第四幕 夜が明けた。 窓の外が白み始めたのを感じ、大石はぼんやりと目をこする。鳥のさえずりなど聞こえない、静かで陰鬱な朝だった。 窓際まで歩いていって、カーテンを開く。相変わらず外の森は、昨日と同じく濃い乳白色の霧がたち込めている。 「・・・・・・」 この分では、今日もまた館から出られそうにないな。 大石はハァとため息をつくと、きびきびと身支度を始めた。 そんな大石の胸に、ふと昨夜の情景がよみがえる。 『おれだけの、おれじゃなきゃダメっていう人に会いたいな』 ボタンを留めようとしていた手が、ぴたりと止まる。 ―― 駄目だ。 私情を挟むなど、もってのほかだ。 大石は首を振って、一瞬浮かんだ考えを取り払おうとする。駄目だ、絶対に。 それでも、昨夜のミズの表情が、声が、押し寄せてくるのを止められない。 「ミズさん・・・」 胸に渦巻く思いが堰を切ってあふれ出す。大石はその場にがっくりと崩れ落ちた。 『そんな人に出会えたら、『生きてる』って意味が分かるのかな』 彼女の瞳に、作り物の眼球に映っていた本物の感情。圧倒的な孤独。 ずしりと胸に痛みが残る。 「ミズさん・・・」 辛い呟きが、大石の口から漏れる。形のない言葉は霧散して、跡形もなくその姿を消してしまうというのに。 だからといって、どうして。 どうしてこの手に残る、彼女のぬくもりを忘れることなど出来ようか。 大石は一人廊下に出た。このまま部屋にいたら、おそらく朝食を運んできてくれたミズと顔を合わせてしまう。大石はそれを危惧した。 「・・・・・・」 俺って奴は。大石は歩みを止め、クロスの壁に背を預けた。 昨夜、二人で散策した夜の庭。そして、彼女を抱きしめた、この腕。 (・・・何を考えてるんだ、俺は) 自嘲するように、大石は天を仰いで息を吐く。 自分がここに来た目的を思い出せ。大石は何度も自身に言い聞かせる。 (・・・霧が) 廊下から窓を見た。 深い森には、いまだ深い霧がたち込めている。 人どころか動物の気配すらまったく感じられない。曇った空は太陽が出ているのかどうかも分からない。 この森で幾多の人間を彷徨わせ、遭難させた禍々しき霧が。 「・・・神隠しの森、か」 自分は、この森から抜け出せるのだろうか。 不意に胸によぎった想像を、大石は打ち消すようにかぶりを振った。 そのとき。 「大石さん」 涼やかな声が、耳に届いた。 大石は慌てて辺りを見回す。 すると、廊下を少し行った先に開けた扉が見えた。 「こっちだよ、大石さん」 この声は。大石は声の主を確信し、廊下の先に向かって歩みを速める。自分をさん付けで呼ぶ人は、この館に一人しかいないのだ。 扉から一歩出る。明るい朝の光が、まぶしく大石の目を貫いた。館の棟と棟とを繋ぐ広い渡り廊下が、大石の眼前に広がる。 「おはよう、大石さん」 館の若き主人である、不二周助がそこに立っていた。 「不二さん・・・」 柵にもたれかかるようにしていたその人は、まるで一枚の絵のようにたおやかな姿で佇んでいた。吹きさらしの渡り廊下で、透けるような淡い色の髪の毛を朝の風になびかせている。 「昨夜はよく眠れましたか、大石さん」 いっそ近寄りがたいほどの清廉さで、その令嬢はワンピースの裾をふわりと揺らして大石に微笑みかける。洗練された、優雅な仕草だった。 「はい、おかげ様で。昨日はろくにご挨拶も出来ずに、失礼致しました」 大石は腰を曲げて、丁寧に頭を下げる。それを見て不二はひらひらと手を振った。 「硬いことは抜きでいいよ。硬いのは手塚だけで十分だもの」 手塚、という一言に、昨夜の情景がフラッシュバックした。 扉の隙間から見てしまった光景を思い出し、大石は慌ててぱたぱたと頭の中の情景を打ち消す。 (そういえば、この二人って恋人同士、だったんだよな・・・) ちらり、と不二に目をやると、不思議そうな顔で首を傾げられる。 「あれ、どうしたの?」 背中に嫌な汗をかきながら、顔だけは平静を取り繕って「いえ、何でも」と首を振った。 「へぇ?」 不二が蟲惑的な笑みを浮かべる。 「いえっ!