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二等辺三角形の定義:二つの辺の長さが等しい三角形。 (一辺だけが、違う長さの三角形) 思い出す。 あれは一年前。 その日は酷い雨だった。 重苦しい真っ黒の空。 心の奥底まで雨水が浸入してきそうな、土砂降りの雨。 「うげぇ〜、俺こんな中帰りたくねぇよ、チャリなのにっ」 「傘差しで帰りゃいいじゃんか」 「忘れたんだよ!雨ガッパ着るぐらいなら濡れた方がマシだぁ!」 クラスメートたちの喋り声を何となく聞き流しつつ、俺はぼんやりと窓の外を見ていた。 窓ガラスに叩きつけ見る間に流れ落ちる雫。嵐と呼んでもいいほどの豪雨。 聴覚を支配するザーザーと激しい雨音。 世界が洗い流されていく。 「いぬいーっ、何ボケてんだよ、帰ろーぜ」 「あっ・・・え?」 急に現実に引き戻された俺は、はっと真顔に返った。 「悪い、えっ、帰るって・・・?」 俺はクラスの連中と一緒に帰ったことはなかったのだ。毎日遅くまで部活があるどころか、テニス部は一番遅くまで残って練習する熱心な部活だったために。 手塚が部長になってからは、特に。 「だーかーら、この雨じゃ部活ないだろ?だからマックでも寄って雨宿りしてから行こうって今――」 「悪いな」 言いかけた友達の声を強引に遮る。 「俺部活出てくるよ、こんな雨でもミーティングとか室練とかあるかもしれないし」 嘘だ。 「マジで?!テニス部って本当にきついんだなー。頑張れよ〜」 級友の声に手を振りながら、俺はカバンを持って背を向ける。 「あー、そういえばテニス部ってさ」 後ろから、別の友人の声が聞こえた。 「6組の、あの天才不二の弟が、ついに退学したんだって?」 雨の日は苦手だ。特にこんな激しい雨の日は。 雨音が不快なノイズ音のように耳に響いて、気に障って仕方ない。 決して友人たちとの付き合いが嫌だったわけではないが、こんな雨の日は笑顔をつくるのも億劫だった。 ――練習があれば良かったのになぁ。 テニスをしているときは、きっと雨音も耳に入らないだろうに。 コートの上でボールを追っかけている瞬間、その間だけは無心になれる。 しかしこの雨では部活があるはずもなく、今日の部活は連絡黒板で確認するまでもなく、休みに間違いなかった。 乾は足に任せてぶらぶら歩くことにした。 この雨じゃ家に帰っても自主トレも出来ない。何より、傘を差して歩くのも億劫だ。 止むまでどこかで・・・。 そうして行き着いたのが、結局部室だった。 カバンを頭の上に乗せて、バシャバシャと水溜りを踏み越え、一気に部室の軒下まで走る。 ようやく濡れない屋根の下まで来て、乾はほっと息をついた。 職員室から借りてきた鍵を取り出し、扉を開けようとして乾はふと気が付く。 (話し声か・・・?) 電気の点いていない部室。 誰もいないはずのそこから、かすかに話し声がしている。 (先客か・・・?) おいおい、と乾は肩をすくめた。こんな雨の日に、自分のように浸りたいヤツが他にもいるのかと呆れた。 (いや、ひょっとしたら秘密会議かもしれないな) データマンの血が騒ぐ。乾はこっそり扉に耳を当てた。 (これは・・・) 聞いているうちに、予感は確信へと変わる。 (手塚と・・・不二の声だ・・・) ぼそぼそと中から聞こえる声は、確かにあの二人のものだった。 「・・・おいおい、またこのパターンか」 前にもこんなことがあったのを思い出す。あれは一年のときだったか。 あのときも、ある意味秘密のお話中にうっかり窓から覗いてしまって、二人に見つかってしまったんだった。 ――もっとも、あれを機にあいつらと親しくなったのだが。 さてどうするか、帰ろうかと一瞬扉から耳を離して悩む。 あの二人はいまやテニス部のNO.1とNO.2。三年の先輩など相手にならず、最近では他校にも名の知れた実力者だ。 正直自分も、いつか打ち負かしてやると心に誓い日々データを採っている。 しかし、いまだ自分と彼らの実力の間にはどうしようもない差が存在していた。 天才には敵わない、そんな言葉だけは吐きたくなくて、毎日必死でデータを取って練習して、あいつらを追いかけてきた。 そんな負けん気が作用したのかもしれない。 乾はまた窓から、今度は一年前のように気付かれないように、こっそりと中を覗き込んだ。 乾の予想と反し、別に二人は秘密特訓をしていたわけでも内緒の語らいをしていたわけでもなさそうだった。 手塚も不二も学生服のままで、何かを話しているようだ。手塚は腕組みしてロッカーに背を預け、不二はベンチに腰掛けて、実にいつも通りの光景。 しかし乾は、一目で違和感を感じた。 違和感の正体、唯一おかしかったのは、彼らの“目“だった。 (・・・なんだ、あれは) 二人は一定の距離を保っていた。話の内容までは聞こえないが、声を荒げる事もなく淡々とした口調を保っている。 それなのに。 (どうしたんだ、あいつら・・・) 乾は混乱した。 手塚も、不二も。 お互いにしっかりと向けられているその瞳には、確かな憎しみが宿っていた。 (どうして・・・?) あいつらは、仲は良かったはずだ。 ダブルスペアを組んでいる大石と菊丸ほどではないにしろ、実力者同士お互いに通じ合う空気があることを、乾だけでなく周囲も共通の認識として持っていた。 ベタベタと馴れ合う関係ではなかったし、二人ともいたってクールな性格だったが。 それでも、シングルスで二人が対戦するときは、いつも瞳に嬉しそうな光が宿っていた。 ずっと追いかけていた自分だからこそ、分かるのだ。 バンッ! 不二が思い切り壁を殴る。振動がこちらまで伝わってきそうで、乾は一瞬びくついた。 あの不二が、男から見ても綺麗な顔を歪ませて、激しい口調で手塚に何かを罵っている。 こんな荒れた不二は初めて見た。 俺はこのときまだ、不二に微笑みの奥に秘めた激情があることすら知らなかった。 『おとうと』 手塚の唇が、そう発音したように乾には読めた。途端不二の顔がまた激しくきつくなる。 あのことか、とやっと二人の険悪な空気の理由に察しがついた。『6組の、あの天才不二の弟が、ついに退学したんだって?』という級友の声が脳裏によみがえる。 すぐ昨日のことだ。そのせいで今朝から学校ではその話題で持ちきりだった。校内で知らないものはいない、不二とその弟との間の確執。そこに手塚は触れたのか? ――でも、それじゃなんで、手塚まであんなに怒ってるんだ? いつも冷静な手塚の瞳に、激しく燃え上がる青白い怒りの炎があった。 不二が嘲笑いながら何かを吐き捨てた。手塚の左腕を指差している。不二が何を言ったのかはここからは分からない。俺はこのとき、不二の示唆した事など知りようはずもなかったのだ。 しかし不二のそ言葉に、また手塚の眉間に深い皺が刻まれた。 ―― 一体どうしたって言うんだ?あの二人が・・・ ただひたすら心の中で疑問符を浮かべて、乾はこそこそと成り行きを見守るより他なく。 やがて、窓の向こう側の激しい言い争いの中で、変化がおきた。 それから先は、まるで無音映画のようだった。 こちらにはまるで音声が聞こえない中、手塚が何かを口にした。 決定的な言葉だったようだ、不二が怒り狂って手塚に掴みかかる。