「・・・といっても、ちょうどさっき終わっちゃったんだけどね。でもすごかったよ、ムカつくけど超ハイレベルでさ」
楽しそうに言う英二に、ボクは思わず身を乗り出して言った。
「・・・越前って、あの越前君だよね」
「およ?」
「どっち、どっちが勝ったの?!」

袖をつかまんばかりの勢いのボクに、英二は少し驚いてのけぞっていた。
「ふ、不二・・・?」
「ねえ、どっち?!」
「そりゃ、手塚だよ。おチビも1ゲーム取ったけど、やぱり手塚には敵わなかったみたいで・・・」
貫禄の差かにゃあ、と呑気なことを言う英二の声は、もうボクの耳には届いていなかった。
つかんだフェンスがギシリと音を立てたけど、もう気にしていられない。

(あの越前が、負けた・・・?)

驚愕で、ボクの頭は一杯になっていた。
あの越前が。この間のルドルフ戦では裕太を破った、あの脅威のルーキーが。
ぜひ、一戦交えてみたい。自分もそう思っていたあの越前を、手塚が負かした?

(手塚・・・)

コートを見回したけど、すでに対戦した二人はコートから出ていた。
手塚は竜崎先生と大石に囲まれ、何かを話し込んでいる。涼しい顔をしたその男は、上下のジャージを脱いですらいなかった。
けれど、越前の姿がない。
「英二、越前君はどこ?」
「え、おチビなら、さっき水飲み場のほうに歩いていったけど・・・」
「ありがとう!」
足は勝手に、部室から離れた水飲み場のほうに向かっていた。
あそこなら、おそらく他に人はいない。

「不二、ちょっと不二どこ行くんだよー?!」

伸ばした手は、宙ぶらりんになってそのまま下ろされてしまう。英二が声をかける間もなく、不二は越前がいるといった水飲み場のほうに行ってしまった。本人は気付いていないかもしれないが、不二にしては珍しいほど、随分必死な様子だった。
残された英二は、首を傾げるより他ない。

「・・・なーんか変だなあ、最近の不二」








他の部活の部員も使うことから、水飲み場はコートから少し離れたところにある。
予想通り、そこには一目で一年生と分かる、小さい姿があった。

走り寄るボクに背を向けた格好で、越前はバシャバシャと水道の水で顔を洗っていた。脇にはきちんと彼のおなじみのキャップが置いてある。
キュッと蛇口を閉める音がして、越前はタオルに濡れた顔をうずめた。髪からも水滴が粒になって跳ねている。
「越前君・・・」
タオルから顔を出して、越前は無愛想にこちらを向いた。
「なんスか?」
大きな瞳が、くるりとこちらを向いている。

「さっきの手塚との試合・・・負けたんだって?」
越前は、嫌そうに顔をしかめた。
「悪かったっスね。負けましたよ、6−1っス」
本当に?と思わずつぶやいた言葉は、幸いにも彼には聞こえなかったようだ。越前は片足を上げると、うとましそうにぷらぷらと揺らした。
「これさえなきゃ、もっと違ったんスけどね・・・」
足につけたパワーアンクル。先日、乾の提案でレギュラー全員が着用することになったものだ。
ということは、おそらく手塚もこれをつけている。下もジャージを着ていたから、見えることはなかったけど。
「あの人、ジャージも脱がないし。ほんと可愛げないったらないっスよ」
越前はつまらなそうに、パフパフとタオルで顔を抑えた。けれど、不思議と堪えている様子はない。

むしろ――楽しそうだ。強敵に当たって、楽しんでいるような顔。
いつか倒してやるぞ、というそんな気概が感じられる。
初めて見る越前の表情に、ボクは驚きを隠せなかった。

