今年の梅雨は長雨で、本当に毎日のように雨が降り続いた。
そして雨が降る日は、薫が必ず現れた。俺は、いつまでも梅雨が終わらなければいいのにと思ったものだ。

薫に会う日々は楽しかった。
学校には行っていないという彼に、俺はここの中学の話をたくさんした。俺が興味を持っている教科や分野のこと、陰険で嫌味な教師をみんなでやり込めた話や、合宿で大騒ぎをしたこと。それから天才なんてあだ名のついた、友人の話まで。
薫はどれも、面白そうに聞いていた。あまり感情を顕わにしない彼だったが、何気ない仕草や表情の変化から、興味を持って聞いてくれていることが分かった。大体俺は話し好きで、つい講釈口調でべらべら話し続けてしまう。はっと気がつけば、薫がこちらを見ながらずっと相槌を打ってくれていて。
「悪い・・・俺ばっかり喋ってるな、ごめん」
頭をかくと、薫は真面目な顔で首を振った。
「悪くなんかないすよ、全然」
アンタの話聞くの、面白いから。
あの寡黙な薫が、だんだんと口数が増えていくのが、嬉しくてたまらなかった。


それはいつだったか、ふと会話が途切れた後のこと。
俺は薫に、祖父と父の話をした。
戦争に行って亡くなった二人のこと。そして、やがて大人になれば、同じように戦地に赴くだろう自分のこと。薫はじっと黙って、俺の話を聞いてくれていた。
「・・・本当は、軍人になんかなりたくないんだ」
母にも、友人にも、誰にもこぼしたことのない本音だった。
「大学に行って、研究をしてみたい。学問を続けたいんだ。けど代々軍人の家系のうちでは、かなわない夢だ」
「・・・・・・」
「ああ、悪い。こんな話お前にしたって、訳が分からないよな」
切り上げようとしたら、薫が突然俺の手を掴んだ。
雨に濡れた、冷たい手だった。そのひんやりとした感触に、俺はどきりとした。
「・・・死んだら、おしまいじゃねえか」
「え・・・」
「戦争に行って死んだら、夢も何もあったもんじゃねえぞ」
「薫・・・」
「・・・諦めんじゃねえ」
そのぶっきらぼうな言葉は、俺の心の奥まで深く染み渡った。
ただ嬉しかった。
薫の言葉が。



ある日のことだ。
「ねえ、薫」
その日もまた雨が降っていて、俺は薫と一緒に屋根の下のベンチに腰掛けていた。
「お前、どこに住んでるんだ?」
「え・・・」
顔を上げた薫に、俺は重ねて尋ねた。
「いや、いつもお前はどこから来てるんだろうと思って。家は、ここから近いの?」
薫は、しばし沈黙した。それから、俺から目をそらして曖昧に頷いた。
(やれやれ・・・まだ駄目か)
初めて会ったときと比べれば薫は、随分と俺と打ち解けた気がする。気安い調子で俺の隣に座るようになったし、ぽつりぽつりと話もするようになった。これで彼は十分俺に気を許してくれているのだ。
けれど彼は、ほとんど自分のことは話そうとはしなかった。彼の苗字すら、いまだ俺は知らなかったのだ。
(・・・駄目だな、無理に聞いたりなんかしたら)
詮索されたくないのだろうと、分かっているのについまた尋ねてしまった。彼のことが知りたくて。胸の中にある淡い思いのことを、乾はもう意識せずにいることは出来なかった。相手は自分と同じ男で、少年であるのに。
薫のことを知りたい。毎日でも会いたい。

