紫陽花



それはまだ、時代がモノクロの昭和のだったころのことだ。
少しずつ忍び寄ってくる戦争の影と、これからやってくる激動の時代を予感しながら、人々が日々を暮らしていたころ。
やがて来る嵐の前兆のように、時代の先に暗雲が立ち込める気配を感じながらも、俺たち学生はまるで何も知らないかのごとく精一杯の青春を謳歌していた。

俺たちの中学校の広い校庭も、そのうち軍部に持っていかれて使うことはできなくなった。
しかし、そうなってしまう前に。
俺たちが通っていたころ、広い校庭の一角には、大きな紫陽花の木があった。
もう何代も前の校長先生が植えたとかいうその紫陽花の木は、俺たちの背丈よりもずっとずっと高く、山のように大きく聳え立っていた。毎年梅雨の時期になると、木は真っ青な大きい花のかたまりを咲かせた。雨がしとしとと降る中、山のような木が一斉につけた青い花の輝きは、どこかぞっとするような不気味さがあった。
その紫陽花の木を、俺たち生徒は「おばけあじさい」と呼んでいた。

俺が「彼」に出会ったのは、そのおばけあじさいの木の前だった。


雨がひどく降っていた、薄暗い日だった。
遠くで雷が鳴っていた。俺は傘をさして、家へと帰る途中にその紫陽花の木の前を横切ろうとした。
そのとき、視界を茶色いものが駆け抜けた。

にゃあ

猫の鳴き声だ。そう気づいた俺が辺りを見回すと、紫陽花の木の前に小さな茶色い毛玉を見つけた。
そばにいって覗き込むと、それは茶色い縞模様の子猫だった。猫は片手で握りつぶせそうなほど小さくか弱くて、雨の中で途方にくれているような顔をしていた。
動物は嫌いじゃない。俺は傘とかばんを片手で持ち直すと、猫を抱き上げてみようとしゃがみこんだ。ちいさなちいさな猫は、脅えたようにじたばたと暴れた。何とか掴もうとすると、雨にぬれた毛がするりと滑って、手の中からすり抜けた。猫はぴょんぴょんと跳ねて、それはか弱い様子でとてとてと走り出した。

俺は傘を持って立ち上がって、そのとき初めて、視界の先に人がいるのに気がついた。
紫陽花の木の前に、その人は傘もささずに、ぼんやりと立っていた。
着ている薄い浴衣は濡れそぼり、肌に張り付いている。
黒い髪からもぽたぽたとしずくが落ちていたが、彼はそんなことなど気にも留めていないようだった。ただ、そのうつろな瞳が虚空を見つめて、暗い色を映している。
この世ならざるものに出会ったような気がして、俺は石のように固まった。その彼から、目を離すことができなかった。
猫は、まっすぐにその人のもとへ走っていった。
その浴衣姿の人は、初めて気がついたかのように下を向くと、しゃがんで猫を抱き上げた。猫はまるで暴れることも脅えることもなく、その人の胸でおとなしくなった。

俺は気がつけばその人に駆け寄り、傘を差しかけていた。
「あなたの猫だったのですか」
彼は、小さく首を振った。雨に濡れるその姿は、ひどく頼りなげで危うい気がした。
――ああ、これは。どちらが猫だか。
濡れているその人と猫を、傘の中に招きいれ、俺は気がつけば尋ねていた。

「君の名前は」

「―― 薫」



おばけあじさいの木には、怪しい本当ともつかない噂がいろいろあった。
たとえば、かつてあのあたりで刃傷沙汰が起こり、殺された者の死体がその下に埋まっているだの。あの青い紫陽花の木の中にひとつだけ、血のような真っ赤な花をつけるものがあるだの。それは土の中の死体の血を吸い上げて、赤く染まっているだの等々。
すべては生徒たちがふざけて適当に言い出した、くだらない怪談話だ。あの紫陽花はどこかそんないわくがあってもおかしくないような不気味さがあったので、そんな怪談が沸きあがってくるのも無理からぬことではあった。
けれど、その紫陽花の前で出会った不思議な人については、俺は不思議と誰にも話そうとは思わなかった。