「ねえ・・・越前」

タオルを首にかけた越前が、くるりとこちらを向いた。

「手塚のテニスって、どうだった・・・?」

ぱちぱちと目を瞬かせた越前は、それから呆れたように眼を細めた。

「・・・アンタがそれを聞くんスか?」

またボクは、言葉を失ってしまった。
タオルでぱたぱたと顔を仰ぎながら、越前はとんと水飲み場のセメントにもたれかかった。
初夏の太陽が照らしている。微風がわずかに、ボクたちの間を駆け抜けていった。

彼は、越前は、見たのだろうか。
昨日のボクが、途中で倒れてしまって見れなかった、彼の試合のその先。
手塚の試合を、始まりから終わりまで。

そう思うと、嫉妬のような感情が湧き起こってくる。

「そうだね・・・あの人のテニスは俺に似てるけど、たぶんちょっと違う」
「えっ?」
どこか違うところを見つめながら、越前は両腕を水飲み場の手すりについた。
まるでその姿は、風を感じているようだった。
「ずっとテニスやってきたとか、テニスに全部注いできた奴って大体分かる。あの人のテニスもそう、混じり気が全然ない」
「・・・越前は」
その先の言葉が、うまく出てこなかった。

ただ、何かを問いたい。
手塚のことを、彼に問いたい。そんな気持ちが湧き上がってくる。

「・・・俺のテニスは、まだ俺の中だけにあるものだけど。あの人の場合はずーっと上に向かってる感じ。神様にでも捧げるみたいに」


最後に越前が言ったのは、そんな不可解な言葉だった。






+ +


コートに戻った頃、すでに別の練習が開始されているようだった。
そのコートには、手塚が仁王立ちで立っていた。
「越前、何をしている。早くコートに入れ」
「・・・ういーっス」

驚いたことに、手塚にそう言われた越前は、帽子を下げて素直に従った。
あの倣岸不遜の、信じられないほどの生意気ルーキーが。

駄目だ、信じられない・・・。
頭を抱えたい気分で、ボクはそのままフェンスまで下がった。どうやらレギュラー同士の紅白戦は続いているらしいが、今はコートが一杯だ。呼ばれていないから、ボクの出番はまだだろう。

(あの越前に、一目置かれるなんてね・・・)

ますます、あの手塚のことが分からなくなってきた。いや、分かるも分からないも最初から知らないんだけど。
・・・ひょっとしたら、昔は知っていたのかもしれないけど。

(やっぱり、記憶喪失なのかなあ・・・)

忘れた、ということなのだろうか。
また頭を抱えたくなって、ボクはため息をついた。

知らないうちに、手塚を視線で追っていた。
コートのちょうど反対側で、厳しい顔で部員たちを見ている。うっかり目でも合ってしまったのだろうか、一年生が露骨にびくついていた。

(疲れないかなあ・・・あんなしかめっ面で)

ぼおっとした頭では、ろくなことが浮かんでこない。そんなボクに、急にぬっと日陰が出来た。背の高い奴が、日の光を遮ったのだ。
「やあ、不二」
「乾・・・」
「熱い視線で見つめちゃって、どうしたんだい」
手塚のことだと分かって、内心むっとした。
厄介な奴がやって来た。
「冗談じゃないよ」
「いいや、さっきからずっと見てたぞ。手塚に告白する予定でもあるのか」
あるわけないだろ。
「・・・その眼鏡、曇ってるから拭いたほうがいいと思うよ」
「おやそうか、ありがとう」
本当に拭く真似をする乾の肩をトンと小突いた。
「サボってるんじゃないよ、コーチ」
「失敬な。これでもレギュラーに返り咲く気は満々なんだ、お前のデータも取れてるしな」
「・・・どういうこと?」
怪訝な顔をしたボクに、乾は得意げな顔で笑った。おなじみのノートをしっかり手に持って。
「今は、俺としてはなかなか面白い状況だ。こうもお前が手塚に興味をむき出しにするなんてな」
「・・・興味?」
乾の顔は、大真面目だった。それでもどこか面白がっている感は否めなかったけど。
「ああ、まさか自覚がないなんて言うなよ?俺は昔からずっと、お前と手塚との間には入り込めない何かがあると思ってたんだ」
「なに・・・それ」

