最終幕



吹く風に、カタカタと窓ガラスが揺れる。
森には相変わらず霧が立ち込めて、朝なのか夕方なのかも分からないほどだった。

コツ、コツと、長い廊下に足音が響く。大石秀一郎は一人廊下を歩いていた。長い廊下に他に人の姿はない。向かっていたのは、廊下の一番端の主人の部屋だった。

コンコン、と軽く扉をノックする。その落ち着いた仕草とは裏腹に、彼の顔はかつてないほど厳しく顰められている。
これから決闘でもするかのように、彼は決意を秘めて扉の前に立っていた。

「大石です。不二さん、お話したいことがあります」

部屋の中から、返事はない。
大石はゆっくりと扉を開いた。

「失礼します」

部屋の中に、不二の姿はなかった。広い部屋は電気も点いておらず、窓もカーテンもすべて閉められている。そこは確かに、昨夜手塚と一緒にいるのを見てしまったあの不二の部屋に違いないのに。
「いないのか・・・?」
不思議なことに。
その部屋にはまるで、生活感がなかった。


長い廊下を、大石は駆け足で引き返していた。
途中幾つもの角を曲がる。幾つもの部屋を通り過ぎる。彼が向かっていたのは、さっき別れたばかりのミズのところだった。

階段から曲がって、何番目かの部屋。さっき目にしたばかりの、木製の扉が見えてくる。
ノックすることも忘れて、大石は扉を叩きつけるように開いた。
「ミズさん・・・っ!」
部屋には、誰もいない。
ミズによって開けられた窓のカーテンが、吹き込む風にゆらゆらと揺れるばかりだった。
大石は部屋に踏み入り、開いた窓へ向かった。もしかしたらこの窓から下りたのかとすら思ったのだが。窓から見えたのは、予想外の光景だった。

窓の下には、あの庭園が広がっていたのだ。
咲き乱れ、風に揺れる花々たち。いっそ空虚なほどに、うすらさざめく満開の花々。

「ここからいつも見てたのか・・・ミズさん」

ふっと目をそらしたそこに、丸いテーブルが置かれていた。
その上に置かれていた、一枚の紙切れ。
たどたどしい筆跡で、書かれていたのは、わずか三文字。


『助けて』





大石は走った。広い屋敷の中を、永遠に続くのではないかと思わせる廊下を。
息を荒げ、髪を振り乱しながら。どこまでも走って、ミズの姿を捜した。
「ミズさん・・・、ミズさん、どこだ!」
ハァハァと息が上がる。しかしどこまで走っても、ミズの姿は見つけられない。
それどころか、不二の姿も。手塚の姿すら。
誰の姿も、人の気配すら、この屋敷には感じられない。まるで廃屋のようだ。
(どうしてだ・・・!?)

昨日までとは、まるで違う。館そのものが別のものに変わってしまったかのようだ。
まるで最初から、人など誰もいなかったかのように。

「・・・嘘だ!そんなはずがない!」
大石は首を振った。そしてまた、荒い息で走り出す。
同じような扉が何枚も続いた。同じ風景の廊下がどこまでも続いている。終わりがない。
血が逆流しそうだ。胸の奥から、どうしようもない不安にも似た焦燥感が湧き上がってくる。

ミズが、助けを求めている。
あのどこか、寂しそうな瞳で。



まもなく、大石は長い廊下の突き当たりに行き着いた。
ハァ、ハァ、と上がった息遣いだけが辺りに響いた。ここまで走っても、やはりミズどころか誰の姿も見つけられなかった。
「・・・くそっ」
ここで行き止まりだ。踵を返して、また今来た道へ戻ろうとした。しかし、何かが大石の足を止めさせた。
(あれ、ここは・・・)
駆け出そうとした足を止めて。ゆっくりと、振り返る。
(この袋小路は、たしか・・・)

記憶、よみがえってくる。

『一件何の変哲もない壁だけど・・・』

そう確か、手塚とここで。


『隠し部屋』


「まさか・・・!」
大石は目を見開いた。床に膝をつき、壁を両手で叩いた。
ドンドンと音が響く。やはりこの壁だけが、他の壁に比べて明らかに薄い。
この先に、何か他の部屋があるのだ。
「ミズさん!!」
大声で呼んだ、そのとき。