・・・にゃあ
突然猫が鳴いて、乾ははっと我に返った。いかんいかん、と雑念を振り払おうとして、乾ははたと薫の腕の中の猫を見た。茶色い縞模様の猫。薫と初めて会ったときに、同じく出会った。
猫は心なしか、いつもより大人しかった。ずっと眠ったままのように動かず、たまにぴくりと体を揺らすだけだ。いつもおとなしい猫ではあったが、元気がないように思えた。
「・・・どうしたんだろう。そういえばここ最近、あまり元気がなかったね」
「・・・・・・」
薫の顔は、ひどく青ざめていた。それから悲しそうに、ぎゅっと唇を引き結んだ。その姿が気の毒で、俺はそっと薫の肩に手を置いた。
「まだ子猫だから、心配だね。もしあまり具合が悪そうなら、病院に・・・」
しかし薫は、悲しい顔のまま首を振った。ひどくうつろな表情だった。
子猫はぴくりとも動かない。
「・・・薫、今日はもう帰るかい?お前まで具合の悪そうな顔をしている」
「・・・・・・」
本音を言うと、俺は出来ることならずっと薫と一緒にいたかった。けれど、具合の悪そうな猫を見て、ひどく青い顔をした薫のことが心配だったのだ。
「・・・今日は送っていくよ、薫。まだ雨は降っているし、俺の傘に入っていくといい」
しかし、薫は黙り込んだまま、動かなかった。
立ち上がった俺に対し、顔も上げない。
「薫?」
「・・・・・・」
猫を抱いたまま、薫はようやく立ち上がった。一緒の傘に入って、俺たちは歩き出す。
これで、薫の家が知れるだろうか。俺にはそんな淡い期待もあった。薫の素性が少しでも分かることに期待した。
ところが。
突然、隣にいた薫の気配が消えた。
「・・・スンマセン」
振り返ると、薫はいなくなっていた。
俺は慌てて屋根の下まで戻ったが、薫はもうどこにもいなかった。ただベンチの上に、猫がうずくまっているだけだった。



次の日、また薫は当然のように現れた。
「昨日はびっくりしたよ、突然いなくなるから」
「・・・スンマセン」
また同じように謝る彼に、俺は到底それ以上言うことは出来なかった。彼がそうして、自分のことを隠す理由は気になったが、とても追求する勇気はなかった。
それを尋ねてしまったら、もう薫が来なくなるんじゃないかと思って。


俺と薫が毎日のように会うようになって、数週間が経っていた。
あれほど咲き乱れていた紫陽花の花も、そろそろ時期が終わろうとしていた。俺は枯れ始めた紫陽花の木を見上げて、つぶやいた。
「これじゃあ、あと二、三日というところだろうな・・・」
「・・・そうですね」
大体いつも頷くのみの薫が返事をしたから、俺は少し驚いた。薫はどこか寂しげな表情で、しなびて頭をたれていく紫陽花の花のかたまりを見つめている。
紫陽花が枯れ始めたということは、梅雨ももうそろそろ終わりだろう。そう思うと、切なかった。雨ばかりでうっとおしい季節だとしか、これまで思ってこなかったのに。

しかし、ひとつ気がかりなことがあった。猫の具合が一向に良くならなかったのだ。
「・・・・・・」
薫は悲痛な顔で、腕の中の猫を撫でていた。猫はすっかり弱ってしまっていて、呼吸こそしているものの、何の反応も返さない。
「薫・・・」
思えば彼は、いつもこの猫を抱いていた。どれほど情が移ってしまっているのかよく分かるから、乾もまた辛くて仕方がなかった。慰めるように肩を叩いても、薫はますます下を向いて俯くだけだった。
「・・・ん?」
そのとき、不意に乾の視界が歪んだ。なぜか急にふらりと体が傾いた。
「・・・!」
薫が慌てて、俺のほうを覗き込んだ。
「・・・あ、ああ。大丈夫だよ。なんだろう、急に目まいがして・・・」
しかし薫は、ますます悲痛に顔をゆがめた。眉間に皺を寄せ、唇をかみ締めている。今にも泣き出しそうな顔をしていた。
「・・・アンタ、もう今日は帰ってください」
「え・・・?」
「・・・顔色、良くないです。もう帰って下さい」
心配から言ってくれているのだろうと分かって、俺も何も言えなかった。


