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昼下がり。 「手塚・・・?」 ベッドに横たわって、琥珀色の瞳を向けてくる相手に。 自制心のたがが外れた。 「ちょっ・・・待って、ここ学校!」 驚いたような不二の声も耳に届かないのか、覆いかぶさってくる手塚の腕は頑として外れなかった。 恋人がのしかかってくるなど普段なら歓迎するが、いつ人が来るかも分からない保健室ではさすがにまずい。 不二は体をねじって逃れようとするが、ただでさえ体格の差がある挙句横になっているために、あっさり両腕をとられベッドに縫い付けられてしまう。 「て、手塚ってば!何いきなりその気になってんの・・・!」 「黙っていろ」 口をふさがれウェアのボタンに手がかけられ、もう観念するしかないのかと不二が思ったとき。 「コラ」 背後から、やけにのんきな声がした。 我を忘れていた手塚も思わず振り返る。 「乾・・・」 「馬に蹴られたくはないけどね、同意なしは良くない」 184センチの長身男は、手にしていたノートでぽすっと手塚の頭を叩いた。 強制連行で、乾は手塚を引っ張って保健室から連れ出す。 「お前ね、送り狼になってどうする。仮にも相手は病人だぞ?」 元はといえば、練習中に貧血で倒れた不二を手塚が保健室まで連れて行ったのだ。貧血自体はごくごく軽いもので、不二も意識ははっきりしていた。しかし、ベッドに寝かせてから豹変したのは手塚である。 いきなり不二に、早い話が襲いかかって、乾に止められた。乾は飄々としているが、内心手塚の意外な姿に少なくない衝撃を受けていた。目撃したのが彼以外ならどんな惨事になっていたか、想像するのも恐ろしい。 「部長が不二先輩を送ったままなかなか帰って来ない、って一年生が心配しだしたからさ、代表して様子を見に来たんだよ。俺で良かったな、後輩が見たら手塚部長の権威は地に落ちてたぞ」 軽口を叩いてから、返事が返ってこないので隣の手塚を見る。 無言で恥じ入っているか、青筋立てて怒っているかのどちらかと思ったのだが。 手塚の顔に浮かんでいるのは、明らかな後悔、そして自己嫌悪の表情だった。 乾はため息をついて、もう一度ノートで手塚の頭を叩いた。 普段ならこれだけでも憮然とされるところなのに、完全な無反応をもって返される。 「・・・何か、行き詰ってるのか?」 自嘲するように口角を上げる手塚の表情を、乾は初めて目にした。 周囲が抱いている「完全無欠の手塚部長」は、あくまで「そうあってほしい」という幻想なのだ。いつしかそれが「そうあるべき」「そうあって当然」に姿を変えて、年の割にしっかりしすぎていた彼の双肩にのしかかった。しかもなまじっか期待に応えられるために、傍から見ていて随分損をさせられているなと思うこともある。 常人以上の才能と大人びた外見、そして努力を表に出さないストイックさが、周囲の期待を再現なく助長させてしまった。それを哀れだというのは彼に失礼だから、口に出した事はないが。 上っ面しか見ない周りの大人にも、年の近い者たちにすら過剰な期待と要求をされ、作られた虚像に勝手に憧れられ時にやっかまれ、「違う世界の人間」と線を引かれる。 辛くないのか、と尋ねたことはないけれど。きっと彼でも疲れることもあるだろう、と。 そんなことを思いながら、乾は手塚を引きずって屋上まで連れて行った。 「なんで屋上なんだ・・・」 多少自分を取り戻したのだろう、手塚は眉間に皺を寄せて言う。 「サボリは屋上と相場は決まってるんだよ。お前は少し休んだほうがいい」 「・・・どうしてだ」 「お前だって疲れることはあるさ、ここなら後輩の目もないんだから思う存分休息をとりなさい」 「別にそんなことはない」 「『行き詰ってるのか』って聞いたとき否定しなかったじゃないか」 「確かに行き詰ってはいる。