すいません、気にしないで」 大石は青ざめながらぶんぶんと手を振って否定した。この人の笑みは、なぜかどうにも心臓に悪いような気がする。 「じゃあ、そういうことにしといてあげるよ」 からかわれていたらしい。 不二は楽しげに声を上げて笑うと、すっとバルコニーの向こうへ目をやった。 ちょいちょい、と下を指差している。 下を見ろということか。何事かと目をやった大石は、はっとなった。 花、花 ――。 バルコニーの下、階下の中庭は、そこは昨日の夜にミズと歩いた庭園だった。昨夜はつぼみを閉じていた花たちが、一斉に花を開いている。 大石は息を呑んだ。赤やピンク、黄色、白、水色。若草や蔓の瑞々しい黄緑。色とりどりの花々が、所狭しと咲き誇っていた。 「これは・・・」 「どう?」 隣の不二の問いに、大石はただ呆然と頷いた。 白い石造りの花壇から、ピンク色の野ばらが花をつけている。赤茶色のレンガで丸く造られた花壇からは赤いガーベラが、庭の隅ではたくさんの紫のあやめがすっくと立ち並んでいる。 女の子なら声を上げて喜ぶだろう。大石ですら思わず感嘆の息が漏れた。 規則正しくレンガが敷かれた小道が、数え切れないほどの花壇の間を伸びている。 朝もやの中で、ぼんやりと庭園の姿が浮かびあがった。咲き乱れる花々。見下ろしながら、大石は昼間の庭園はこんなにもその姿を変えるものかと驚きを隠せなかった。 手すりに両腕を置いて、不二は楽しそうに庭園を見下ろす。 「四季折々の花が絶えず咲くようにしてるんだ。こんな森の中だと、あまり季節を感じないし花を育てるくらいしか楽しみがなくて」 「すごい・・・見事な庭園ですね」 大石は掛け値なしの賛辞を送った。 「昨夜、ミズさんにも案内してもらいました。日が昇るとまた、こんなに景色が変わるものなんですね」 昨夜はまるで、月の神殿にでも迷い込んだような静謐な空気だった。 しかし、この朝もやの中一斉に花開いている様はさしずめ天上の楽園のようだ。 不二がフッとこちらを振り返る。 微弱な日の光に、色素の薄い髪が金色に透けて輝いた。 「ねぇ、大石さん。どうして花はこんなに美しいんだと思う?」 「え・・・?」 不二はじっと、階下の庭園を見つめていた。 「花の盛りを、人の最も若く美しいときに例える言葉があるけれど。花が美しいのはほんのひと時だ」 大石は不二の視線の先を追った。 蘭に似た形の白い花が、ポットの中で風に揺れているのが見えた。 「けれどね、短い、あっという間の命だからこそ花は美しいんだよ。永遠に存在するものなんてないんだから」 ざわっ、と風が二人の間を通り抜けた。 その髪の色と同じ色の不二の瞳が、まっすぐ大石に向けられる。 「あの子が好き?」 「・・・えっ」 面食らった大石に、不二はきつい視線を向けた。 「ここにあるのが生粋の花なら、あの子はいわば―― 造り花だ。恋をするには、お向きじゃない」 「―― なっ・・・!」 不二の言葉が誰のことを指しているのか、察した大石の顔にカッと朱がさす。 「早く出て行ったほうがいい。ここは――貴方みたいな人のいるべきところじゃない」 不二は、厳しい顔のままだった。大石は苦渋の色を浮かべて、声を絞り出す。 「・・・まだ、霧は晴れていません。今出て行けばまた道に迷ってしまう。霧が晴れるまでで構いません、どうかもう少しだけこちらに置いて頂けませんか」 「どうしてこの森に迷い込んだの?」 え? と大石が顔を上げる。不二は読めない表情で、じっと大石を見返していた。 「神隠しの噂を聞いて、冒険心やら自殺志願やらで自らやってくる人を何人も目にしたけどね。貴方はそんな馬鹿には見えないし」 言葉を切った不二は、改めて大石に問うた。 「あなたは一体、どういうつもりでこの森にやってきたの?」 不二と、大石。二つの瞳が対峙する。 ぴんと張り詰めた空気の中で、大石がゆっくりと口を開いた。 「俺は・・・」 「あ、ミズ」 「えっ?!」 はっと大石は振り返る。不二の視線は下を向いていた。 バルコニーの下、階下に広がる庭園の中で、ちょこちょこ動く赤毛が見える。 