ボクは振り返ると、もう一度カレンダーをなめるように確認した。6月1日。日曜日。 おそるおそる母さんのほうを振り返り、ボクは尋ねた。 「母さん・・・今日、何月何日?」 母はきょとんとした顔で、フライパンを握りながら振り返った。 「やだ周助、まだ寝ぼけてるの? 今日は6月2日でしょ」 6月2日。 ―― 月曜日だ。 Hard or Gentle? 「あー、参ったな・・・」 朝っぱらから全速力で学校へと走っていく羽目になった。何度も時計を見比べる。始業にはまだ間があるけれど、テニス部の朝練に遅れたらグラウンド20週だ。 「まさか今日を日曜だと勘違いしてたなんて・・・」 朝から悠長に構えていた理由は、なんてことはない。今日は学校が休みだと、てっきり日曜だと思っていたからだ。 (珍しいわねえ、周助がそんな勘違いするなんて) いつでも呑気な母はそう笑っていたけれど、とても笑い事じゃない。朝練に遅れて走らされるなんて、いくらボクでも絶対にごめんだ。 「なんでこんなときに限って姉さんもいないかな・・・!」 出張中の姉を恨みながら、乗せてもらう車もなくてボクはひたすら走った。練習する前から息が切れるなんて、やってられない。 (・・・でも、なんでかな?) 一体どうして、今日が日曜だなんて思っていたのか。自分でも、まるで見当がつかない。母さんの言ったように、寝ぼけていたんだろうか? 「あれ・・・?」 そのとき、ふと。 不意に、あることに思い当たった。 「昨日って、本当に日曜だったっけ・・・?」 わざわざ確認しなくても、カレンダーがそう示している。今日は6月2日の月曜日なのだから、昨日は6月1日の日曜日だったことは、どうしたって間違いない。 けれど、一つ腑に落ちないことがあった。 「昨日の休み・・・何してたっけ・・・?」 思い返そうと頭をめぐらした。土曜日の記憶はある。部活が終わって、学校から帰ってきて。明日は休みだと嬉しかった覚えがある。 (日曜は久々のオフで・・・部活が休みで) 土曜の夜。明日は部活もないと、楽しみに眠りについた。しかし、そこから先の記憶がない。 「おかしいな・・・昨日は、何があったんだっけ?」 不思議なことに、ぽっかりと。 昨日の、日曜日のことが、さっぱりと思い出せなかった。 正門をくぐり、コートが見えてきた。 まだテニスコートに生徒の姿はない。皆、まだ部室で着替えているらしい。 「よかった・・・ギリギリセーフだ」 安堵しながらコートに駆け込む頃には、もう頭から先ほどの疑問は消し飛んでいた。 「おはよう!」 走ってきたために、気持ち上ずった声が飛び出した。ちょうど戸口に立っていた英二が、シャツを脱ぎかけたままでボクを振り返る。 「あ、おっはよー不二」 「おはよ、英二」 英二だけではなく、レギュラーは全員部室の中にいた。どうやら何とか間に合ったみたいだ。ほっと安心しながら、ボクも着替えるためにロッカーを開けた。まだシャツを着たままの英二が、ひょこひょこと寄ってくる。 「不二にしちゃ遅めじゃない?どったの?」 「ああ、それが今朝は寝坊しちゃってね」 日曜と勘違いしていた、なんて言ったら英二は腹を抱えて笑うだろう。到底そんなことは言えもしない。 当たり障りのない返事に、英二はへえ〜と首を揺らして、そのまま頭からウエアを被った。 「珍しいねえ、不二が寝坊とか。おチビならいつものことだけど」 「こらこら」 とうのおチビちゃんは涼しい顔で、反対側のロッカーで学生服を脱いでいる。どうやら彼が到着したのも、自分とさほど変わらない時間のようだ。 「越前くんはあれじゃない、桃が毎朝迎えに行ってるからでしょ」 「そうそう、あいつってばすっかりパシられ役が板についたっつーか」 くすくす笑っているボクらに、横から桃が情けない声を出してくる。 