ある日の授業中。俺はぼんやりと窓の外を見ていた。
梅雨の半ばで、その日もまた雨がしとしとと降っていた。
窓からは、おばけあじさいがよく見えた。紫陽花の木は雨を吸って、ますます生き生きと青い花を咲かせているようだった。
(あれ・・・・・・?)
そのとき、俺は窓から見つけた。おばけあじさいの前に、また人影があるのを。
雨に濡れる黒髪、浴衣姿。あの人だった。身を乗り出して窓を覗き込んだが、こちらに背を向けるかの人の顔までは見えない。
「乾、どうしたの」
級友の不二が問いかけるのにも答えず、俺は立ち上がった。
「おい、乾。どうした!」
「すいません!」
先生の声も俺は無視して、教室から走り出た。手に傘を持って。


にゃーお

紫陽花の木に近づくと、猫の鳴き声が聞こえた。
やっぱり、彼だった。今日はその腕の中に、あのときの猫を抱いていた。
「・・・薫」
彼は、自分よりひとつふたつか下ほどの少年だった。だから俺は気安い調子でその名を呼んだ。
「また濡れているの」
薫は俺をちらりと見ると、どう答えていいものか分らないという表情を浮かべた。彼もまた、喋らない猫のようだった。
「傘も差さずに、風邪をひくよ。君の顔は病人のように真っ白だ」
「・・・・・・」
薫は答えず、かわりに猫がにゃあと鳴いた。
降り注ぐ雨は、だんだんと冷たく荒くなってきた。俺がその細い手を引くと、薫は案外素直に俺の腕に任せ、傘の中に入った。俺に対する警戒は解いていないようだったが、腕の中の猫がこれ以上濡れないようにという思いやりかもしれなかった。
「いつも、この紫陽花の木の前にいるね」
「・・・・・・」
「どうしてだい」
傘に降り落ちる雨の音が、パタパタと音を立てた。
俺のすぐ目の前で、薫の黒髪からぽたりとしずくが落ち、彼のあごを伝ってぴちゃんと落ちた。
「俺の名前は、乾貞治だ」
まるで脈絡もないことを、俺はまくし立てた。喋らない彼に代わって。
しばらく間が空いた。
それから、ぽつりと彼は言った。
「・・・紫陽花が、好きだから」
それは先の俺の問いに対する答えなんだと、気づくのに俺は少し時間がかかった。


校舎の裏の、なるべく雨の強く当たらないところに、俺は彼を連れて行った。
「・・・薫、お前は学校には行っていないの」
彼が中学の制服を着ていたことは一度もない。いつも着物姿だった。薫は、こくりとうなずいた。そのころはまだ今のように誰でもが中学に通えていたわけではなくて、小学校を出たら働き出す子供もたくさんいた。しかし薫は、そんな様子には見えなかった。彼の身なりも立ち居振る舞いも、裕福な家の出のように思えたからだ。ひょっとしたら、体がどこか悪くて学校に通えなかったのかもしれない。俺はそれ以上尋ねるのは止した。
猫は屋根の下に来ると、安心したようににゃあと鳴いた。薫はそれを見て、うっすらと微笑んだ。ぎこちない手で、彼は猫の頭ををなでる。猫は気持ちがよさそうに、ごろごろと甘えてのどを鳴らした。
「なついているね」
そう言うと、薫はびっくりしたように俺を見た。
「その猫は、お前のことが好きなんだよ。俺が触ろうとしたときは一目散に逃げられたんだ」
薫は居心地悪そうに、もじもじと体をよじった。猫が苦しそうに鳴く。見ると、薫の顔は赤く染まっていた。
「名前をつけてあげたらどうだい」
俺がそう言うと、急に彼は顔をこわばらせた。それまでの照れていたような表情が消えた。波が引くように、ふっとうつろな顔に戻ってしまう。
その変化を、俺はじっと見つめた。
「・・・駄目だ」
薫は、ぽつりと言った。
「死んだとき、辛くなる」

