不眠気味の曜日





チュンチュン、と鳥のさえずりが聞こえて、ボクはもぞもぞとベッドから起き出した。
ブラインドからも薄明かりが漏れてるし、どうやら朝が来たらしい。
「・・・・・・」
目は、パッチリと覚めている。眠気などまるでない。体に残ったままの疲労感や、一晩中寝返りを打っていた体のだるさに比べれば。

「・・・結局、一睡も出来なかった・・・」

重い重いため息を、ボクは枕に落としたのだった。



Hard or Gentle?


「どうしたの? 周助。今日はやけに機嫌が悪いわね」
何気なく言われた姉の一言に、ボクは助手席からずり落ちそうになる。
学校へ送ってもらっている道中の車内。そんなボクをますます珍しいものでも見るように見ながら、姉さんは運転席でハンドルを握っていた。
「あら、違ってた?今日はいつもよりオーラが灰色だから、何か腹を立ててるか、それとも何か落ち込んでるのかなって思ったんだけど」
「・・・まさに、そのとおりだよ」
さすが実の姉だ。見事な的中に、ボクも返事を返さざるを得なかった。重々しい声に驚いたのか、姉さんは綺麗な目をぱちくりとさせている。
「やだ、本当にどんどん灰色になってるわよ、周助。一体どうしたの?」

どうしたの、と言われても、返す言葉も見つからなかった。
腹も立ってるし、落ち込んでもいる。
(・・・それもこれも)
そうだ。
それもこれも、すべてあの男のせい。

昨日の部活に突然現れた、あのまったく知らない男。

部外者だろうに、どういうわけかレギュラージャージまで着ていた。まったく見たこともないにもかかわらず、当然のように部室にいて。
あげく、なぜか大石も乾も、誰もそのことを疑問に感じてはいなかった。まるで旧知の仲のようにあの男に話しかけて。ボクがどれほどことの異常を訴えても、誰も聞く耳を持ってくれない。

そして情けないのは、自分のことだ。
長身に、恐ろしく整った顔立ち。眼鏡の奥の瞳が、怖いくらいじっとボクを見つめていた。あの男に一睨みされただけで、体が強張り、不覚にもその場から逃げ去ってしまった。

『不二・・・』

(たったあれくらいのことで・・・)
また思い出してしまう。
内蔵まで響いてくるような、声だった。
(大体・・・なんでボクの名前まで知ってるんだよ・・・) 
もう訳が分からない。

黙り込んだボクに、さすがに姉さんも心配そうな顔で覗き込んできた。
「目の下にクマできてるわよ、周助。寝不足で倒れたりしないでね」
「うん・・・いってきます」
はあ、とまた重いため息が漏れた。


もしかしたら、すべてが元通りになっていないかと期待したのだけど。
残念ながら、現実はそれほど甘くなかった。

コートにつくと、やはりあの男はそこに立っていた。じろじろと凝視するボクに気付いていないのか、平然とした顔で準備する一年生たちを監督している。
その場に立ち竦んでしまっていると、不意にボクの横を小さい体が通り抜けた。
「ちわっす、不二先輩」
「越前君・・・」
ぱたぱたと走りながら、すでに着替え終わった越前はコートへと駆け込んだ。そのとき、突然強い声が飛んだ。
「遅い!」
「!」
思わず息を呑んだ。あの男だ。
「スンマセン、部長。寝坊して」
くい、と帽子を引いて一礼すると、越前は準備をしている一年生の輪の中に紛れ込んでいく。
(『部長』・・・?)
そうこうしている間にも、部室からはレギュラーたちが続々と出てきた。
すたすたと彼の元に歩み寄った大石は、自然とその隣に位置を取った。
「おはよう、手塚。竜崎先生から伝達預かったんだけど・・・」
「ああ・・・」
腹が立つほど自然に、大石はそのまったく知らない男と会話し始めた。まるで毎日の習慣のように。
(『手塚』って・・・今呼ばれてたけど・・・)
知らない。あんな人、ボクは知らない。
なのに皆、何の疑問もなくあの男に接している。
これじゃまるで、浦島太郎にでもなったみたいだ。