「・・・おーいし?」

「・・・!」
か細い声が聞こえた。確かに、壁の向こうから。
「ミズさん、ミズさん!いるのか、そこにいるのか?!」
「・・・大石、大石なの?」
ドンドンと壁を叩くと、コンコンと小さな音が返ってくる。間違いない、壁の向こうに彼女はいるのだ。
「ミズさん、大丈夫か?一体この壁はどうなって・・・」
「・・・大石、助けて!」
「え?」
壁の向こうから、ドンドンと一生懸命叩く音がする。ミズの声は切羽詰って、涙が混じっていた。
「おれ、このままじゃまた記憶を消されちゃう・・・!」
「え・・・?」
「もういやだ、もう何も忘れたくなんかないのに!やっと、全部分かったのに。おれの本当の名前も!」
涙交じりの、彼女の声が。

汗が、ぽたりと落ちる。
大石はシャツの裾をぎゅっと握り締めた。
「ミズさん・・・いや、えい・・・」
「ねえ大石、大石は一体誰なの?!」
「・・・!」
「全部思い出したんだ。おれが誰なのか、どうしてここに住んでるのか。そして、どうして今までそれを忘れてたかも。でも、大石のことだけわからない」
「ミズさん」
「・・・教えて大石、なんで大石は俺のことを知ってたの?」

口を開こうとした、そのとき、不意にミズの様子が変わった。
「あ・・・いやだ!」
「ミズさん?!」
つかみ合って争っているような物音がする。大石は壁にぴったりと張り付いて、彼女を呼んだ。
「やめろよ、離し・・・!」

ガスッ、と。
鈍い音とともに、ミズの言葉が途切れた。

「ミ、ミズさん?ミズさん、どうしたんだ!」
大石はドンドンと壁を叩いた。しかし、壁の向こうからは何の返事も聞こえてこない。
「・・・っ、くそ!」
大石は踵を返して駆け出した。
もっとも手近な部屋に飛び込み、中から椅子を一脚引きずり出す。上等な木の椅子だったが、この際構ってはいられない。
大石は大きく両腕を振り上げると、壁に向かってその椅子を力の限り叩きつけた。

バキィッと椅子が割れる。
かわりに壁には、ぽっかりと大きな穴があいた。
「はぁっ・・・はぁっ・・・!」
木片がバラバラと散らばる。足で蹴り上げて穴を広げると、その向こうは闇だった。
しかし、確かに別の空間がある。
「やっぱり、隠し部屋か・・・!」
大石は穴をくぐった。先は闇。それでも何のためらいもなかった。


ヴーン、と機械音が耳に飛び込んでくる。
突然の変化に、大石の足がぴたりと止まった。
壁や床のあちこちから聞こえてくる、大小様々な機械の作動している音。
「ここは・・・」
コツ、と自分の足音が響いた。胸ポケットのライターで火をつけると、わずかに周囲の様子が照らし出される。
灰色に浮かび上がる空間。隠し部屋という予想を上回って、その部屋は随分と広く奥行きがあった。コポコポと、水音も混じって聞こえてくる。水槽でもあるのだろうか。

『その壁の向こうは、死んだ博士の研究室だ』

手塚の言葉が、脳裏によみがえる。
コツ、コツ、と音を立てながら、大石はライターを片手に進んでいった。

青く発光している水槽。赤や緑のランプがついている、正体不明の大型機械。それらの色が合わさって、誰もいない暗い研究室は一種異様な雰囲気に包まれていた。
「・・・ここが、博士の研究室だったのか?」
辺りを用心深く見回しながら動いていると、ドン、と。大石の背中が何かにぶつかった。
振り返るとそこには、ガラス張りの大きな水槽がある。
「あれ、何か培養してるのか・・・?」
水槽に浮かんでいるものに、ライターの火を向けて覗き込む。
大石ははっとなり、口元を押さえて後ずさった。
「・・・あっ!」
叫び出しそうになるのを、大石は自分の口を押さえて必死に堪えた。ライターを持つ手がぶるぶると震えている。

緑色の培養液の中に浮かんでいたのは、人間の腕だった。

「・・・っ!!」
戦慄が走った。背筋がゾワッとあわ立つ。
(本物だ・・・間違いなく、人の腕だ・・・)
なぜ、どうして。
ハッ、とまた大石は息を呑んだ。もう一本腕がある。今度は水槽ではなく、無造作に棚に置かれている。
おそるおそる、大石はそれに近寄った。
「あれ・・・?」
近づいてみたそれは、妙な違和感があった。パッと見は完全に本物の腕だが、さっきの水槽の中のものとは少し外見が違う。
良く出来ているが、これは。
「・・・複製か?」


