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ザーザーと雨が降り出した雨は、止みそうもない。 梅雨時らしい、湿気を含んだ臭いが鼻についた。 「本格的に降り出したなあ・・・」 大石の困ったような声が聞こえてきた。 部員たちは体育館に避難している。半面を使わせてもらって、自主トレを始めた。 体育館のオレンジ色の灯の下で、部員たちは各々走ったり素振りをしたり。キュッキュッとシューズの床を踏みしめる音が耳につく。 お世辞にも広いとはいえないスペースだったため、ボクは早々に壁際に移動していた。レギュラーのボクがサボるわけにはいかないのだが、何となく気分が乗らない。 窓から覗く灰色の空を、ボクは恨みがましい気持ちで見上げた。 雨さえ降り出さなければ、もっと手塚のプレイを見ることが出来たのに。 (あーあ・・・) やる気がなくなって、壁にもたれていた背中がずるずると落ちた。膝を抱えて座り込む。 ぐるりと辺りを見回したけど、手塚の姿はなかった。中断されたとはいえ、ミニゲームをしたばかりだから、どこかで汗でも拭いてるんだろうか。もし体育館に来てたら、軽くお手合わせ願いたかったのに。 (ヤバいなあ・・・) 打ってみたいと思った。彼と。 きっとこれまでとは、全然違うスリルが味わえる。 考えただけでゾクゾクしてきそうだ。 見とれるくらい、綺麗なテニス。 あれをもう一度、今度は同じコートの上で見たい。彼の打球を受けてみたい。 そうしていると、ふっと頭上に影が出来た。 「不二、隣いいかな?」 そこに立っていたのは、爽やかな微笑みを浮かべている大石。 突然の登場に少し驚いた。けれど、練習をサボっていたボクを咎めようという様子ではない。大石は隣に腰を下ろした。 「どうしたのさ、大石」 「いや、ちょっと話がしたかったんだ」 大石は、すっと表情を引き締めた。 「不二、単刀直入に聞く。手塚と何があったんだ」 「大石・・・」 「副部長として聞いてるんだ。お前たちが妙な雰囲気のままだと、部活にも差し障りが出る。分かるよな?」 「差し障りって、ちょっと大げさすぎない?」 「へえ、不二にしちゃ珍しいな。お前が思うよりずっと、周囲はお前たちがおかしいことにに気付いてるよ」 そこまで言われると、ぐうの音も出ない。そんな空気に気付かないほど、鈍くはないつもりだったのに。ボクも手塚も、そんなにお互いのことしか見えていなかったのだろうか? すると大石は表情を和らげて、困った顔で笑った。 「これが桃と海堂なら、俺も放っとくんだけどな。お前たちのケンカなんて珍しいから、正直こっちは胃に穴が開きそうだ」 「・・・ケンカっていうほど、大したことじゃないんだ」 「手塚、今朝はずっと機嫌が悪かったぞ。お前のことを聞いても答えないし。あんな手塚は初めて見た」 「ごめん・・・心配、させてるね」 「いいや。俺のほうこそ、おせっかいで悪いな」 副部長としての苦言だけなら、『以後改めてくれ』だけでいい。『何があった』と訊いてくれるのは、解決に導いてやりたいという彼の友人としての気持ちの表れだ。純粋に申し訳なく思う。 「・・・ごめん、大石。ケンカしてるわけじゃないんだ。ただ少し気まずくなってるだけだから、きっとすぐに元に戻れると思う」 最後のところは希望的観測だ。 けれど大石は、その場は納得してくれたらしい。分かった、と頷いた。 それで話は終わりかと思った。ところが大石は、思わぬことを話し始めた。 「不二はたしか、俺たちより入部が遅かったよな?」 「うん、仮入部期間ぎりぎりに入ったから・・・」 「一年の頃、まだ入部したばかりの頃だったな・・・ある時、俺は手塚にこう言われたんだ」 『俺たちの代では絶対に 青学を全国へ導いてやろうぜ』 全国。 「手塚が・・・?」 「ああ。俺も最初は、まさかと思ったよ」 その時代の青学は名門の名とは裏腹に、数年来の低迷期にあった。関東に進むことすら、叶わなかったのだ。 大石は天を仰いで、苦笑しながら言った。 「最初は本気にしてなかったよ。そんなこと、夢みたいな話だって」 けれど、青学は着実に力を付けていった。 手塚、不二、乾は青学の三強として。大石、菊丸はダブルスの要として。 