「あー、不二おっはよ!」
「英二・・・」
変わりなく今日も笑顔で手を振りながら、英二がやってくる。そのときのボクには、英二でも唯一の希望に見えた。
「・・・ちょっと来て!」
「へ、え、えええ〜っ!?」


強引に英二を引っ張って、部室の中に閉じこもった。幸か不幸か中には誰もいないので、英二には悪いけど、ここなら締め上げるには好都合だ。
「ふ、不二・・・っ?」
ただならぬボクの気配に察したのか、英二は青ざめた顔でボクを見返している。ボクはにっこりと笑うと、その肩にぽんと手を置いた。
「今なら怒らないよ、英二」
「・・・へ?」
「みんなしてボクを担いでるんだよね?もう分かったし、十分驚いたから、いい加減もうやめてくれない?」
「あの、不二、何の話してんの・・・?」
ぴくり、と神経が過敏になる。
寝不足もあいまって苛立ちが募り、表情がいっそう険しくなるのが自分でも分かった。
「何の話も何もないだろ。あの眼鏡かけて立ってる人だよ。なんで知らない人がジャージ着て、部活にいるんだよ」
「不二ぃ・・・それ、昨日の話の続き?」
本当に困ったように、英二はボクの顔を見返した。
「まだ手塚と喧嘩してんの?何があったかおれ知らないけど、早く仲直りしなよ。お前ら結構仲良かったじゃん」
またこの展開になる。これじゃ堂々巡りだ。
「ねえ、英二。真面目に聞いて」
じっと英二の顔を正面から見つめる。本気のボクに、英二は口をつぐんでしまった。こういうことの察しは、他の誰より英二が早い。
「ボクはあんな人知らない。どこの誰かもまるで分からない。このままじゃボクは、到底部活になんか出られないよ」
英二は、ボクが本気であることを理解したようだった。そして、ボクも同時に認めなければならないことがある。
「・・・不二、ほんとに手塚のこと知らないって言うの?」
「英二こそ、本当にドッキリじゃないって言うわけ?」
ボクも、すでに察していた。英二はボクほど腹芸に長けていない。英二は嘘をついていない。

――だとしたら、あの男は何なんだ?

しかしそのとき、英二は思わぬことを言い出した。
「不二、先週までは普通に手塚と話してたじゃん。なんで急にそんなこと言うんだよ」
「先週・・・?知らないよ、今まで一度だって、あんな人見たことも・・・」
「じゃあ、うちの部長は誰だって言うんだよ!」
はた、と動きが止まった。
『スンマセン、部長』
越前もそんなことを言って。あの、『手塚』と呼ばれていた男を部長と呼んでいた。
部長。部長。うちの、テニス部の?
「それだけじゃねーよ。手塚じゃなかったら、シングルス1は誰がやってたって言うんだよ。そんな、なんで急に知らないなんてことになるんだよ!」

シングルス1。
考えたこともなかった。
「・・・ボクは」
「不二はシングルス2だろ。シングルス1はずっと手塚だったじゃんか」
必死で頭を巡らせた。今までの試合を思い出そうとした。
このあいだのルドルフ戦。越前がシングルス3で裕太と戦い、ボクはシングルス2で観月と当たった。
・・・そうだ、ボクはシングルス2だ。
じゃあ、誰がシングルス1をやっていた?

英二は棚から一冊の本を取り出して、混乱しているボクに押し付けた。
本と思ってよく見たそれは、部活の写真を集めたアルバムだった。

「不二がカメラ持ってきて、みんなの写真とってくれたよな。手塚だって、ちゃんと写ってる。不二が撮ったんだ」
「嘘・・・」
「うそじゃない。不二こそ、一体どうしちゃったんだよ・・・」
泣きそうな声で、英二は言った。

写っていた。そこにはたしかに。
合宿の写真だろうか、みんなで枕投げしてはしゃいでいたときの写真だ。たまにはボクも写れといわれて、乾にカメラを奪われて撮られた覚えがある。
でも、こんなものは知らない。写っているのはたしかにボクだけど、でも。

どうしてボクが、あの男と並んで笑いながら写ってるんだ?