カチリ。
無機質な音が、頭に突きつけられた。

ハッと冷静になった大石は、やがて軽く息を吐いて、そのままゆっくりと両手を挙げた。
「行き過ぎた好奇心は身を滅ぼす、ってヤツか?・・・手塚」
拳銃を構えた手塚が、顔色ひとつ変えずにそこに立っていた。大石は両手を挙げたまま、ゆっくりと彼のほうに振り返る。
手塚の口が、すっと開いた。
「お前に危害を加えるつもりはない」
そう言って、手塚は銃を降ろした。
「・・・そりゃ嬉しいけど、でもなぜだ?俺は明らかにヤバいものを見ちゃったんじゃないのか」
手塚の瞳が、すうっと細められた。
「お前は何者なんだ、大石」
「・・・・・・」
「菊丸英二の関係者の中に大石秀一郎という名前はなかった」
「・・・俺は、探偵だよ」
挙げていた両手をふっと下ろして、大石は手塚と正面から対峙した。
「一年前から菊丸英二の両親に依頼されて、彼女を捜索していた。そしてこの森の近辺で、行方が途切れたことを突き止めたんだ」
「・・・腕利きなんだな。警察はいまだに嗅ぎつけていないのに」
「まさかいきなり本人に出迎えてもらえるとは思っていなかったよ。・・・けれど、まだ分からない事だらけだ」

大石の目が、きつく手塚に縫いとめられる。
その目には今までにない、剣のような鋭い光がこもっていた。
「ミズさんは何なんだ、手塚」
「見ての通り、菊丸英二だ」
「けど彼女はアンドロイドだ・・・!」
バン、と、大石は後ろ手で壁を殴った。
「彼女の体が機械であることは分かってる。・・・けれど彼女は泣いたり笑ったりする心を持ってる。俺は会ったことはないけれど、きっと菊丸英二本人のように」
苦悩するように、大石の瞳が伏せられた。
それを見ても、手塚の表情には何の変化も現れない
「彼女は、全部思い出したと言っていた。どうして彼女が菊丸英二の記憶を持ってる。どうして不二博士は菊丸英二そっくりのアンドロイドなんか・・・」

「それは違う、大石」
冷たい声が、薄暗い研究室の中に響いた。
「ミズは、ただのアンドロイドではない。菊丸英二そのものなんだ」
「え・・・?」
「お前の言うように、ミズは心を持ったアンドロイドだ。博士の長年の研究成果によって、心を持たされた」

「ミズは、菊丸英二の脳の一部を移植されている」

脳の一部を、移植。

ざあっと、背筋を冷たい汗が下りてくる。ぱくぱくと口が無意味に開いた。
馬鹿な、そんなこと。あり得るはずがない。

「ば、馬鹿な!そんなこと可能なわけが・・・!」
「ミズの頭には、小さな水槽がある。そこにあれの心がある」
手塚の瞳は、恐ろしいほど空虚で、感情というものが一切感じられなかった。

「まさか・・・」
さきほど、水槽に浮かんでいた腕のことが頭をよぎった。
本物の腕そっくりに造られていた、人工の腕。

「博士がここでずっと研究していたのは、ただのアンドロイドのことではない。アンドロイドと人間の融合だ」

手塚が背後の壁を、思い切り蹴破った。
音を立てて崩れた壁の裏から、また違う空間が現れる。
「あ・・・」
室内なのに、植物が繁茂しているその空間。明るいランプが照射され、そこだけがジャングルのように、緑色の植物に覆われている。
その小さな部屋に、無数の白い十字架が突き刺さっているのを、大石は見た。
「ここは、神隠しの森の中だ」
手塚の声が、背後から響いた。
「だから博士はこの森に邸宅を構えた。迷い込んだ数多の者たちが、ここで研究の実験材料となっていった」

驚愕に打ち震える大石の、目に。
ふと目にとまったのは、一番右端の、新しい十字架。
脇に添えられたひなぎくが、そよそよと揺れている。

それはちょうど、庭園の中にあったかの博士の墓標のように。
書かれていた名前は。


EIJI KIKUMARU 20XX



ただ呆然として、大石は声も出なかった。
意識だけがどこか遠くに行ってしまった。ただひたすら、呆然と瞬きを繰り返すだけだった。

ここは、ここは―――。

『あれは、悪魔の研究だ』

ああ手塚、俺も今ならはっきりと分かるよ。

ここは、狂気の世界だ。




そのとき、音を立てて隣室の扉が開いた。
力が抜けきった大石も、反射的にその方向を見た。

隣室に、不二が立っている。
その脇で、意識のないミズが手術台の上に寝かされていた。




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