「ちょっと英二先輩、パシリはないでしょ。俺は先輩として、越前のやつが遅刻しないよう面倒見てるんすよ?」 「なーに言ってんだよ。お前去年は『エージ先輩、エージ先輩』ってくっついてきてたくせに、今年はおチビの子分になっちゃってさ。可愛くねーの」 ぶーたれる英二に、二通りの声が聞こえた。 何言ってんすか英二先輩、と苦笑いする桃城の声と、 「ふ――ん」 反対側のロッカーから聞こえた、底冷えのするような越前の声。 「え、越前・・・?」 心持青ざめた桃城がおそるおそる振り返ると、越前はバンと勢いよくロッカーを閉めた。そのままキャップを被り、声をかけようとする桃をスルーして扉に向かう。 「先行ってるっス」 「え、えちぜん〜っ!」 おチビちゃんはご機嫌を損ねてしまったらしい。いい気味だと英二はけらけら笑い、笑われた桃城は情けない顔で、慌ててその後を追った。 仕方ないなというふうに大石も苦笑し、奥で乾はさらさらと何やらノートに書き綴っている。タカさんもくすくすと笑っている横で、海堂はくだらないとばかりにフンと鼻を鳴らした。 いつもの、青学テニス部の光景。 いつもとなんら変わらない。そのはずなのに。 (・・・何だろう、何だか、違和感があるような・・・) うまく言葉では言い表せないけど、何かがおかしい気がする。 「・・・変だな」 「不二―?」 (部室に・・・人が多すぎる・・・?) 違和感の理由がつかめてきた。 きょろきょろと周りを見回すボクを、英二は不思議そうに覗き込んでくる。 (いち、に、さん・・・) 心の中で指をさしながら、ボクはその場にいた面々を一人一人数えていった。 まず英二がいて、大石がいて。乾がいて、タカさんがいて、海堂もそこに座っている。さっきまで桃がいたし、越前くんがいた。これで全員。 ふ、っと目にとまったのは。 サイドボードの前に立つ、背の高いすらりとした人影。 あれは・・・。 「英二」 「ん?」 「あそこ、今サイドボードに何か書いてる人。あれ、誰?」 こっそりと尋ねると、どういうわけか英二は、思いっきり『わけ分かんない』という顔をした。 「・・・ふ、不二・・・?」 「なに。ねえ、教えてよ。あの人何なの?なんで部室に知らない人がいるの」 「大石〜!不二が変なこと言い出したー!」 「ちょっと英二!」 人が真剣に聞いてるのに、聞けば聞くほど英二は妙な顔をする。ついには大石に飛びついてしまったから、ボクはやむなく大石のほうに問いただした。 「ねえ大石、あそこにいる、眼鏡かけた人。一体誰なの?」 大石なら、まともに答えてくれると期待したのに。なんと大石までもが、『困った』と顔中で言いながら、どうしていいか分からないというようにボクを見ている。 一体、なんだっての? 「何なのさ、みんなしてボクを担いでるの?」 段々声がとがり出したボクに、今度は乾が「どうしたんだ」と近づいてきた。ボクは重ねて同じ問いをする。 「乾、あそこに立ってるあの眼鏡の人って誰? 青学のジャージ着てるけど、OBか何か?合同練習するなんて聞いてなかったけど」 今度こそ、答えてもらえると思ったんだけど。 「不二・・・」 乾までもが顔をしかめて、困惑した声を出した。 「不二、それはあいつのことを言ってるのか?あそこに立っている、あいつのことを」 「そうだよ。あの壁際に立ってる眼鏡かけた人。英二も大石も教えてくれなくて」 「不二・・・お前どうしたんだ?」 「はあ?」 困惑しきった顔で、乾までもがそんなことを言う。 ―― 埒が明かない。 ボクはすたすたと歩き始めた。 部室の一番奥、白いサイドボードの前に立つ人のもとへ。 「あの」 短く声をかけると、その人はこちらを振り返った。 