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そこは、真っ暗だった。辺りはずっと、宇宙空間みたいに一面の闇。目を開けているのか開けていないのかも分からないまま、真っ暗な中で、おれの体はふわふわと漂っていた。 無重力ってこういうことなんだろうか。そんなことを考える暇もなく、おれはただただその中で、その真っ暗な空間で、覚めることのない夢を見ていた。 ぱちり、と目蓋が開く。 急に明るくなった世界に、おれが面食らっていると。 目の前には、知らない人が二人、じっとおれを見下ろしている。 一人は白衣を着た男の人。もう一人は、俺と同い年くらいの女の子。 目を開けたおれに、女の子はホッと安心したように息をついていた。茶色の髪の毛がさらさらと揺れている、とても綺麗な子だった。 「おはよう」 目覚めたおれに、女の子はそう言って笑いかける。おれは何のことかも分からないまま、ぼんやりと女の子を見つめ返していた。 「君の名前はミズ。これからよろしくね」 ボクは周助、そう名乗った彼女は、にっこりと笑っておれの手を握った。それがおれの、最初の記憶。 自分は旦那様に造られたアンドロイドで、名前はミズ。おれは誰なの?と訪ねたおれに、二人が教えてくれたのはそれだけだった。 でも、全然困ることはなかったんだよ。普段の生活に必要な知識は、すべて最初から持っていたから。 言葉は周助たちと話しても遜色ないほどに話せたし、物の名前だって教えられなくても知ってた。何よりおれはずっとこの館で暮らし、ここから出ることはないのだから。特別な知識なんて何も必要なかったんだ。 お屋敷に住んでいたのは、おれを含めて四人。 旦那様と、周助と、おれが出来る前から一緒に暮らしているという手塚と。 おれを造ったという旦那様は、少し変わった人だったんだ。 周助の親父さんであるという旦那様は、なんとか工学という難しそうなことを研究している博士だったらしい。いつも白衣を着ては研究室にこもっていたよ。 自分を造ってくれた人なのにね、おれはその人のことが少し苦手だったんだ。白髪の混じった頭をオールバックに撫で付けて。ロマンスグレーっていうのかな、格好いい人だったよ。紳士的で穏やかで、いつも悠然と椅子に腰掛けてて。 それなのにおれは、ときおり旦那様が浮かべている微笑みを、とても怖いと思うことがあった。 ある日、周助が何か口答えをしたといって、旦那様が酷く怒ったことがあってね。 怒り狂って手を上げようとする旦那様を、おれと手塚が慌てて止めに入ったんだ。旦那様はすごい力で、実の娘の周助に対して何の容赦もなかった。周助は理由もなく旦那様を怒らせるようなやつじゃないから、話を聞いてあげてとおれは旦那様に取りすがって言ったんだ。 すると旦那様は、おれと周助を見比べて、顎を撫でながらにやりと笑った。 『なるほど、ミズがそう言うのならそうしよう。――周助、今晩私の寝室に来なさい』 旦那様は笑っていた。それはそれは楽しそうに。 そうまるで、子供が自分より小さい動物をいじめて遊んでいるような顔。その手の中から逃れようと、必死で暴れているのを楽しげに見ているような、そんな目で。 ぞくり、と背筋が冷えた。 その言葉を聞いて、周助は一瞬びくりと体をふるわせた。怯えきった表情で、それでも「はい」と答える。そんな周助を、手塚が苦渋を滲ませた顔でじっと見つめていた。 おれが旦那様を恐ろしいと感じるのは、こんなときだった。 それでもおれに出来ることは、どうか旦那様が手を上げたりしないようにと、周助がひどいお叱りを受けることがないようにと祈ることだけだった。 旦那様のことは、時折とても恐ろしかったけど。それでも周助はおれにすごく優しくて、お姉さんみたいに接してくれた。手塚もここから出たことのないおれに、外の話をたくさんしてくれた。 だからこのままずっと、4人で暮らしていくんだと思ってた。 「けれど、あの日」 ミズの瞳に、哀しみの色が宿る。大石の見守る中、ミズはふっと白百合に埋もれた墓標に目をやった。黒曜石の石柱が、にぶい光を放っていた。 ある夜のことだった。 『ミズ、今夜私の寝室に来なさい』 あのとき周助に投げられたのと同じ言葉が、おれに告げられた。 『はい・・・?』 食卓で唐突な話で、おれは驚いて旦那様を見返した。旦那様はいつものように悠然と微笑んでいる。 『別に叱ろうというわけじゃない。少しおまえに話があるだけだよ、いいね。今夜だ』 念を押され、不思議に思いながらも頷いた。 カシャン。 食堂に金属音が鳴り響いた。 『・・・すいません』 周助がスプーンを取り落としたのだ。その手がカタカタと震えていたのを、おれは見てしまった。 そして。夜が更けていく。 コンコン。 『入りなさい』 寝室の扉を開けると、寝巻き姿の旦那様がベッドに腰掛けていた。 口の端を歪めて笑いながら、旦那様は立ち上がっておれの手をとる。 『おいで・・・ミズ』 その後。何かとても怖いことがあった気がするのに。おれはなぜかまったく覚えていない。 すべてが終わった後で、誰かが部屋に入ってきた。背後からいくつもの声が聞こえたような気がする。怒鳴りつけるような声。何か激しく物が壊れる音。