しかし、それから俺は、ことあるごとに体調不良を感じることが多くなった。
ついには、友人に指摘されるほどに。

「・・・乾、いったいどうしたの」
不二の顔には、いつもと違って笑顔はまったくなかった。
「いや・・・どうしたのって」
「鏡を見てごらんよ。ひどい顔してるよ、自覚はないの?」
あった。どういうわけか、最近の俺は妙に調子が悪かった。眩暈や立ちくらみはしょっちゅうだし、食欲も落ち込んでいた。
「・・・季節外れの風邪でもひいたかな」
「一度、お医者にかかったほうがいいよ。大体乾はものぐさだから、放っておいたら行きゃしないだろうね。だからボクと手塚がついていってあげる」
「え?」
「今日、これから。一緒に行こう」
不二にそう言われた、ちょうどその瞬間だった。窓から、パタパタと雨粒の叩きつける音がした。
―― 雨だ。
「悪い、不二・・・」
俺は傘を持って、教室から飛び出した。
「・・・乾!!」
薫が、待ってる。薫に会いたい。
行かなきゃ。



「・・・薫」
ああ、本当に。突然に。一体どうしたことだろう、急にこんなに体調が悪くなるなんて。
俺は頭痛のする頭を押さえながら、濡れている薫に傘を差しかけた。
「・・・アンタ」
薫は綺麗な眉をしかめて、俺を見上げた。
「具合、悪いんじゃないのか」
「大丈夫だよ、そんなに大したこと・・・」
言いながら、俺はまたくらりと目眩に襲われた。まずい、足元がぐらぐらする。
「・・・・・・」
悲痛な顔で見上げてくる薫に、俺は殊更何でもないように振舞った。優しい彼に心配をかけたくなくて、話題を変えようと彼の腕の中の猫を指差した。
「そういえば、猫の調子はどう・・・」
そこで俺は、彼の腕の中に、あの猫の姿がないことに気がついた。
「薫、猫は・・・」
薫はすっと、紫陽花のほうを指差した。あ、と俺が振り向くと、猫は紫陽花の木の下で隠れるようにして、雨を凌いでいる。うずくまっているその様子は、先日とあまり変わりがなかった。
「今日は、抱いてないんだな・・・」
「・・・・・・」
薫は黙ったままだった。
「猫、どうしたんだろうな。ひょっとして何かの病気だろうか・・・」
「違う」
言いかけた俺の声を、薫が遮った。
こんなことは初めてのことで、俺はとても驚いた。
「・・・原因は、分かってるんだ」
「え・・・?」
下を向いて顔を背けて、薫は辛そうにそう呟いた。その不可思議な言葉を俺は確かめようとして、どうにもならなかった。ちょうどその瞬間、俺の視界が突然暗くなったから。
(―― また、立ちくらみが・・・)
まずい。
そう思うより先に、意識が薄れていく。
薫がはっと驚いて顔を上げ、その悲痛な表情が目に入った。
(薫・・・)
大丈夫だよ、何でもない。
そう答えようとしたが、次の瞬間には、俺の意識は完全になくなっていた。



「・・・乾」

目が覚めると、そこには橙色の豆電球がぶら下がっていた。
そして、二人の友人の顔があった。
「・・・手塚、不二・・・」
起き上がろうとしたが、体にまるで力が入らなかった。腕に力を込めようとするが、何度やっても失敗する。見かねた手塚が、俺を布団から起こしてくれた。俺は制服のままだった。
「ここは・・・」
「医務室だ。先生に頼んで鍵を借りた」
手塚は厳しい顔つきで、俺の顔をじっと見つめた。不二もまた手塚の隣に立って、俺の顔を見ている。
「・・・乾」
不二は俺に向かって、手鏡を手渡した。なんだろうと覗き込んで、俺は驚愕した。
驚きのあまり、声も出なかった。
そこに映っていた、自分の顔。