マジックで書く手を止めて、頭一つ高い位置からボクを見下ろす。さっきから散々あれは誰だと騒がれていたことなど耳に届いていなかったのか、彼は本当に無表情でボクを見返してきた。 ほんの一瞬だけ、ボクは少し息を呑んだ。 その凍りつくような顔立ちが。 ボクでも驚くほど綺麗に、とても端整に整っていたから。 眼鏡の奥から怜悧な瞳が覗き、射抜かれたようにボクは、ほんの一瞬だが動きを封じられたような気がした。 「―― あなたは、誰?」 そう尋ねたとき、ぎしっと音を立てて、部室の空気が固まった気がした。 「ふ、不二ぃ・・・」 英二たちがこわごわと近づいてくる。そんなに怯えられる意味が分からず、分からないこと尽くしでボクの機嫌はますます急降下した。 「どうしたんだよ、お前」 「もしかして、喧嘩でもしてるのか?」 ケンカ? 「なんで初対面の人とケンカしてることになるんだよ。ただボクは彼が誰かって・・・」 しかしそこから先は聞いてもらえず、処置なしという顔で大石はため息をついた。 「ほら、お前からも何とか言ってやれよ、手塚」 (・・・・・・手塚?) 手塚。そう呼ばれたその男は、ボクをじっと見下ろした。 何も言わず、ただ無言で。 (いやだ・・・なに、この目) 眼鏡の奥の瞳に、縫いつけられる。値踏みされているような感覚に、ボクは寒気すら覚えた。 とっさにボクも睨み返す。無機質な相手の瞳からは、どんな感情も伝わっては来なかった。それがますます気味の悪さを生んで、言いようのない不快感が駆け抜ける。 しばらくの間、ボクと彼は無言で睨み合っていた。 「な〜んだ、やっぱりケンカしてたんじゃん」 「えっ・・・」 はっと我に返ると、英二たちが肩の力を抜いて笑ってる。 「不二がいきなり手塚のこと知らないなんて言うから、びっくりしたよ、おれ」 「え、ちょっと・・・」 睨み合ってるボクたちを見て、みんなはどうやらボクらが喧嘩中だという方向に落ち着こうとしているらしい。 「なんだ、喧嘩してたのか。『知らない』なんていうから何事かと思ったぞ。まったく驚かせやがって」 「本当だな。お前らほどほどにしとけよ?うちの部長とナンバー2が喧嘩してるなんて、皆に知られたら驚かれるぞ」 (部長、ナンバー2・・・?) 誤解を解こうと伸ばしかけた手が、ぱたんと落ちる。 大石たちは安心した顔で、談笑しながら部室から出て行った。 後に残されたのはボクと、手塚と呼ばれた彼との二人。 (・・・なに、それ・・・) もう、駄目だ。 何から何まで、訳が分からない。 (部長、ナンバー2、何のことだよそれ・・・!) まるで分からない。 怖々と、それは傍から見ればみっともないほど怯えていたのかもしれないけれど、ボクは彼のほうへと向き直った。彼の、手塚という男の目はただじっと自分に縫いとめられている。 最初から、ずっと。 ―― いやだ。 悔しいことに、ボクは目をそらすしかなかった。 (何だよ、この人。誰なんだよ。こんな人知らない、知らないのに・・・!) 心の中がぐちゃぐちゃにかき乱される。心臓がバクバクと苦しいくらい脈打ってる。 それでも、それでもボクの目は、再びその男へと引き寄せられた。 一定の距離が開いている。5歩も踏み出せば彼にぶつかりそうな、そんな距離でボクは彼を見返した。 このときボクの心の中には、理解不能のものに対する恐怖しかなかった。 ボクの目が、再び彼の目とかち合う。 その瞬間を待っていたかのように、手塚という男はゆっくりと口を開いた。 その口が紡いだのは、たった二音節。 「・・・不二」 自分の、名前。 ただそれだけで、ボクの残り少ない余裕を打ち砕くのには十分で。 ああ、もう逃げたといわれても否定は出来ない。 本当に逃げるように、ボクはそのまま部室を飛び出したのだ。 |