『もうすぐ、俺も引退だね・・・』

あのとき、夕暮れのもとで少しだけ寂しそうに言った、あの人の台詞が忘れられない。

「乾先輩・・・」


初めて出会ったのは、テニス部に入部したときだった。他人に特別興味のない海堂も、当時のレギュラーの顔だけは舐めるように見た。
当時副部長だった手塚、不二、そして・・・野暮ったい眼鏡をかけた、ひときわ高身長の男。

それでも、そのときの彼はあくまで「レギュラーの一人」でしかなかった。乾を直接意識したのは、入部して初めてのランキング戦だ。
一年生だった自分は出ることが出来ず、少し歯がゆい思いをしながら観戦していたあのランキング戦。
(見てやがれ・・・)
九月になったら、俺が全員ブッ倒してやる。
心の中でそう誓いながら、海堂はフェンス越しに先輩の試合を見ていた。
その誓いが、急速に勢いを失っていくのは、それからすぐのことだ。

「なに・・・?」
手塚副部長、不二先輩。
彼らの強さは、際立っていた。一つしか年が変わらないとは到底思えないほどに。
中学生における一年の差は大きい。そうだとしても、その実力には舌を巻かずにいられなかった。
「すごい、これが青学テニス部なんだ・・・!」
「天才だよ、この人たち!」
隣では同輩たちが、呑気にきゃいきゃいと歓声を上げている。しかし海堂は、到底そんな気にはなれなかった。

こいつらは考えていないのだろうか。九月には自分たちもこの中に入るのだ。
そのとき、自分は。
(―― 勝てるか?・・・この人たちに)
初めて、自信というものが揺らいだ。しかしそれは、決して悪い意味ではなかった。
(絶対に、強くなってやる・・・この人たちに、勝ってみせる!)
不屈といわれる、海堂の闘志に火がついた。まさにそのきっかけが、このランキング戦だった。

「・・・ストレートの確率、75%ですよ。先輩」

(何・・・?!)

突然耳に飛び込んできた声に、意表を突かれた。
乾のデータテニス。初めてその目で見た、瞬間だった。





「・・・海堂、どうしたんだい?」
「え・・・」
はっと気がつくと、目の前に不二が覗き込んできた。
「君らしくないね、そんなにボーっとしてるなんて。何か考え事?」
「い、いや・・・!何でもないっス」

柄でもなく、乾先輩のことを考えていた。しかしそんなことを言えるはずもなく、海堂は押し黙って顔を伏せる。
少し離れた位置では、桃城とリョーマが怪訝な顔をしていた。

「どーもおかしいな、マムシのやつ」
「・・・乾先輩の名前が出てから、あんな調子っスね」
「あ! そういえば・・・」
何かを思いついたように、桃城が顎に手をやった。
「どうしたんスか?桃先輩」
「いや。そういや先週、先輩方が引退したとき・・・」

八月の終わり。
全国大会の全日程を終え、三年生の最後の夏は終わりを告げた。
先週の部活では部長副部長の役職の引継ぎを行い、三年生たちはロッカーから私物を持ち帰った。ネームプレートも外してしまった。
大方の三年生はそのまま高等部へ進むから、また顔を出すこともある。しかし三年生たちは、これもけじめだというように自分たちの痕跡を消していった。

テニス部そのものを、引き継ぐように。

「あのとき、ちょっと乾先輩と海堂の様子が変だったんだよな・・・何つーかお互い目を合わさないっていうか、空気が気まずいというか」
「・・・あの二人、仲良かったでしょ」
「そうなんだよ。これで引退なんだから、最後はもっと色々・・・」

そのとき、凛とした不二の声が響き渡った。

「着いたよ。四つ目の不思議」

そこは、視聴覚室だった。


四つ目の不思議。
深夜、視聴覚室にいると、スピーカーから死者のうめき声が聞こえてくる。



「あ、俺この話は知ってますよ?」
桃城が明るい声を出した。
「スピーカーから死んだ教師の声が聞こえてくるんでしょ?」
「死んだ教師?」
「おう、何でも急に心臓発作になった教師が、放送室から助けを求めて放送したとかって。けどその声は結局誰にも届かずに、教師はとうとう・・・」


