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手塚がいる――。 さっきまで覗いたら悪いと思っていたのが嘘みたいに、ボクは身を乗り出して中庭を覗き込んだ。 (なに、まさか手塚が告白するの?あの子、誰?!) 自分でもおかしいほど動揺しながら、ボクは二人の様子を盗み見た。 もしや告白どころか、恋人同士かとも邪推したけど――手塚と相手の女の子の、奇妙に空いた距離。これはやっぱり、どちらかがどちらかに告白する雰囲気だ。 ボク自身も経験があるから、何となく分かった。 相手の女の子、よく見たらうちのクラスの彼女の、思いつめた表情。 そして、おそらく彼女は気付いていないだろうけど。前にいる手塚の――困惑、というよりも、わずかに閉口している様子。 ずっと見てました、生徒会長、と真っ赤な顔をして彼女が告げた。 そういえばあの子は副会長だっけ、と思いながら、えっ、手塚って部長だけじゃなくて生徒会長もやってるの?!とボクは目を見開く。 手塚は短く息をついた。 慣れてる。予想がついていたのか、動揺した様子もない。 (生意気な奴・・・) 自分が同じ状況におかれたら彼と同じような反応をしたかもしれないけど、そんなことを思った。 (モテるんだな・・・あれで) その新たな発見は、心に不思議な風を吹き込ませた。 今はテニスのことしか頭にない、と。 おそらく彼の中では常套句であろう、断り文句がすらりと出てくる。 断られたことよりも、他の、例えば彼のことをよくも知らない下級生の浮かれた告白に対するのと同じような言葉で拒絶されたことが、彼女のプライドをひどく傷付けたらしい。 ここからは聞こえないけれど、いくつか言葉を漏らしながら彼女は涙をこぼし始めた。 副会長の様子に、手塚は初めて少し戸惑いの表情を見せた。 (お?) それは、初めて見る手塚の顔で。それを、あんな女の子によって引き出されたことが、なぜか妙に悔しいけど。 ボクは上から、事の成り行きを見守る。 手塚は、制服のポケットに手を伸ばした。 彼の手は一瞬、学生服のポケットがある場所に伸びた。けど今日から夏服の半袖になったんだろう、あるべき場所にポケットがないことに気付いて、今度はズボンのポケットを探っている。 彼がようやく、綺麗にアイロンがされたハンカチを取り出したら。 彼女はそれに気付かずに背を向けて、駆け出していってしまった。 後には一人、ハンカチを差し出す体勢のままの手塚が残されている。 「・・・ぷっ」 失礼ながら――本当に失礼だとは思うのだけど、ボクは笑ってしまった。 手塚は何事もなかったかのように、無表情でハンカチをポケットにしまって、教室のほうに歩き始める。それを見てボクはますます笑ってしまう。 ボクはこの四日間、手塚のことをとても遠くに思っていた。 その存在に実感がなかった。忘れたといわれても、納得できなかったのだ。 彼のことを、得体の知れないもののように思っていた。ボク自体の異変と合わせて、ガラス越しの宇宙人のように。 目で見ることの出来ない空気のように。 けれど、違う。 憧れの部長だったり。 昼休みに呼び出されて告白されたり。断り方が下手で女の子を泣かしてしまったり。 ハンカチを出しそびれて、その場に佇んだり。 “手塚国光”は、人間だ。 朝ご飯を食べて学校に来て部活に励んで、夜家に帰ると好きなテレビを見て、宿題をして寝たりする。ボクと同じ、普通の中学生だ。 彼のことを得体が知れなく、時に恐ろしく感じたりするのは、ボクがあまりにも彼のことを知らないから。 彼という人間を構成するピースを、ボクがまだ全然持っていないから。 こんな写真から得られるものだけじゃない。 彼はちゃんと、日々生活している厚みのある人間なのだ。 それが初めて分かって、ボクはどうしようもなく笑ってしまった。笑って笑って、すとんと胸にしっくり下りてきた手塚国光という存在に少し親近感を持った。 + + “手塚のことを知るチャンス”は、不意に訪れた。 図書委員のボクは、その日たまたま放課後の当番で図書室に来ていた。 青学の図書室は広い。蔵書数も並じゃない。そして、奥に行くほど本棚がかなり入り組んでいて、凝った造りになっている。 その日はたまたま、放課後の利用者はとても少なかった。