フリルのエプロンから覗くピンクのワンピース。頭に付けられたメイドキャップ。 「・・・ミズさん」 すいません、と大石はおざなりに頭を下げると、階下に向かって駆け出した。 慌ただしいその様子を、不二が眼を細めて見送る。 はぁ、とため息をついた彼女は、ゆっくりと背後を振り返った。 「・・・いたんだ、手塚」 桔梗の花を思わせる、凛とした立ち姿。手塚は何か言いたげに眼を細めながらも、無言で不二に向かって歩み寄った。 不二はその薔薇色の唇に魅惑的な笑みを浮かべると、手塚の腕を自分の体に回させる。 「・・・・・・」 背後から手塚に抱きしめさせながら、不二は優美に微笑んだ。その姿はさながら、忠実な騎士を従える女王のようだった。 「霧は、晴れることはない」 歌うように、不二は言葉をのせる。 その表情は先ほどとは打って変わって、厳しいものだった。 「旅人をおびき寄せ、食らうために。霧は、いつまでも晴れることはないんだよ。大石さん」 その目は、どこか空虚な光を帯びていた。 大石は息を切らせながら、階下の庭園に向かって走っていた。何故そんなに急いでいるのかは自分にも分からない。ただ、彼女に会いたかった。彼女に顔を合わせたくないがために出てきたのに、今はただ無性に彼女に会いたい。 昨夜も通った扉を開け、屋敷の中庭に位置する庭園に足を踏み入れる。 砂利の敷き詰められた地面の上、赤いレンガの道をとんとんと踏んでいく。あちこちに杯や樽の形をしたプランターが並び、そこからあふれそうなほどの花々が咲き乱れていた。 むせ返るような花の香り。その中で、大石は必死で頭を振ってミズの姿を探した。 「・・・ミズさーん!」 大声で呼ぶと、どこからかか細い声が返ってくる。 「おーいし・・・?」 広い庭で、大石は声のするほうに向かって歩みを速めた。平均よりも背の高い大石も、所狭しと咲き誇る花々に視界を奪われる。 そこは、花の洪水だった。 あふれる花々はときに息苦しささえ感じるのだと、大石は思った。 美しい花々の咲き乱れる場所。天上に楽園があるのなら、きっとこんなところなのだろう。しかし。 大石は思う。花を愛でる気持ちは理解できなくもないが、自分にこんな華やかすぎるところは向いていない。 例えば、夜にひっそりと花を咲かせるあの小さい黄色の花。彼女が元気が出るといっていた、あんな花。 自分も、あのような控えめに咲く花のほうが好きだ。 かき分けるというには、あまりに繊細な手つきで。 大石はようやく、広い庭の隅のこじんまりした空間にたどり着く。白百合が所狭しと咲きあふれるその場所は、アンティークな白いレンガが敷き詰められていた。 「ミズさん・・・」 白百合の中、彼女のはねた赤毛がくるりとこちらを向く。大きな瞳がまっすぐ大石の姿を映した。 「大石・・・」 大石ははっと目を見張った。 彼女は、手にいっぱいの白百合を抱えていた。ピンク色のワンピースの裾がふわりと揺れる。大石は呆けたように、しばらくぼんやりと彼女を見つめていた。 そう、太陽のように笑う彼女らしくなく、かといって昨夜の月下で涙を堪えるようにしていた彼女ともまた違う、悟りきったような静かな表情で。 ミズは、ただじっと大石を見返している。 「・・・ミズ、さん?」 その様子が常ならざる事に気がついた大石は、ミズに歩み寄ろうと歩を進めた。そして、その足元に黒く光る石柱があることに気付いた。 「―― っ!」 大石は息を呑む。ミズの足元のそれ。 黒曜石の石柱には、白い文字が刻み付けられていた。 「―― FUJI 20××」 これは。 ―― 墓標だ。 言葉の出ない大石を、ミズはふっと優しく見つめた。 手にいっぱい抱えた白百合を、その墓石に置く。ファサッと音がして、黒い石柱が一杯の白百合に埋め尽くされる。 「旦那様の、周助のお父様の、お墓だよ」 「不二博士、の――」 ざわっと風が吹いた。ミズの赤い髪の毛を、ピンク色のワンピースを、白百合の花びらを揺らしていく。 風は屋敷全体を駆け抜け、庭園の花々たちをざわざわと揺らしていった。 NEXT |