桃城や海堂が力をつけ、そこに河村が加わり。 そして今年は、あの一年生ルーキーが入ってきた。 「・・・そのときから俺にも、ようやく手塚の言う“全国”が見えるようになってきたんだ」 希望が、力が湧いてくる。 もうじき六月期のランキング戦だ。乾はレギュラー復帰を狙って着々と準備を進めているだろう。青学の何より怖いところは足元をすくう味方の脅威。次期レギュラーがどうなるかは誰にも予想がつかない。 けれど、そんな仲間に囲まれているからこそ、青学は強くなった。勝ち残ることで、選ばれた者のユニフォームを身にまとい、他校の選手達と闘って来た。 青学の選手として。 全国へ行くために、全国で勝つために。 ランキング戦が終われば、関東大会だ。昨年は惜敗した氷帝とも当たることになるだろう。けれど、自分たちはもうかつての弱小ではない。 強くなったのだ。この三年間で。たとえ氷帝が相手でも、もう恐れることはない。 「今」なら、きっと行ける。今の自分たちなら、あの夢まできっと届く。 「全国は、もう夢物語じゃない。俺たちの追いかける本当の夢になったんだ」 大石の顔は輝いていた。その目には、強い決意が宿っている。 「手塚も不二も、全国へ行くために絶対に無くてはならない二人なんだ。そこのところを、忘れないでくれよ」 大石は最後にそう言って、にっこりと笑った。 「そういえば手塚のやつ、まだ戻ってきてないな。不二、ちょっと探しに行ってきてくれないか?」 わざとらしくそう言う大石を、不二は冗談混じりに睨んだ。仲直りの機会を与えようとしてくれているのだと分かった。 「それじゃお言葉に甘えて、休憩がてら探してこようかな」 「ははは、本当にサボらないでくれよ」 「分からないよ、手塚がかくれんぼ中で見つからないかも」 「こりゃタイヘン。そしたら手塚もグラウンド十週だな」 最後は軽口で流して、ボクも大石も微笑みあった。 「それじゃ、行ってくるね」 「ああ、頼んだぞ」 軽く手を振りながら、ボクは体育館から一歩外へ出た。 外は相変わらず、激しい雨が降っている。雨足は弱まるどころか、さっきよりも勢いを増しているようだ。 「さてと、手塚はどこかな・・・」 体育館から校舎へと続く、長い渡り廊下を歩いていく。トタン屋根に雨粒が落ちる音がぱたぱたと聞こえてきた。強い湿気の臭いが鼻につく。 降りしきる雨のせいだろうか。見知った場所なのに、まるで違う空間に隔離されたような感覚を生み出す。こんな大雨では屋外に生徒の姿もなく、人影も見えない。 ところどころ出来ている水溜りを避けながら、一人歩く。 静かだった。 まるで、この雨の中にたった一人きりになったような、不思議な気持ちになる。 手塚はどこにいるんだろう。 歩いていくうちに、テニスコートのフェンスが遠くに見えてきた。 ここから先は屋根がない。歩いていくと濡れてしまう。でも、まだ手塚の姿は見つからない。 (まさか、まだコートにいるのかな・・・?) この雨の中、まだ外にいる理由なんて思いつかないけれど。でも、まさか・・・? (・・・仕方ないな) とりあえず、コートへ向かうことにした。 雨粒が次々降りかかってきて、両腕で頭を覆う。 バシャバシャと水音を立てながら、コートに向かって全速力で走った。 はあ、はあと息が白く霞む。 フェンス越しにコートを覗いたけど、そこには誰の姿もなかった。 「・・・嘘」 わざわざ濡れてきたのに、無駄骨だ。 「どこにいるんだよ、手塚・・・」 ぐるりと辺りを見回す。こんな雨の中だ。人っ子一人いやしない。 もう濡れてもいいやと、ボクは歩き始めた。 雨足はだんだんと強くなってきた。 部室まで歩いていっても、中に手塚の姿はなかった。 しかも鍵がかかっている。大石が閉めたんだろう。 「もう、帰ろうかな・・・」 すでに全身、服も体もぐっしょりと濡れている。でもここまで来て、見つからずに帰るのは少し癪だった。 ボクは何気なしに、部室の裏側をひょいと覗き込んだ。 そこにはあまり人が使わない、小さな水飲み場があるだけだ。 けれど、ボクはあっと声を上げかけた。 手塚は、そこにいた。 他に誰もいない水飲み場で、水道の蛇口を捻っている。 見つけた。 手塚、こんなところにいたの。ボクは声をかけようとして、はたと止まった。 (手塚、何してるの・・・?) 水道の蛇口から、じゃんじゃん水を出している。 水飲み場に屋根はない。彼もボク同様に、いやボクより長い時間ずっと雨に打たれていただろうに、この上どうして蛇口の水をあんなに出しているのだろう。 顔や手を洗うのかと思ったら、そうでもない。 手塚は腰を曲げず、こちらに背中を向けてしゃんと立っている。さっきからずっと、微動だにしていない。 じゃあ、何のために水を出してる? もう全身ずぶ濡れなのに。 まもなくボクは、あることに気付いた。 手塚は、体のある一部分だけを、流れる水道の水に当てている。 いや、あれは。 ―― 冷やしている? どうして、さっきから手塚は。 左肘を、水道の水で冷やしているんだろう。 ジャリ。踏みしめた地面が音を立てた。 ボクの気配に気付いたのだろう。ハッと手塚がボクを振り返った。 手塚の顔が、厳しく引き結ばれた彼の顔に驚愕が浮かぶ。 水道の水は勢いよく流れ続けている。 容赦ない雨が降り注ぐ。 ボクの顔を。目元を、頬を、顎を。ポタポタと滴が落ちている。 「・・・・・・テニス肘?」 ボクの呟いた言葉は、雨音の中でもかき消されることはなかった。 手塚の顔に、はっきりと動揺が走った。 一歩一歩、手塚に近づく。 彼は信じられないとでも言うような目で、ボクのことを見ていた。 「・・・手塚」 「・・・」 「どうなの、ねえ」 彼は答えない。無言でただじっと、目の前まで来たボクを見ている。 「答えて。キミは、腕を痛めてるんじゃ」 「・・・また」 「え?」 「また、お前に見つかったか・・・」 手塚の、その謎めいた言葉の意味が、そのときは分からなかった。 すぐ目の前には、濡れたウェアが張り付いた手塚の胸元があった。 視線を上げて、手塚の目を見た。 彼の目は、ボクではなくどこか遠くを見つめていた。 暗い瞳だった。 「・・・手塚」 ボクの言葉が聞こえなかったように、手塚はまた背を向けた。 また水道の水で、左肘を冷やし始める。背中は濡れたウエアがぴったりと張り付き、肩甲骨の形まで見て取れた。 「・・・痛めてるんだね、その肘。大丈夫なの、ちゃんと病院には」 「もう完治したと言われている。無理をして少し違和感があっただけだ」 「手塚・・・」 それが、“再発”であるということを。 そのおぞましい事実を。 記憶をなくしていたそのときのボクは、知る由もなかったのだ。 手塚の背中は、これ以上訊かれることを拒絶していた。 けれど、とても。とてもこのまま踵を返すことなんて出来なかった。 「こんな・・・大石は知ってるの」 口を開くたび、雨水まで飲んでしまう。必死になってボクは手塚の背中に問いかけた。 「完治したって・・・最近になってから痛み出したんじゃないのかい。きちんと診てもらったほうがいい!」 「痛みがあるわけじゃない。一度痛めたから、癖がついているだけだ」 「なら、どうしてずぶ濡れになってここで冷やしてるんだよ。ここは人が来ないからだろ。皆に知られたくなかったんじゃないのか」 「・・・・・・」 手塚は答えない。 ボクはそれを図星と取った。 「本当に癖がついてるだけなら、秘密にしなくてもいいじゃないか。こんな、皆に内緒にしてまで・・・きちんと病院に行きなよ、先生にも相談しないと!」 本で読んだことがある。テニス肘の恐ろしさ。 選手生命を危険に晒すどころか、下手をすれば日常生活にまで支障をきたす。 なのに手塚は背を向けたまま。 「・・・必要ない、大丈夫だ」 「何が必要ないだよ、痛いんだろ!?」 なんで、なんでこんな。 怪我していることを隠すなんて、馬鹿なことを。 ハードヒッターのタカさんと試合をするなんて、腕にどれだけ負担がかかるか。 毎日部活に出て、練習をして。 それを水道水で冷やすだけで、どうして悪化しないと言える。 「・・・手塚!!」 「大丈夫だ」 彼の背中は、あまりに頑なだった。 まるで岩のように聳え立って、ボクを拒絶する。 それならば。 ボクは決意した。 「・・・ボク、大石に言うよ」 手塚は途端に振り返った。険しい手塚の顔を、負けじとにらみつけた。 「大石に言って、竜崎先生に伝えてもらう。対策を考えてもらわないと」 「・・・不二、待て」 「止めても無駄だよ、これから行ってくる」 「不二!」 