桃城とリョーマが語り合っている中で、海堂は輪から外れて窓にもたれかかった。
ドク、ドク、と心臓が脈拍を刻む。
なぜだろう、激しく締め付けられるような痛みが襲った。
(乾先輩・・・)

あれは、引退を間近に控えた日。
オレンジ色の夕暮れの下で、乾先輩はいつものように飄々としながら。
『俺ももうすぐ、引退かあ・・・』
はあ、とか、そうスかとか何かしらの返事はしたと思うが、なんと答えたかは覚えていない。
すると先輩は、なぜか少しだけ寂しそうな表情をした。
『俺がいなくなったら、海堂はどうする・・・?』
『・・・は?』
何を言い出すんだろう、と思った。
この先輩のことはとても尊敬しているし、ダブルスを組む中で成長もさせてもらった。
データテニスだけじゃない。何気ない癖とか、好きなものとか。以外に子供っぽい一面とか、抜けているところとか。 些細なことまで、分かったことはたくさんあった。先輩について知っていることが、どんどん増えていくのが嬉しかった。

『俺がいなくなったら、海堂はどう思う・・・?』
まるで、先輩がいなくなっても大丈夫なのか、と聞かれたような気がして。
引退を控えて、お前たちだけじゃ頼りないなと言われたような気がして。

『馬鹿にしないで下さい。アンタがいなくたって平気っスよ』

そのとき、どうして先輩が悲しそうな顔をしたのか。
自分には結局分からないままで。

(分からねえ・・・乾先輩が考えてることが・・・)


「・・・で、教師の無念が残り、深夜のスピーカーから死ぬ間際の教師の声が聞こえて来るんだとよ」
「へーえ」

桃城たちの話が終わったらしい。
急に、辺りにしんとした静寂が訪れた。
はたと気付いた海堂が周りを見回すと、不二の姿が消えていた。一体、いつの間に出て行ってしまったのか。

(無念、か・・・)

たかが怪談話なのに。妙に海堂には他人事に思えなくなってしまった。
(乾先輩・・・)
今なら、もう一度問い直すことも出来るのに。引退した先輩は、あれ以来サッパリ部活に顔を出さなくなってしまった。
何度も三年の教室に足を運んでみた。しかしいつも示し合わせたように乾はおらず、避けられているのだろうかと悪い考えばかりが頭に浮かぶ。

(俺、何かしたんだろうか・・・)

「海堂、お前本当にどうし・・・」
「桃先輩」
くいっとすそを引っ張られ、桃城はつんのめった。
「何すんだよ!」
「放っておいてあげましょうよ。当人同士にしか分からないことがあるんですって」
気味悪そうな視線が向けられて、リョーマが顔をしかめた。
「・・・なんすか」
「お前も成長したなあ・・・」


奇妙な沈黙が訪れた。
しんとした夜更け。時刻は刻一刻と過ぎていく。
そのときだった。
視聴覚室のスピーカーが、突然音を立て始めた。

『ガ・・・、ガガガ・・・ッ』

「な、なんだ?!」

『ガガ・・・か、かか・・い・・ガガッ』

スピーカーには激しいノイズ音が混じっていた。
男の声がしているのだが、よく聞き取れない。

『ガッガガガ・・・・あい・・・あいら・・・』

「なんだ、なんて言ってるんだ?」
「これが死に際の最期の言葉ってやつっスか?」

「・・・いや、違う」

「海堂?!」
思いつめた表情の海堂が、そこに立っていた。
「この声・・・俺が聞き間違えるはずがねえ」
「か、海堂・・・」

『ガガガッ・・・あい、あいら・・・かいっ・・・ガリガリッ』

「乾先輩っ!!」
「ええ―――っ?!」
もはや桃城たちの叫びなどどこ吹く風。
海堂の耳には、スピーカーの声しか聞こえていなかった。
「先輩!どうしたんですか、何か言い残したことがあるんですか?!」
「海堂先輩、まだ乾先輩死んでませんて」

『ガガッ・・・海堂・・・』
「先輩っ?!」
『ガリガリッ・・・I Love You・・・』



「・・・ちょっと待て」
桃城は地を這うような声でツッコんだ。
「え・・・?!そんな、先輩っ・・・」
海堂がパッと口を押さえた。
「赤面してんじゃねー俺のライバルー!」
『・・・今だけは、悲しい歌聞きたくないよ・・・ガガッ』
「先輩・・・」
「感動してんじゃねー!!」
「桃先輩、無駄ですって・・・」