「・・・どうして・・・」
呆然とつぶやいたとき、ガチャリ、と部室の扉が開いた。
そこに立っていたのは、今一番見たくない顔だった。

「不二、菊丸。練習を開始する。コートに出ろ」
あの、臓腑まで響きそうな、低い声。
「あ、手塚・・・」
顔を上げる英二に対して、ボクは写真から目を離すことができない。黙ったままのボクに、彼の視線が注がれているのが分かった。
「今日は紅白戦をする・・・不二」
名前を呼ばれて、ボクは、おそるおそる顔を上げた。
きっとそのとき、自分はこれまでで一番情けない顔をしていただろう。

「彼」は、何事にも動じないといった姿で、扉をふさぐように立っていた。朝の光が注ぎ、逆光のように彼を照らしている。その表情は見えなかった。

「まずは、俺とお前の対戦からだ。不二」

無情な声が響いた。









試合開始のホイッスルが鳴った。
「お、手塚と不二の試合、始まったか」
大石は遅れてフェンスまでやってきた。試合開始のコールに何とか間に合ったと、息を切らしている。
先に観戦していた英二が、手を振って迎える。その頃にはすでに、フェンスの前には人だかりが出来ていた。他にも試合しているところはあるものの、やはり手塚と不二のコートが一番ギャラリーの数が多い。
「お、やっぱり人気みたいだな。ありそうで滅多にないもんな、この二人の対戦」
「うん、ホントだね・・・」
へへ、と笑う英二の顔は、なぜか少し疲れている。あれ、と大石は首を傾げた。
「英二、どうし・・・」
そのとき、遠くから声がかかった。トーナメント表を持った乾が、軽く手をあげてこちらにやって来た。
「おーい、大石、英二。手塚たちが終わったら、このコートでお前たちの対戦だからな」
「あ、乾」
Tシャツに緑ジャージといういでたちに、少し違和感を感じる。なにせ、越前が入学してくるまでずっとレギュラーだった男だ。こうして平然とマネージャー業に専念しているあたり、本当にこいつも読めないな、と思わされる。
「どうした、二人とも。妙な顔して」
「あ、いや・・・」
「少し早めにアップしとけよ。この二人の対戦は、そう時間はかからないからな」
何気ない調子で言った乾に、大石も英二もさすがに苦笑した。

乾の言うとおり、手塚と不二の試合は流れるようにあっさりと終わる。その実力からすれば泥試合になること確実なのに、いつも簡単に手塚の勝利で終わる。それも汗一つかかず、息も乱さずに。
かといって、不二の実力が劣っているわけでもない。汗一つかかないのは不二も同じだ。不二にしても、手塚にしても、まだまだ余裕が感じられる。それなのに、深追いはせずさっさと試合を終わらせてしまう。
出し惜しみするかのように。
三年レギュラーたちにはすでに周知のことだ。

困ったもんだねと言わんばかりに、乾がペン先でカリカリと額をかいた。
「だから、本当はあまり注目しても意味がないんだけどね。それでもデータの積み重ねにはなるしなあ」
「あー、またノート広げてやんの。毎回そんなに書くことあんの?」
「あるとも。何百冊あったって足りないくらいだ」
おどけているのか真面目なのか、判別しがたい口調で乾は言った。
「・・・ほら、流れから言ってそろそろ来るだろう。手塚のお得意、ドロップ・・・」

乾が言い終わるより早く、手塚の手からドロップショットが繰り出された。
その場にいた全員が、手塚と不二の攻防に吸いつけられる。
いつもとまったく変わらないフォームから生み出される必殺技。静かなる攻撃に、観客からわあっと歓声が上がった。
「でも、まだだね」
英二が笑って言う。乾も大石も、それには同感だった。
「不二なら追いつく」

ところが。
一部の予想を覆し、トンッ、とボールがネット際に落ちた。そのままほとんど弾むことなく転がっていく。見事に決まったドロップに、ギャラリーからの歓声がいっそう高まった。

