「・・・おかしいな」

ぽつり、と低い声で呟いた乾に、大石と英二の視線が向けられる。
「乾・・・?」
その手はもう、ノートをとってはいなかった。すらすらと動いていたペンはページから離れ、トントンと自身の額を叩いている。何か考え込んでいるかのように。
「試合が一方的すぎる」
「え、でも・・・」
スコアは、いまだ2−1。手塚が勝ってはいるが、まだ試合は始まったばかりだ。しかし乾はぐっと眼鏡を押し上げ、渋い顔をする。
「不二の様子がいつもと違う。データなんかなくても、普段のあいつなら絶対にあんな顔をしないことくらいは分かるさ」
あんな顔、と訝しがる二人に、乾はコートを見つめながら静かに答えた。

「ドロップを決められた瞬間。心底驚いた、という顔だよ」

初夏の強い日差しが、コートに突き刺さる。
その意味を察して、英二たちが顔色を変える前に、乾はぼそりと呟いた。

「あれじゃまるで、初めて手塚と対戦してるみたいだ」




「40−0!」
審判をする部員のコールが響く。
次に、ポイントを奪われれば3−1になる。決して逆転できない数字じゃない。頭ではそう理解しているのに、なぜか心がついていかなかった。
きっと、追いつけない。
ボクは彼に負けるだろう。
おそらくボクはこの先、1ゲームも取れない。
(どうしてだろう・・・)
どうして、と自問せずにはいられなかった。

どうして彼に、勝てる、勝ってやるという気がちっとも起こらないのだろう。

対戦者である自分に向けられる、彼の視線がなぜか恐ろしく感じた。
圧倒されてる。
萎縮している自分に気付いて、愕然とした。

(この人は、まだ本気じゃない)

(本気の彼は、こんなものじゃない・・・)

ぞくり、と背筋があわ立った。
なんで。なんで、全然知らない人なのに、こんなことが分かるんだろう。
もう、今こうしていることすら夢か現実か定かではなかった。



次は自分のサーブだ。
トスを上げようと、ラインまで下がった。そのとき、太陽の光が目に入って、一瞬足の力が抜けた。
(あれ・・・)
すると、スローモーションのようにゆっくりと、視界から太陽が消えていった。がくり、と膝が地面につく。かわりに足元にあったはずのコートが視界に入り、頭に鈍痛が走った。
視界が急速に暗くなっていく。
ギャラリーから騒ぐ声がかろうじて聞こえたけど、もう目は開かなかった。

「―― 不二っ!!」

誰・・・。

白く霞んでいく世界。最後にネットの向こうから、彼の声が聞こえた。








少しの間、夢を見ていた。
去年の合宿の夜のことだ。
みんながわいわいと騒ぐ中、ボクは布団の上に座って、隣の男の子に話しかけている。あの「彼」だった。
彼は、ボクの話を聞きながら、時折頷いたり短い答えを返したりする。無愛想な反応だったけれど、それが彼の正直さを表しているようで、夢の中のボクはとても好ましく感じていた。

それは、英二に見せられたアルバムの写真の風景だと。夢から覚めて初めて気がついた。

ゆっくりと目を開けると、視界の片隅で黄緑色のカーテンが揺れていた。
窓から涼しい風が吹き込んでくる。日の光がまぶしくて、少し眼を細めた。
静かだった。時計が秒を刻む音が、わずかに聞こえてくる。

「保健室、かな・・・」

大体の辺りをつけて、そろそろと体を起こそうとした。ところが、腕をついて起きようとしたものの、自分の体が鉛のように重い。そういえば、昨夜一晩寝てなかったんだった。
「・・・うわっ!」
手が滑ったボクは、またベッドにどさっと倒れこんでしまう。
「いたた・・・」
その瞬間、仕切りのカーテンがシャッと開いた。