だが、そういうことではないんだ」 手塚は何かを思い当たったように表情を緩めた。彼の珍しい顔に、乾のほうが驚く。 「乾、お前は・・・いやお前だけじゃないな、大石もそんなところがある。いちいち俺に対して同情的だな」 「は?」 「お前たちに気を使われるほど、俺は無理をしているつもりはないぞ」 「それは・・・」 「部のことについてではない。自分を偽っていない、という意味だ」 とっさにその意味を掴めないでいると、またもや彼らしくもなく苦笑を浮かべられる。 「お前たちが思っているよりも、俺はありのままに生きているつもりだが?」 大空を背にした手塚に、不覚にも乾は何の言葉も返せなかった。 場所は保健室に戻る。 屋上からその足で練習に戻ろうとした手塚にとっさに言い訳して、こっそり乾は保健室に舞い戻った。 「手塚研究第一人者の不二先生、この言葉の意味分かる?」 屋上であの手塚が言った言葉の意味をどうにも分かりかねたが、手塚がそれ以上語ることはなかった。 そして分からないことをそのままにしておけない乾は、不二のところを訪れたのだ。 「なるほどね」 大分顔色のよくなった不二はベッドに腰掛けて頷いた。 「そりゃ乾、キミの思考を読まれたんだよ」 にっこり笑って言う不二に、合点がいかない乾は顔でそれを訴える。 「手塚はキミが思ってるほど繊細な神経を持ち合わせてないの。周りの期待が重いとか、虚像の自分と現実の自分のギャップが辛いとか、後輩の前では完璧な手塚部長でいたいとか、そんなこと考えてないんだよ」 不二はおかしそうにくすくす笑っていた。 「手塚のこと、可哀想だと思ってたならまだまだ認識が甘いよ。あいつは根っからの天才肌で、あれで素なんだから」 不二はふと、遠くを懐かしむような目をした。 「真面目で優しい人ほど、周囲の期待に一生懸命になって応えようとしたり、辛い事を表に出さずに一人で抱え込んだりして、疲れたりもするんだろうね。けど、多分手塚はとっくにそんなことを乗り越えてるんだ」 「天才」と呼ばれる目の前の彼は、己の気持ちも込めて語っているのかもしれない。 「『完全無欠の手塚部長』で在り続けるなんて無理だって、手塚は早々に開き直ったんだよ。勝手に期待されるのにも失望されるのにも干渉せずに、ありのままでいようって」 「それで、アレ・・・?」 「言ったでしょ、あれで『素』なんだよ、手塚は」 計り知れない。 「俺に言わせてもらえば、『無理をしているつもりがない』で『完全無欠』だと思わせられるのは充分常人じゃないぞ」 「本人は自分を完璧だとは思ってない。完璧であろうともしてないの。それでも完璧に見られる要素だらけだから、もうどうしようもないよね」 とんとん、と乾はノートで首の後ろを叩くと、ふぅと息を吐く。 「本当にお前らは、研究のし甲斐があるな」 あるがままの姿の自分を受け入れ、そのままで生きるということを、実際のところ出来る人間がどれほどいるのか。 手塚の強さはそのまま、心の強さなのかもしれない。 「そういえば忘れてたけど、手塚は何を行き詰ってんだろ?お前を襲ったくらいなんだから何か悩んでたんだろ?」 自分が考えていた事はまったくの的外れだったようだから。 「さあ、そればっかりはボクも分からないね」 明らかに嘘と分かる笑顔で、不二は笑ってみせた。 それから一年と経たず、青学の部員たちは、手塚がコートに膝をつく姿を見ることとなる。 入学以来負けなしの経歴に傷がつき、挙句腕を負傷し戦線から離脱する彼に、失望の声が投げかけられなかったわけではない。 『完全無欠』が崩壊する瞬間、乾はようやく分かった気がした。 彼はただ、どこまでも己の心に率直であったということを。 |