ここ二日間のボクの様子が変だというなら、それはまだ理解できるけど。
昔ずっとだなんて言われると、さすがに困る。
だって、それは。

「大石が前に言ってたぞ。試合の空き時間になると、よく手塚はふらりと他校の試合を観戦に行く。大石が顔を出したら、いつのまにか手塚の隣に、お前が並んでたそうだ。そんなことが今までに何度もあったと。覚えがあるだろう?」

得意げに顔を傾ける乾に、ボクは返す言葉を持たなかった。

ない。覚えなんか、まるでない。
だって、だってそれは。
その話は、もし手塚の言葉を借りて言うなら。
記憶喪失になる前の、手塚のことを覚えていたころのボクの話だ。

驚きのあまり、声の出ないボクに気付かずに、乾は言った。

「大石も言ってたぞ。少なくともテニスのことでは、手塚と渡り合えるのは不二ぐらいだと」

目を見開くボクに、乾は初めて気付いたのか、怪訝そうに眉を寄せた。
「どうした、不二?」
「・・・・・・」
しばらく首をかしげていた乾は、それから何を思ったのか、コートの反対側に目をやった。つられてそっちを見たボクは、あっと声を飲み込んだ。

ずっと離れたところで、手塚がこちらを見ている。

(手塚・・・)
口を覆ったまま、ボクは手塚と目が合ってしまった。そらすことも出来ず、かといって何かすることも出来ずに、彼と見つめ合うしかない。
手塚も何を思っているのか、視線をそらさない。ボクたちは馬鹿みたいに、しばらくの間見つめ合ってしまった。

ふんふん、と乾が何かを呟いた。それから、大きな体がぐっとボクの前に出た。
「乾・・・?」
ボクの頭の上のフェンスに手をかけて、ボクに向かい合うように立ち位置を移動する。乾が陰になって、視界から手塚が遮られてしまう。乾の体に、ボクはすっぽり覆われる形になった。
その瞬間だった。

「不二、乾、何をしている!」
コートにいた全員が振り向くような大声が響き渡った。
「コート内でふざけている暇があったら走って来い!グラウンド十周!」
手塚の側にいた一年生が、かわいそうに震え上がっている。
驚いて呆然とするボクに対し、乾は何がおかしいのかくっくと笑っていた。

(なに、なんであんなに怒ってるの!?)
ボクはただ、目をぱちくりとさせるばかりだ。

「ほら不二、走らないと周回増やされるよ」
「え、本当に走るの?!」
「当然。いつものことだろ、何言ってるんだ」
そのいつものことが分からないから、ボクは驚きながらもコートから出て、走り出さなければならなかった。

なんでこうなるのか、混乱しながらとりあえず走る。
越前といい乾といい、手塚といい。何がなんなのか。

訳も分からないまま、ボクはとりあえず走るより他なかった。






「・・・おいおい手塚、乾はともかく不二は病み上がりなんだから、容赦してやったらどうだ」
「駄目だ。あいつらは放っておくとつけ上がる」
「まあ、あの二人だからね・・・」
乾いた笑いを浮かべながら、大石は手塚に隠れて胃の辺りを押さえていた。
「・・・?」
ふと気がつくと、乾が手塚をじっと見ていた。
何か言いたそうな、面白がっている顔だ。手塚の眉間に皺が増える。

「乾、もう十周増やすか?」
そう言うと、さすがの乾も行ってきます、と手を振りながら走り始めた。けれど、時々こちらをちらちらと窺う顔は、明らかに面白がっている。
さっきの手塚の、乾が不二に近づいたときに見せた、その反応に。

(まったく・・・)
手塚に一睨みされ、今度こそ乾は正面向いて走り始めた。
その乾の前を、一回り小さい華奢な体が走っている。

茶色の髪が日の光にきらきらと輝いて、遠くから見てもそれが誰だ一目で分かってしまう。


走っていく不二の背中を、手塚は言葉もなく、じっと目で追っていた。





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