屋根の下にいるというに、彼はまだ雨に濡れているようだった。




「ただいま」
家に帰ると、部屋の電気は点いていなかった。
母はまたどこかに出かけているらしかった。俺は部屋にカバンを置くと、仏壇の前に座って手を合わせた。父と祖父の遺影に向けて。
仏間の欄間にもそれとは別に、軍服姿の父と祖父の写真が立てかけられている。父も祖父も軍人で、先の戦争で亡くなった。二人ともだ。今はこの家は、俺と母との二人だけになってしまった。
やがては俺も士官学校に入って、二人と同じ道を行くのだろう。
そしてこうして、いつか写真だけがこの家に飾られるのだろう。父や祖父の写真と並んで。

夕暮れになっても、雨はまだ降り続いていた。
あの子はどこへ帰るのだろうか。気になって仕方がなかった。


次の日も、俺はまた薫を見つけた。
最初はまさかと思った。ほんの少しの、もしかしたらという思いで窓を覗き込んだら、またもや彼はそこにいたのだ。おばけあじさいの前に。
薫はまた濡れていた。その姿を見て、俺はまた校舎を飛び出した。
そして次の日も同じように、また薫を見つけた。そして傘を持って紫陽花の前に走って行った。そのたびに、彼はずぶ濡れになりながらあの猫を抱いていた。あの猫はすっかり薫になついて離れないらしい。
薫は駆け寄ってくる俺を、少し驚いたような、さぞ変わったものでも目にしたかのような表情で見ていた。

「・・・乾、最近お前はおかしいぞ」
級友の手塚にしかめっ面で言われて、俺は首を傾げた。
「おかしいって、どこが?いたって普通だけど」
「やけにそわそわと落ち着かん。それに、心なしか浮かれているようだが。もう春はとっくに過ぎたぞ」
呆れたように言う手塚に、横から不二がやって来て、首を傾けた。
「手塚、それは違うよ。乾には今まさに春が来たんだよ、ね?」
「え・・・?」
予想だにせぬ不二の突飛な言葉に、俺は眼鏡の奥の目を丸くした。
「ボクたちに隠し事しようなんて無駄だよ、乾。このあいだの雨の日、キミ授業中に傘持って飛び出していったじゃない。外にどんな綺麗な人を見つけたんだい?」
「・・・なるほどたしかに、罰則も食らったのに沈んだ様子もないから、俺も不可解だとは思っていたが」
そういうことだったのか、と手塚に白い目を向けられて、俺は慌てて否定した。
「そんなんじゃないよ、誤解だ。あれは、ただ・・・」
「ただ?」
意地悪く不二が聞き返す。にこにこ笑いながら。
こいつら二人はきっと、俺がらしくもなく、どこぞの女に懸想してるとでも思っているんだろう。薫のことは誰にも言ってはいないものの、二人の誤解をそのままにしておくのも面白くない。
「・・・そう、猫がいたんだよ」
「猫?」
怪訝そうな二人に、俺はきっぱりと言った。
「おばけあじさいの前で、猫が雨に濡れてたんだ。それで、放っておけなくなっただけだよ」
嘘はついていないような気がした。
あの子はたしかに、雨の中の猫だ。


その日は一日曇りで、俺は少しだけ歯がゆい思いだった。
なんど窓から覗いても、紫陽花の木の前にあの子の姿はない。
今日は、来ないんだろうか。当たり前だ。いくら紫陽花が好きでも、毎日見に来るはずがない。けれど、胸にぽっかりと穴が開いたような感覚がする。
そう思っていたら、放課後になってぱらぱらと雨が降り出した。
「それじゃあお先に」
「ああ、また明日」
帰っていく手塚と不二を見送って、俺は復習だの何だかんだ言い訳をつけて、校舎に残っていた。教室にはもう誰も残っていない。
空を見上げれば灰色の雲がせまり、夜にかけても雨が降り続くことを予感させている。それが、かえって俺の心を浮き立たせた。
このまま雨が降りつづければ、そのうち薫がやってこないだろうか。