持ち上がりの私立だから、六月の今の時期から三年生が放課後の勉強に使うなんてこともない。ほんの二、三人の生徒がいるばかり。 もう一人の委員も今日はいなかったから、ボクはのんびり貸し出しカードを整理しながら、時計とにらめっこをしていた。 今日の放課後は職員会議があるから、図書室は早く閉まる。施錠するための鍵を持っているボクは、閉館時間が来るのを待っていた。 カチッと時計の針がその時刻を指す。 「閉館です」 図書室の常連なのか、数人いた生徒はしつこく居残ることもなく、すんなりと立ち上がった。読みかけの本を貸し出ししていく生徒に対応しながら、このぶんならすぐに部活にも行けるとボクは胸を撫で下ろしていた。 閲覧室に座っていた数人全員が出払ったのを確認して、ボクは部屋を出ようとした。そこではっと立ち止まる。 入り組んだ本棚の、ずっと奥。あそこにも確か、座って本を読むための椅子が置いてあるはずだ。 高い本棚のせいで暗くなってるし、あまり人が来ないような奥まったところだから、好き好んで長居するような人はいないと思うけど。それでも一応施錠する前に確認しておかなければいけないと、ボクは鍵を持ったまま歩き始めた。 天井まで届きそうな背の高い本棚の間を、縫うように歩いていく。 そしてボクは、その一番奥の本棚の陰になった場所に、誰かが腰掛けているのが見えた。 (うわ、見回りしといてよかった・・・) うっかり鍵を閉めていたら、閉じ込めてしまうところだった。 いつもは閉まっている窓が、今日は開いていたらしい。普段はどんよりと暗い奥まった一角が、今日は日に照らされて明るくなっている。 (こうやって見ると、少しいい場所かも・・・) 一人になりたいときとか。 考え事をしたいときとか。 ボクは歩きながら、だんだんとそこに近寄っていった。 「もう閉館ですよ」 誰かが――男子生徒だ。椅子に腰掛けている。 けれど、返事がない。 (寝ちゃってるのかな?) ボクはゆっくりと近づいて、そこにいた彼を伺い見た。 途中までは確かに本を読んでいたのだろう。けれど途中で眠ってしまったのか、読みかけのまま膝の上に伏せられている。 タイトルはボクの知らない洋書だった。 (こんな場所で一人・・・渋いなあ) 一体、どんな人だろうと。 近づいていって、正面からこっそり顔を覗き込んで。 ボクは、叫び出しそうになるほど驚いた。 (・・・て、てて手塚っっ!!) そこでうたた寝をしていたのは、手塚国光だったのだ。 ボクは慌てて後ずさりして、本棚の陰に隠れそうになった。別に隠れる必要はないじゃないかと思いなおして、それからこっそりと様子をうかがった。 まだ、目は覚めてないようだ。 抜き足差し足、というほどではないけれど。 ボクは彼を起こさないよう、そっと近づいた。 今のボクに、彼に対する警戒心はほとんどない。 それよりは、未知のものを知りたいと思うような、少しくすぐったい心で、ボクは彼の前にしゃがみこんだ。 漆黒の髪の毛に、日が指して光が出来ている。整った端正な顔立ち。怜悧な切れ長の瞳は、まぶたが閉じられて今眠りについている。 意外とまつげが長いんだね。ほんと端麗。でも、眉間に皺が寄ってる。 うーん、これは女の子にもてるはずかもしれないな、なんてボクはため息をつきたくなった。手塚は綺麗だと思う。男のボクから見てもね。 あれ、でも目の下にクマが出来てる。 ひょっとして、疲れてるのかな。部長だし、生徒会長も兼ねてるらしいし。 それとも、寝不足なのは他に理由があるのかな。 なにか、例えば、悩み事があるとか。 (悩み事・・・) そういえば、彼からすればボクは“自分のことだけ忘れた奴”になるんだっけ、と。今更のように思い当たった。 正直、いい気分はしないだろうと思う。自分のことだけ忘れられるなんて。いや、待てよ。それが自分にはどうでもいい人間だったら?ああそう、と相手にしないで終わりかな。でもこっちは真剣なんだよ。 ボクが手塚のことを知らないのは、れっきとした現状なんだから。 そう、思った瞬間。 目の前の手塚が、ぱちりと目を開けた。 (・・・・・・っ!!) ボクも驚いたけど、彼も相当驚いたようだった。 ボクが尻餅をついたのに対し、座ったまま後ずさりしている。膝に置いたあった本が床へ転がった。