なんだ、このやつれきった顔は。
いつのまにこんなに、頬がこけてしまったのか。目の周りは落ち込んで、顔色も土気色だ。これではまるで、死人のようだ。

手鏡を持つ手を震わせる俺に、不二の声が静かに降りてきた。
「・・・乾、キミはあのおばけあじさいの木の前に倒れていた」
俺は声が出なかった。手塚も黙って、俺の背中を支えている。
「ねえ、乾。ボクたちはずっと気になってたんだ。雨が降り出すと決まって教室を飛び出していって、いったいどこに向かってるんだろうって」
ブン、と豆電球の音が響いた。
「今日、悪いとは思ったけど、キミの後をつけさせてもらった」
「な・・・っ!」
思わぬ言葉に、俺は思わず立ち上がりそうになった。だるい体が言うことを聞かなかったが、俺は不二を睨みつけた。
―― こいつらに、見られた。
薫の姿を。雨の中で濡れていた着物姿の少年を。
猫を抱くあの子の姿を。
俺の、大切な大切な。
「・・・あいつの姿を、見たのか」
俺は手塚と不二を睨んだ。まるで薫自身を奪われたような思いだった。俺だけの秘密を無断で覗き見されたようで、胸が焼けるように熱くなった。
「・・・いや」
しかし不二の顔はなぜか、浮かない色をしていた。おや、と俺は思う。不二はまるで哀れむような目で、ゆっくりと俺に視線を合わせた。

「ボクたちは、何も見なかったよ」
その言葉に、俺たちの秘密の逢瀬は守られたのかと、一瞬誤解した。
次の言葉を聞くまでは。
「ボクたちは、キミの他には誰の姿も見えなかった。見たのはキミ一人の姿だけだ」
「え・・・」
意味をとらえ損ねて、俺は不二に聞き返した。
手塚の視線が自分に注がれているのを感じた。だって、なんなんだそれ。
どういうことだ。
不二はよくよく言い聞かせるように、俺を見てはっきり言った。
「ボクたちが見たのはキミが、一人で誰もいない空間に向かって延々と喋り続けている姿だったよ」

嘘だ。

「・・・乾、キミは、誰と会っていたの?」
「・・・嘘だ」
そんんはずがない。嘘に決まっている。
薫は、たしかにあそこにいた。今日も、昨日も、梅雨の間毎日のように会って話して。
いろんなことを話して。
「乾、お前が会っていたのは、おそらく」
「そんな馬鹿な」
否定し続ける俺に、二人の無情な声が響いた。
「お前が会っていた相手は俺たちには見えなかった。お前が見ていたのは、人間じゃない。この世の者ではないんだ」
「そんなの・・・」
ありえない。有りうるはずがない。
有ってたまるものか。
「お前がそんなに短期間で衰弱したのも、おそらくそいつのせいだ」
「ねえ乾、ボクたちもこれまで幽霊なんてものは信じてなかったけど、これだけは言わせて。もうその人に会っちゃいけない」
手塚と不二は真っ青な顔で、呆然とする俺の肩を揺さぶった。俺の顔はその何倍も青くなっていることだろう。
「・・・そんなはずない」
「ねえもう会わないで、お願いだから。そいつはおそらく、キミも一緒にあの世に連れて行こうとしてるんだ」
「・・・勝手なこと言うな!!」
「・・・このままじゃ、キミは取り殺されてしまうよ?!」
不二の顔も、必死だった。
俺は頭を抱えて、その場にうずくまった。

薫。
薫。

薫。






雨音が聞こえる。
窓に吹きつける雨。ああ、今日は一段と強い雨だ。ガタガタと窓が揺れている。
嵐になりそうだ。
俺は朝からろくに起き上がることも出来ない有様で、学校も休んでいた。
雨音がまるで、呼び声のようだ。
無口なあの子の、精一杯の呼び声。
俺はふらつく足で、布団から立ち上がった。


学校は、しんと静かだった。
校庭には人影もない。よろよろと頼りない足取りで、何とかおばけあじさいの前へと向かった。呼吸がひどく苦しい。どれほど体力が落ち込んでいるのか、歩くのも辛い。途中何度か転んだ。それでも這い蹲るようにして、俺はただ一心に紫陽花の木へと向かった。
歩いている途中で、傘は投げ出してしまった。
冷たい雨が直接俺の体に叩きつける。空は灰色の雲に覆われて、辺りは昼間とは思えないほど暗かった。

「・・・薫」

全身ずぶ濡れになりながら、俺はおばけあじさいの前に立った。
びゅうびゅうと強い風が俺を襲う。俺は、目を見張った。
青い花はしおれて枯れて、ほとんど枝だけになってしまった紫陽花。
それなのに、そのはずなのに、なんだ。