踵を返そうとしたところで、肩を掴まれた。身をよじって離れようとしたが、きつく掴まれて外れない。手塚はギラギラした目で、ボクを睨み付けている。 「離せよ・・・っ!」 「やめろ、不二」 「なにがだ、ふざけ・・・!」 振り払おうとしたとき、手塚の左手がボクの腕を掴んだ。 怪我をしているその左腕。 思わず、振り払うのを躊躇した。 「・・・頼む」 「え・・・」 耳元で、熱い吐息が聞こえた。 「・・・誰にも言わないでくれ」 初めて聞く、手塚の弱々しい声。 ボクは、動きを止めてしまった。 駄目だ、このままでは流されてしまう。そう思うのに。 周りが霞んで見え始めた。 ボクたちの体を、雨のしずくが伝い落ちる。 手塚の左腕が熱をもって、手塚の体温をボクに伝えてくる。 「なんで・・・」 どうして、そこまでするんだよ。 重々しく手塚は言った。 「・・・俺たちは、全国へ行く」 「大石から聞いたよ、ならどうして?キミが腕を壊したら、皆がどれほど動揺するか・・・!」 「だからだ」 低い声が響いた。 「今の青学では、まだ全国を勝ち進んでいくことはできない。仮に全国まで進んでも、必ず壁にぶつかることになる」 「・・・そんな」 「全国までに、まだ成長しなければならないんだ。桃城も、海堂も、越前も」 脳天まで響くような声が、耳に吹き込まれた。 「・・・お前もだ、不二」 「・・・!」 「俺は必ず、青学を全国へと導く。あのメンバーで勝ち進んでいくと決めた」 手塚は、左腕にぐっと力を入れた。 「しかしまだ、あいつらは発展途上だ。今はまだその時期ではない。今、俺の怪我が表沙汰になったところで良いことは一つもない。俺にはまだ、あいつらに教えなければならないことがあるんだ」 「手塚・・・」 「・・・今度のランキング戦でも、関東でも、あいつらは更に成長するだろう。だから今は駄目だ。仮に休養を取ることになっても、今はまだ」 「手塚!」 ボクは叫んだ。 もうボクが行かないと踏んだのか、手塚は腕を離してくれた。 握られた箇所が、赤く痣になっていた。 手塚も、必死だ。 必死なんだ。 そう感じた。 でも。 「・・・それじゃ、キミのテニスはどうなるんだよ」 手塚の肩が、一瞬震えた。 「さっきの、タカさんとのゲーム見て、感動したんだ。なんて、なんて綺麗なテニスなんだろうって。こんな綺麗なテニスがあるんだって」 顔が熱い。 ああ、言葉が上手く出てこない。混乱している。 どうしてだろう。目元が熱くなった。 「キミのテニスを潰してもいいの?青学のためなら、怪我が酷くなってもいいって言うのか!?」 「・・・俺が、あいつらのために出来ることは、強くあることだけだ」 「・・・手塚」 「俺は、誰にも負けない」 たとえ、自分自身が相手でも。 怪我にすら、打ち勝ってみせる。 諦めたりなどしない。 ―― ああ。 雨に濡れながら、ボクには分かった気がした。 彼のテニスが、どうしてあんなに綺麗なのか。 完璧なのに、危ういのだ。今にも壊れてしまいそうに。消える寸前の炎が激しく燃え立つように。 内に秘めた炎。 誰にも見せなかっただろう、胸のうちを明かしてくれたのだ。 彼は懸命だ。 余裕など、ない。精一杯戦っている。いつ爆発するか分からない爆弾を抱えて。 その涼しい顔の下で、いつも自分と戦い続けているのだ。 火照った頭を冷やすように、雨は降り続ける。ボクと手塚の間にも、滝が出来ていた。 手塚の背中が、霞んで見えた。 掴んでいなければ、土砂降りの雨の向こうに消えてしまいそうだった。 だから、ボクは手塚の裾を掴んだ。手塚が、ゆっくりと振り向く。 手塚の目は、焦点が合っていなかった。 不安と重圧で疲れたその目はひたすら虚ろだった。 ボクの手は自然と、手塚の腕に伸びていた。左腕に、這わすように。そっとさすっていく。 こうすることで癒せたら、どれだけいいだろう。 こうすることで守ることが出来たら。 何だって差し出すのに。 「・・・キミは、馬鹿だよ」 手塚は、何も言わなかった。 黙ったまま、顔をしかめて。それから、静かに蛇口を閉めた。 水が止まる。 なのに、ポタッと滴が落ちた。 「馬鹿だよ・・・」 泣いてるのか、と。 手塚の小さな声が聞こえた。 手塚の手が、そっとボクの手に重なった。 |