周助のものか手塚のものかは分からないけれど、誰かが叫んでいたような気がするのに。 それなのに、おれにそのときの記憶はない。 「え・・・?」 身を硬くして話の成り行きを聞いていた大石が、顔を上げる。 「・・・記憶が、ない、って?」 ミズはただじっと、博士の墓を見下ろしていた。 「おれ、記憶がないんだよ。旦那様の部屋で何があったのか、全然覚えてないんだ」 気が付いたらおれは、周助の部屋のベッドで寝かされていた。 『ミズ、大丈夫かい』 周助は奇妙に落ち着き払った顔で、おれの手をぎゅっと握り締める。その力の強さが妙に印象に残った。 『周助、どうして・・・旦那様は?』 周助は険しい顔で、諭すようにおれに告げた。 『ミズ。お父様はね、亡くなられたよ』 『ええっ・・・?!』 おれは飛び起きた。当然、納得なんて出来るわけがなかった。さっきまで、さっきまでおれは、旦那様の寝室に呼ばれて。 そうだ、寝巻き姿の旦那様がいて。ベッドに来るように、そう言われて、旦那様の手が、おれに触れて。 ・・・それから? 『ミズ』 不二の瞳が、おれを貫いた。 『君の頭の回路を少々いじったんだ。記憶を、消させてもらった』 次の朝には、庭園の片隅に墓が造られていた。 「ミズ、さん・・・」 ミズはふいっと大石から顔を逸らすと、墓石の上でたなびく白百合を一つ手に取った。風に揺れるそれを、悲しそうに見つめる。 「どうして旦那様が突然死んだのか、ついに周助も手塚も教えてくれなかった」 ふっ、とその一輪を手放す。パサリ、と黒い墓石に花が落ちた。 「ひょっとしたら、おれが・・・おれが旦那様を殺したのかもしれない。だから二人とも黙って」 「ミズさん!」 やめるんだ、と、大石はミズの肩をぐっと掴んだ。自分より一回りも小さい体を、抱え込むように自分のほうに向かせる。ミズはいやいやと抗って、両手で大石の体を押し返そうとする。 「じゃあどうして、周助はおれの記憶を消したんだよ!」 その声は涙声だった。大石はたまらない気持ちで、ミズの体を両腕で抱きしめる。 「誰にも言えなかったんだ、こんなこと」 震える声が、腕の中から聞こえた。なるべく優しく、これ以上どうしたら優しく出来るのかと思うほどに、大石はミズの体をぎゅっと囲い込む。 「周助にも、手塚にも。あの日、旦那様の部屋で何があったのか、聞くのが怖くて」 ミズを抱きしめながら、大石はふと空を見上げた。 ぼんやりと霞む空は、重苦しい灰色の雲が立ち込めている。森は相変わらず、霧に包まれたままで。 「こんなこと言えたのは、大石だけだよ。昨日だってそう。変だな、おれ。こんなふうに思えるの、大石が初めてだよ・・・」 大石はただじっと、何かを考え込むようにしながらミズの体を抱きしめていた。 ミズを部屋まで送りながら、大石は口を挟まずにじっと彼女の話を聞いていた。 「記憶って、不思議だね」 「記憶?」 「うん。おれはこの館から出たことないのに、時々知らない場所や、知らない人の夢を見ることがあるんだ。おれはその夢の中で、見たことない服着て、見たことない町を歩いてる。なんでか分からないけど兄ちゃんとか姉ちゃんもいるんだよ」 不思議だよね、と笑うミズに、大石はどこまでも真剣な顔だった。 「それにね、なんでか分かんないけど、おれは知らない名前で呼ばれてるんだ」 「なんて、名前・・・?」 「それが思い出せないんだけどね」 てへへ、とミズは頬をかいて笑う。 「すごく懐かしいような気持ちになる。変だけど、ひょっとしておれは昔、ミズじゃない別の誰かだったのかな、って思っちゃうんだ」 大石の足が、ぴたりと止まった。 二人はもう、ミズの部屋の前まで来ていた。 「大石・・・?」 「ミズさん」 大石の瞳が、まっすぐミズに向けられる。怖いくらい真剣な目。 そのまま歩み寄った大石は、ミズの耳元に口を近づけた。 「 」 「え・・・?」 大石はそのまま、くるりと背を向けて歩き出す。 ミズは放心したように、その場に立ち竦んだ。 何? なに、今の? カチャリとドアを開け、自室に入る。しかしその目は焦点が合わぬまま、ミズは混乱する頭を必死でなだめていた。 なに、今大石はなんて言った? なに、なに。なんだったの。足ががくがくと震えている。体の力が抜ける。目の前が、だんだん暗くなっていく。 大石は、大石は今、なんて。 『ミズさん、君は』 大石は。 『君は、英二なのか』 大石は、そうささやいて。 がっくりと、ミズはその場に崩れ落ちた。 えいじ、エイジ。 堰をきったように、頭の中に記憶が流れ込んでくる。 知らない記憶。覚えのない記憶。知らない町。知らない人たち。知らない自分。文字通り封印されてせき止められていたものが、怒涛のようにあふれ出す。 「・・・菊丸、英二」 そうだ、その名前は。 それは、それはおれの。 「なんで・・・誰、誰だよ、これ」 へたり込んだまま、ミズは呆然と呟いた。 「おれは、本当は誰なの・・・?」 コンコン。 ガチャリ。 ドアが開く。 何者かの影が、体にかかる。 ぼんやりと顔を上げると、不二がじっと自分を見下ろしている。 その顔に浮かぶ、微笑み。ミズはふっとそれがデジャブのような気がした。 「おいで、ミズ」 不二はその手を差し出して、にっこりと微笑んだ。 5 |