あの、枯れた枝の間から頭を覗かせているのは。
今まさに花が開いたかのように、そこだけぽつんと浮かび上がるように瑞々しく咲き開いているのは。
真っ赤な、あじさいの花だ。

おばけあじさい。


(おばけあじさいの木には、怪しい本当ともつかない噂がいろいろあった)
(かつてあのあたりで刃傷沙汰が起こり、殺された者の死体がその下に埋まっているだの)
(あの青い紫陽花の木の中にひとつだけ、血のような真っ赤な花をつけるものがあるだの)
(それは土の中の死体の血を吸い上げて、赤く染まっているだのと)



呆然と佇みながら俺は、ただ呆気に取られて、その赤い不気味な花を見ていた。
枯れた枝の中でそこだけが、まるで生きて、うごめいて、活動を続けているようだ。

(あ・・・)
俺はふらつきながら、紫陽花の木の下に近寄った。枝の下にうずくまる、小さな毛玉。
茶色い縞模様の猫の姿を見つけた。俺はゆっくり、ゆっくり抱き上げた。
猫はもう、とっくの昔に冷たくなって、動かなかった。

「・・・俺のせいだ」
背後から、声が聞こえた。
「薫・・・」
雨に濡れそぼる彼が立っている。出会ったその日と、まったく同じように。
着物も体も、びっしょりと濡らして。
雨の中で、たったひとりで。
うつろな目で。
「・・・猫が死んだのは、俺のせいだ。俺に近づいたら、みんなそうなっちまうんだ」
「薫・・・」
「来るな」
薫の足が、一歩下がった。
「これ以上近寄るな。アンタまで死なせちまう。すでにもう、そんなに苦しませたのに」
雨が降り続く。
薫の黒髪を、頬を、顎を伝って落ちていく。
いいや違う、あれは。涙だ。あの子の流す涙。
「・・・薫、もう会えないのか」
彼は黙って、こくりと頷いた。ああ、決まってしまった。彼はもう決めてしまったのだ。
これが、最後の逢瀬。
最後の、彼との。
「・・・ねえ、薫。ひとつだけ言わせてくれないか」
言いながら、俺はもう立っていることも出来ずに、地面に突っ伏した。体ごとべったりと地面に倒れ伏す。びしゃり、と泥が跳ねた。薫は俺に駆け寄ろうとして、それからはっと自制するように立ち止まった。その手が、唇がぶるぶると震えているのが辛かった。
薫。
泣かないで。
「俺は毎日、お前に会いに行くのが楽しみで仕方なかった。お前のことが、好きだったから」
薫の目が、はっと見開かれた。
そしてそこから、大粒の涙がいく粒も零れ落ちた。
薫は立ちすくんだまま、涙で顔をくしゃくしゃにして俺のほうを見ていた。
「・・・俺は」
「うん」
近づいて、あの髪の毛を撫でてあげられたらよかったのに。
「俺は・・・」
涙で声も出ない彼は、下を向いて裾を握り締めていた。
「・・・もし、俺の自惚れじゃなかったら。薫、お前も」
「・・・ああ」
やがて、薫は前を向いた。
そのときの彼の表情を、俺はなんと表していいか分からない。雨の降りしきる中、暗闇の中、神々しいばかりに輝く彼の表情を。
「俺も、同じだ」
俺は見惚れていた。薫の背後から、神様のように光が差していた。

「アンタに会いたくて、俺は毎日ここに来てたんだ」


俺の意識が落ちるのと、視界がまばゆいばかりの光に包まれるのは同時だった。
いや、それは俺の錯覚だったのかもしれない。
それでも次に俺が目覚めたときは、薫の姿などどこにもなかった。
それが、最後だった。




やがて戦争が始まり、校庭は軍隊が占有するようになった。あのおばけあじさいは、邪魔になるからという理由だけでいともあっさりと切り倒されてしまった。
そしてそれから、俺は家族を説得し、軍隊には入らずに大学で細々と好きな研究をすることが出来るようになった。

戦争が終わってしばらくたった後。おばけあじさいのあった場所から、古い子供の骨が出てきたという話を聞いて、俺は胸にこみ上げてくるものを必死で堪えた。









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