「およ?めっずらしー、不二が反応できないなんて」
「ああ、本当だな」
若干、少なくともレギュラーたちは一瞬怪訝な顔を浮かべただろう。しかし試合はどんどん流れていくから、すぐにそんなざわめきも消えて、皆新たに展開に引き込まれていく。
しかし、ただ一人。乾だけは、ペンを動かす手を止めてじっと不二の姿を注視していた。
「・・・そういえば、昨日妙なことがあったっけな」
それは天気の話題を口にするような、何気ない口調だった。しかし、話を振られた大石と英二は、正確に『妙なこと』が何なのかを察した。
「手塚と不二の喧嘩のことか?」
不二の喧嘩なんて、珍しいなんてものじゃない。手塚はああ見えて割と喧嘩っ早い(というより喧嘩を売られやすい)ところがあるが、彼らは基本的に争いを嫌う。自分の事に関しては。
「それがさ、大石。・・・不二、今朝もまだ言ってたんだよ。手塚のこと知らないって」
「なに?」
しかもそれが、どうも嘘じゃないらしいんだ、と。英二は言おうか言うまいか迷った。何となく言い損ねていると、大石はううんと片手をあごに添えた。優しい彼は、純粋に心配しているのだろう。本当に二人が喧嘩していると思って。 けれどそれは、英二も同じだった。さっきの不二の必死の顔は嘘には見えなかったと思う。英二自身が思うよりずっと、その勘は的中していた。けれど英二自身がとても信じられず、不二の身に異変が起こったというよりも、ただの喧嘩だと思っていたかったのだ。
「あんまり続くようなら、一度話を聞いてやらないとな・・・」
「うん・・・」
そんな二人の会話を聞いているのかいないのか、乾は終始無言だった。

そのかわり、眼鏡越しの鋭い視線は、何かを見通すように不二に向けられていた。




(・・・このっ!)
思わず内心で悪態をついたボクは、そのままくるりと背を向けてラインまで下がった。
ドロップが決まった瞬間。
それでも、周りはおそらく一瞬の苛立ちに気付かなかったと思う。
ネットを挟んで向い合っている、あの男以外は。

こんな、訳も分からないまま試合をすることになるなんて。腹立ち紛れに、ネットの向こうのあの男をボクは睨みつけた。

彼は強いなんてものじゃなかった。
ゲームはまだ2−1。試合が始まってそう時間は経ってない。それでも、彼の底知れない実力の片鱗を覗くには十分だった。 青学には越前という、並々ならぬ才能を持つ選手がいる。けれど、この手塚という男の実力は、おそらく彼以上。

予測できないドロップショット。普段のフォームと寸分変わらず体勢でドロップを繰り出す人間なんて初めて見た。 それまで必死で打ち合っていたのが、いきなり気をそがれるこの感覚といったらない。反応できなかった自分に腹が立つ。胸が悪くなるような自分自身への怒りに、冷静さを保つ自信が薄くなってくる。

ボクはもう、息が上がっていた。はあ、はあと、自分の呼吸音すら耳に障る。
(けど、きっとこんなものじゃない)
なぜか、直感的に分かった。
「彼」は、まだ全力を出し切っているわけではない。本気を出せばおそらくまだ・・・。


(・・・負けるかもしれない)
不意に、そんな思いが頭をよぎった。
ドクン、と脈打った自分の心臓の音が聞こえたような気がした。突発的に回りの温度が下がったような、先ほどまでとは比較にならない焦りが湧き出してくる。

『手塚じゃなかったら、誰がシングルス1をやってたんだよ』

(誰・・・誰だよ・・・!)

涼しい顔をして、ネットを挟んで立っている男の姿。
こんな人、知らない。見たこともない。手塚なんて名前も聞いたことがない。なのに、どうして。
シングルス1。部長。写真。
「彼」がたしかに存在するという証拠をまざまざと見せ付けられて。

「・・・誰なんだよ」

ボクは思わず、ぽつりと呟いていた。


手塚は変わらずにそこに佇んでいた。
何事にも動じないという顔で、対戦者のボクを冷徹に見据えている。その姿になおさら混乱と苛立ちが募った。

「誰なんだよ、キミは・・・」

けれど、彼の目を見たの瞬間。
ボクの体はびくっと竦み上がった。

見据える、目。


その瞳の奥に、炎が見えた気がしたのだ。





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