なんだかよく分からないまま、乾の告白は始まった。

『ガガッ・・・海堂、あの夕暮れの日言ったね、俺がいなくても君は平気だって』
「先輩!違うんです、俺は・・・」
『ふっ、強気な君のことだ。きっと・・・ガガッ・・・だと思っていたよ。俺なんかただの先輩にしか過ぎなかっ・・・ガガガッ』
「そ、そんな!聞いてください先輩!俺は、俺はそんなつもりじゃ・・・!」
『君にしてみれば、俺なんかただの汁だけの男。けれど、俺にとっての君は違った。君のことが・・・ガガガッ』
「先輩、先輩―!」

なんという悲劇。
かすれたスピーカーの声は、乾の気持ちを一歩的に告げるのみ。
誤解を解こうとする海堂の必死の叫びは、乾には届かないのである。おそらく二階の放送室にいるから。

『ガッ、ガガガッ・・・ガガッ!』

「桃先輩・・・スピーカーの音が」
「駄目だ、ノイズが酷くて何を言ってるのか・・・」
海堂の手足はぶるぶると震えた。
先輩、先輩。
伝えたいことが山ほどあるのに。とかなければいけない誤解がたくさんあるのに。

ひとかけらだって伝えられないなんて。

「先輩っ、俺は・・・!」
「海堂!」
海堂は叫んだ。
視聴覚室の中心で乾への思いを叫んだ。
「違うんです、俺があの時本当に言いたかったことは違う。先輩が引退するとき、本当は・・・!」

『ガ、ガガガッ・・・ガリガリガリ!』

「『寂しい』って、言いたかったんです!」

『ガガガ・・・ガリガリ、かい・・・かいど・・・』

「あ、音が戻った!」
「本当だ!」

『海堂・・・ガガッ・・・分かっているよ。君は・・ガガガッ・・照れ屋で、ぶっきらぼうで・・・でもとても真面目で・・ガガッ・・優しくて』
「先輩・・・」
『君が俺を心配させないために・・ガガガッ・・と言ったんだって、ちゃんと分かってるよ・・・ガガッ』
「先輩・・・!」
『ガリガリ・・・れば、これからも君にとって良き先輩でありたい。ずっと君と・・・ガッ、ガガガッ』
「はい、はい、先輩・・・!」
『来年、高等部でまた一緒に・・・ガガッ、ガリガリッ』
「乾先輩・・・!」

壊れかかったスピーカー。
一方通行のその言葉は、最後まで綴られることはなく、語尾はノイズによってかき消されてしまった。

しかし、放送室からの不器用なメッセージは。
「先輩・・・」
ちゃんと、相手に伝わったようである。

「海堂・・・泣くなよ」
「うるせえ・・・」
桃城はポケットから、くしゃくしゃのハンカチを取り出した。
「いつかのバンダナのお返しだ」
「・・・バカ、いらねえよそんなハンカチ」
「けっ、まったく・・・可愛くねえな」




「・・・いい加減突っ込みたいんですけど、これのどこが怪談なんスか?」

そんなリョーマの突っ込みはさておき。
こうして四つ目の不思議も、無事幕を閉じたのである。



「海堂・・・良かったね」
「不二先輩・・・」
「ノイズ音に邪魔されながらも、たしかに伝わったメッセージ・・・ボクも感動したよ」
二人の間で交わされている会話には、なにやら微妙な乙女ムードが漂っていたという。
ようやく冷静になってきた桃城と越前は、ますますどっと押し寄せてくる疲れに肩を落としたのだった。
「桃先輩・・・たしかこれで四つ目っスよね」
「・・・ああ」
「だとしたら、おかしくないっスか?後残すところは手塚部長、いや先輩だけでしょ。人数が足りませんよ?」
「あ!」

ふふふ、と不二が妖しく笑う。

「それは、見てのお楽しみ」

次に待ち受けるのは元部長・手塚国光なのか。
何やら謎を残して、さらに次回へ続く。





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