窓の木枠から身を乗り出して、おばけあじさいの方角を覗いた。我ながら諦めが悪いと、さすがに苦笑したくなる。けど俺は、気が付けば薫に会うのが楽しくなっていた。彼が来るのが、待ち遠しくなっていた。
(―― あ)
見つけた。薫がいた。おばけあじさいの前に。
また一人で、ぼんやりと紫陽花の木を見上げている。
俺は驚いて口をあんぐりと開けた。
不思議な子だ。まるで、雨が降り出したのを見計らったように現れた。
(そんなに、紫陽花が好きなのか)
あれほど大きな、立派な紫陽花の木だ。乾ははじめは他の生徒たちと同様、聳え立つあじさいの木を不気味に思っていたが、最近はそんな気持ちもなくなった。
薫が、あのあじさいを好きだというのだから。
そう思っているうちに、乾の足はすでに駆け足で教室を飛び出していた。

「・・・薫!」
息せきって現れた乾を見て、薫はちらりと顔を傾けた。それは、彼が乾を見た時にいつもする仕草だった。乾がこうして自分のもとに駆け寄ってくることに毎回驚いて、不思議そうに。あまり表情のない彼がわずかに目を見開くのも、乾はちゃんと見ていた。
「また傘を持っていないね・・・ああ、でも今日は昼間は降ってなかったもんな、夕方になってからいきなり降り出して・・・」
薫は何も言わず、すっと乾の傘の中に入った。少し驚きながらも、乾は嬉しかった。最初は傘を差しかけても、乾が手を引かないと入らなかったのに。
にゃあ。薫の腕の中から鳴き声がした。濡れた着物の間から、茶色い縞模様の猫がちょこんと顔を出している。
「お、お前もいたのか」
猫はごろごろと気持ち良さそうに、薫の腕の中で丸まっている。
「この猫、飼うことにしたのかい?」
薫はふるふると首を振った。どうやら猫は、このおばけあじさいの辺りに住み着いているらしかった。もともと野良猫だったのだが、これほど薫になついているのに少し不思議な気がした。
ちょんと突っつくと、猫はふん、と嫌そうに顔を背ける。
「つくづく、俺にはなつかないんだよな・・・」
乾ががっくりと肩を落とすと、くすりと笑い声が聞こえた。

驚いて顔を上げると、薫が微笑んでいた。はにかんだように、頬を染めて。
乾は思わず、瞬きするのも忘れて、その表情に見入った。
乾の視線に気付いた薫は、照れたように顔を背けた。けれど乾は、そんな薫の仕草一つ一つから目を離すことが出来なかった。
「薫・・・」
乾の声は、ほとんど呟きにしかならなかった。薫もまた、じっと乾のことを見返していた。
傘を持つ手に、汗がにじんだ。
雨はあがりかけていて、遠くの空に夕映えがにじんでいた。



梅雨の時期だから、雨はほとんど毎日のように降っている。
そして不思議と、雨の降る日は必ず、薫はおばけあじさいの前に現れた。
(―― 不思議な子だ)
けれど、そんなことはどうでもよかった。ただの偶然でたまたま雨の降る日に重なっているのか、それとも薫が意図してのことなのか、どちらでも構わない。
雨が降る日は、薫に会える。

「・・・乾。キミ、いつからあの紫陽花の木がそんなに好きになったの?」
「え? なんだよ不二、やぶから棒に」
「だって最近の乾、ずっとあの紫陽花を見てるよ?」
だって、薫がいつも現れるのはあの紫陽花の前だから。おれは黙って苦笑するより他なかった。この親友にも、薫のことは告げていなかった。なんら後ろめたいことがあるわけではない。けど、ただ何となく自分だけの秘密にしておきたかったのだ。
雨が降り出すと、俺はいつも窓からおばけあじさいを覗いていた。早く、早く薫が来ないかと。そして薫の姿を見つければ、それがいつだろうが、それこそ授業中だろうが俺はお構いなしだった。脱兎のごとく走って校庭に出るのだ。薫に会うために。

学校にいるときも、家で一人勉強をしているときも。
薫の顔がいつも、頭から離れなかった。






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