「誰・・・」

言いかけて、ボクはあっと息を呑んだ。
そこに立っていたのは、さっきまで対戦していた、あの。
「大丈夫か」
手塚が、そこに立っていた。

ばっ、とボクは反射的に振り返って逃げ場を探してしまった。とはいうものの、体は起き上がらないし第一ここは保健室だ。そもそも、別に取って食われるわけじゃないんだから逃げる必要だってない。たぶん、だけど。
「あ、あの・・・」
「・・・・・・」
それなのにボクが慌てていたのは、たんに試合の余韻を引きずっていたからだ。コートに立っていたとき、対戦者のこの男のことが本当に恐ろしく思えた。どうやったって、勝てない。対戦するのは初めてなのに、なぜかそんな思いが先行して。
本当に引きずり喰われてしまいそうな感覚に、胸が震えていた。

「まだ具合が悪いのか」

けれど、今の彼は。
眼鏡の奥の瞳は、もう炎の色ではなかった。
ボクのことを心配している、その様子が感じ取れて、自然と警戒心は消えていった。

「・・・もう、大丈夫」
「そうか」
短く返ってきたのは、深みのある大人の男のような声だった。
そのまま手塚はカーテンを閉めると、ベッド脇のパイプ椅子に腰を下ろす。至近距離で目が合って、心臓が脈打った。
「・・・・・・」
何も言葉が出てこなくて、ボクは黙り込んでしまう。体を起こすこともできないし、何を言っていいかも分からない。

眼鏡越しの視線が、じっとボクを見つめていた。
いたわるような、優しい目だと思った。

「試合中と同一人物には思えないや・・・」
「なに?」
思わず口に出してしまって、しまったと思う。。けれどもう遅く、手塚の視線はボクに注がれている。
「いや、だって・・・試合中はすごく怖いっていうか、恐ろしげな雰囲気漂わせてたから」
「・・・俺から言わせてもらえば、試合で雰囲気が変わるのはお前のほうだと思うが」
「え?」
ふざけているわけでもなく。至極真面目な顔で、この手塚という男は言った。
「試合中は笑顔が消えるからな」
「・・・そうなの?」
「ああ」
そんな、よく分かってます、というふうに言われても困るよ。
だって、ボクにしてみれば、彼はまったく知らない人で・・・。
そのことを、問わなければならないのに。口から出てきたのは、まるで関係のないことだった。

「さっきの試合、すごかった」
さらり、と風が吹いて、カーテンが揺れた。
「小学校からテニスやってるけど、あんなにこっぴどく負けたの初めてだよ」
「・・・まだゲームは2−1だったぞ」
「うん。でもあのまま続けても、絶対にボクが負けていたよ。キミの本気はあんなものじゃないだろ」
何、と、手塚が怪訝な顔をした。
うん、とボクは微笑む。
「本気のキミと試合したら、もっと完膚なく負けてただろうな。きっと1ポイントももらえなかった」
何となくやけっぱちな気分になって、顔を上げて天井を仰いだ。白く薄汚れた天井が見える。
「お前・・・」
「なに?」

「俺のことを知らないんじゃなかったのか」


電撃が走ったように、ボクはぴたりと動きを止めた。

「昨日、散々言っていただろう。俺のことを知らない、と」

静かな声だった。感情の読めない、声。
視線をそらすことができなくなった。

『先週までは普通に話してたじゃん』
『手塚と喧嘩してるのか?』
英二たちの言葉がよみがえる。

知らない、とかたくなに否定していたのに。もうボクは、自分に対する信用を失いかけていた。
合宿の写真にボクと並んで写っていた、彼。
そして、さっきの試合中の、感触。

『この人の本気は、まだこんなものじゃない』
その、確かな感覚。
「あの・・・」
口に出しあぐねていると、目線で続きを促された。
ボクの言いたいことを、すでに彼は分かっているのかもしれない。
「キミは、ボクのことを知ってるんだよね」
横たわったままのボクに、視線が注がれている。彼が何を考えているのかは読めなかった。何となく、顔を上げることができなかったから。