ボクも、手に持っていた鍵を床に落とした。 「不二・・・」 呆然と。 そんな言葉が似合う、まさにそんな顔で、手塚は目の前にいるボクを見た。視線が縫い付けられる。 ボクはボクで、突然起きて目を開けて言葉まで喋った手塚に対応できなくて、たっぷり十秒間は硬直していた。 見つめ合ったままで。 (・・・なにやってるんだ、ボクは) 我に返って、さっさと立ち上がった。いくらなんでも驚きすぎた。手塚まであんなに驚くから、ボクまで乗せられちゃったんだ。 図書室の鍵を拾うついでに、手塚が読んでいた洋書も拾い上げた。渡してあげようと、腰を上げて手塚を見るけど。手塚はまるで、頭痛でもしているように、額の辺りを押さえている。 「手塚・・・どうしたの?」 頭痛を堪えるように、額を押さえて下を向いている。そんな座ったままの手塚が気にかかって、ボクは思わず彼に手を伸ばした。 瞬間、彼が切羽詰った表情で顔を上げた。 ぱしんっ、とその音は誰もいない図書室に響いた。 振り払われた手を、痛いな、と思って眺めていると、手塚の視線とかち合った。ボクを見て慌てて目をそらしながら、「すまない」と小さく呟かれる。 奪うようにボクから本を受け取って、手塚はその椅子から立ち上がった。 (なんか・・・変だ) 手塚は、ボクと目を合わせようとしない。 「手塚」 短く呼ぶと、手塚は振り返った。 けれどそれは、彼の律儀さがそうさせただけで。出来ることなら早々にこの場から、いや、ボクのもとから立ち去りたいと、意外と正直なその顔が言っていた。 ボクの横を通り過ぎようとしていた、その彼をボクはじっくりと見やった。 (手塚も) (手塚も、厚みのある人間なんだ) 得体が知れなく思うのは、彼という人間を構成するピースをボクが持っていないだけ。 きちんと、向き合ってみよう。 「手塚」 「・・・なんだ」 無言だった彼が、小さく返事を返した。 彼は、ボクとこれ以上関わり合いになりたくないのかもしれない。 チームメイトでありながら、自分のことを忘れて平気な顔をしている奴なんかに。 (でも) 悪いけど、そうはいかない。 (だって、気になる) あの写真のことも。 そして、今目の前にいる、生身のキミのことも。 「・・・昔のボクが、キミにどう接していたかは分からない。どんな話をしてたのか、どんな試合をしてきたのかも。キミが戸惑うのは当然だと思う」 「・・・・・・」 「けれど、キミと同じくらいボクだって戸惑ってることを分かって欲しいんだ」 手塚の表情が、だんだん色を失っていく。 ボクはそれには気付かず、一歩手塚に近づいた。 「話をしようよ、何か思い出すことがあるかもしれない」 また、ボクは一歩近づいた。 「キミのことを教えて欲しいんだ。普通に話そう、ボクのこと避けたりしな・・・っ!」 しないでほしい、と。続く言葉は打ち切られた。 ドンッ、と図書室中を揺さぶるような音が響いた。 ボクの真後ろの壁に、ボクの顔を掠めるようにして、打ち付けられた、拳。 手塚の、拳。 手塚。 ボクは、声も出せずに。ボクの前に立つ手塚を見ていた。 至近距離の彼は、ボクより背が高いから自然と見上げる形になる。 ボクは。 手塚の顔を見て、どんな言葉も出てこなくなった。 きつくしかめられた、その表情。 叫び出すのをじっと堪えているような、押し殺した激情。 ボクは、うぬぼれていたんだろうか。 倒れたボクを、保健室で介抱してくれたあのときから。 手塚はボクに、ある程度好意を持ってくれていると、勝手に思い込んでいたんだろうか。 それだけ、ボクを見つめる手塚の目には。 今にも牙をむき出して暴れそうな、炎の色があった。 怒りだ。 「・・・前が」 「てづ、か」 「お前が、忘れたんだろう」 低く押し殺した声が、耳元に届いた。 ボクはそれだけで動けなくなる。 「お前は自分で望んで、俺のことを忘れたんじゃないのか」 どれくらいたっただろう。 手塚の体が、離れていく。ボクはそれを、呆然と見守っていた。 手塚はボクを見ない。あえて見まいとしている。 これ以上ボクに、牙をむきたくないからなのか。 手が震えていた。胸ポケットに入れていた写真を、ぎゅっと引っつかむ。 手塚、と。 小さくささやいた声は、彼に届いたみたいだった。 気をつけて帰れ。 手塚の苦しそうな声が、最後にそう呟いた。 |