殴りつけようと腕を振り上げる。 手塚はなぜか抵抗せず、受け入れるように不二に引き倒された。そのままロッカーにもたれるように座り込む。不二が馬乗りになって、手塚を殴りつけようと何度も腕を振り回す。 不二は泣いていた。 俺には、まずそのことが信じられなかった。人前であんなに、癇癪を起こした子どものように混乱して泣き出す不二など、俺には信じられなかった。 やがて、振り回していた腕を、不二は力なく降ろす。 手塚が左腕を持ち上げて、不二の頬を伝い落ちる涙を優しく拭った。 二人の瞳にはもう、憎しみの炎はなかった。 深い慈しみの色のみ。 見なければ良かった、乾は後で死ぬほど後悔する。 やがて二つの影は折り重なった。吸い寄せられるように、不二は手塚に、手塚は不二に口付けた。 「・・・はっ」 気が抜けたように、俺はその場に座り込んだ。 (何だ、あれ・・・) あんな手塚の顔は見たことがない。あんな不二の顔も見たことがない。 俺の知らない二人だ。 (付き合ってたのか・・・?あいつら・・・) 『乾は、目撃者だから』 あれはいつだったか、不二にそんなことを言われたのは。 「・・・何だってこんな場面ばっか目撃するかな、俺も」 脱力のあまり、その場に崩れ落ちて倒れこみそうになる。 土砂降りの雨の激しい雨音だけが唯一俺を現実に引き戻す。いや、瞑想の世界かもしれない。よく分からない。目の前が暗い。これは現実か。 軒下に座り込んだまま、俺は空を見上げた。 真っ黒い雲から、以前激しく雨が降り続ける。 (・・・空が、泣いてるみたいだ) こんなことは初めて思った。今まで雨の日にこんなことを感じた事はなかった。 雨は、嫌いだ。 いつもいつも、雨音を避けるようにしてきた。降りしきる雨音が怖くて、子どもの頃は眠れずに布団の中で震えた夜もあった。 自分が産まれたのは梅雨の時期の雨の降る夜だったという。そんな夜、抱きとめてくれる人は誰もいなくて、耳の奥底まで五月蝿く深く洗脳されそうな雨音は、憎しみと恐怖の対象だった。 雨の日は、いつも憂鬱だった。 そんな自分が、こんな気持ちで雨降りを見上げる日が来るなんて。 乾はいつの間にか泣いていた。 理由も分からないまま、頬を涙が伝っていた。 (・・・なんだろう) なんなんだろう、この胸をギリギリと締め付ける感情は。 壁越しに手塚と不二が睦みあっている、そんな状況下で自分は何をしているんだろう。 「・・・っ、く・・・うっ」 それでも涙は止まらずに、乾はずっと軒下に座り込んで降りしきる雨を見上げていた。 ずっと目標にしてきた二人が。思い合い好き合っていた。たったそれだけのことで。 自分はどんな気持ちで二人を追いかけてきたのだろう、もうそれすらもよく見えない。 涙で滲んで、雨で流されて、もう自分の心さえ見えない。 それでも自分は、このときに失ったのだ。 手塚と不二の、両方を。 「・・・乾」 カサついた自分の唇に触れている部分、不二の柔らかい唇が音をつむぐ。 (ああ、そうか・・・) 不二にキスしてたんだっけ。 いっそ清々しいほど、何の感慨も沸いてこなかった。 「・・・違うだろ、乾」 不二の顔には、何の感情も浮かんでいなかった。 憎悪も、羞恥も、俺の予想していたものは何も浮かんでいない。 「相手が違うだろ」 不二の言葉は、爆弾だった。 「君は、手塚が好きなんだよ」 ひどく冷めた口調に俺が訝しんだ途端、背後から影が伸びているのに気付く。 直後、振り返りざまに左ストレートを喰らって俺は床に倒れこんだ。 怒りに肩を震わせる、手塚が立っていた。 手塚は何も言わなかった。そして俺も、何も言う言葉が思いつかなかった。 |