「ボクは、キミのことを知らない」

手塚は答えない。
「けれど、ボクは今までシングルス1が誰だったのか、うちの部長が誰だったのかも思い出せないんだ。去年の合宿の写真に、どうしてキミと一緒に写っているのかも。だからボクも・・・自信がなくなってきてる」

もう、薄々気付いている。おかしいのは、ひょっとしたら周りじゃなくて。
ボク自身なんじゃないかって。


「本当はボクは、キミのことを知らないんじゃなくて・・・どこかで何かが狂っちゃったのかな・・・?」

試合中と同じく、手塚の表情には一切の揺らぎはなかった。


「そうだ」
「え・・・」
「お前が、嘘をついていないのだとしたら」
怖いくらい、手塚の表情に変化はなかった。


「お前は、俺のことだけを忘れている」

バサリ、と風でカーテンが翻った。

「・・・忘れ、た・・・?」

手塚の瞳が、真っ直ぐにボクを見つめている。


「ボクが・・・・キミの、ことだけを・・・?」




ボクはそのまま、動くことが出来なくなった。
時間も、流れる空気も、すべて止まってしまったのかのようだ。

真正面にいる手塚の顔を、ボクはただ見返すことしか出来ない。
何の言葉も出てこなかった。

「嘘・・・」

ようやく出てきたその一言も、ささやくように呟いただけで。


動かないボクに対して、彼が動いた。
起き上がったボクの上の掛け布団を、ゆっくりとめくられる。
「あ・・・」
ひんやりとした外気が触れた。すると、無意識に動かそうとした足に痛みが走った。

膝小僧に血がにじんでいる。
きっと、コートに倒れたときに擦りむいたんだろう。

けど、そのときのボクは本当にそれどころではなくて。ただ、さっきの手塚の言葉を考えることだけで頭が一杯だった。
まだ意味をかみしめるところまではいかない。ただ何度も頭の中で、繰り返し流れている。
忘れている、と。

手塚が、わずかにボクのほうへ寄ってきた。擦りむいた膝を見てくれているようだった。 手塚の手が、ボクの右足に触れてる。まるで他人事のように、ボクはそれを呆然と見ていた。

(忘れた・・・ボクが?)

この人の、こと、を。

足をなぞる、骨ばった手のひら。温かい手のひらは、触れるか触れないかの調子でそっと足を撫でていった。
(気持ちいい・・・)
とろん、とボクは目を伏せた。

さっきの試合。いっそ諦めに至るほど、「敵わない」と思わされた。
こんな対戦は初めてだと思った。けど。

(ボクは・・・この人のことを、知ってた・・・?)

忘れてしまっただけで、知っていたの?
返ってこない答えを求めて、彼を見る。

手塚の綺麗な手が、優しくボクの足に触れている。触られるのが、とても気持ちよかった。 彼はしばらく傷を見つめていたけれど、やがてその顔が、そっと降りてきた。

(え・・・?!)

擦りむいた傷が、じんわりと温かさに包まれている。

ボクは、やっと我に返った。
「・・・やっ、やめて、なにしてっ!」

擦りむいた傷口が、手塚の唇で包まれている。熱い舌がそっと傷口を這って、痛みと背筋を駆け上がる知らない感覚にボクは悲鳴を上げた。

「・・・やっ、手塚!!」

思えば、それはボクが初めて彼の名前を呼んだ瞬間だった。
彼の動きが、ぴたりと止まった。何事もなかったかのように手塚は唇を離して、タオルをそっとボクの膝に押し当てた。



「すまない」
手塚はそのまま立ち上がり、カーテンを開けた。まぶしい日の光が一斉に入ってくる。
出て行こうとする彼を、ボクはとっさに呼び止めようとした。しかしその前に、彼は振り返らないまま静かに言った。

「不二、思い出さなくていい」
「え・・・?」


「お前が思い出したくないのなら、無理に思い出す必要はない」


追いすがろうにも、ボクの体は起き上がらなくて。
そのまま、彼の姿はカーテンの向こうへ消えてしまった。





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