それは一年前程前のこと。 都会の片隅、誰の記憶にも残らない小さな事件。 一人の女子中学生が、誰にも何も告げず突然失踪した。 まだ14歳のあどけない面影を残していた、旧家である菊丸家の末娘だった少女。 名前を、英二という。 花の館 第一幕 その森は、『神隠しの森』と呼ばれていた。 森は広く、深く、誰もその奥まで行ったという者はいなかった。 付近住民、旅行者など、人知れずこの森に入った者は数多くいたのだが、どういうわけだか皆帰ってはこなかったからである。 捜索隊も消防団もついには諦め、あそこの森で人が消えたと訴えれば、それはもう諦めろと諭されるほどであった。 森にもきちんと所有者がいるにはいるのだが、実際にその所有者がどんな人間なのか確かめた者もいない。 「あの森には人外魔境のものがいる」などという噂もまことしやかに流れ、一部の物好きを除いては誰もその森に足を踏み入れる者はいなかった。 ザー・・・ ガサガサ、と草を踏みしめる。あたり一面に濃い霧が立ち、方角も何も分からない。 「参ったなぁ・・・」 その神隠しの森の奥深くで、一人の青年が途方に暮れていた。 「霧が出るとは聞いてたけど、これほどとはな・・・」 視界は数時間前から一面真っ白だった。時刻はもう夕暮れを過ぎ、日も落ちかけている。更に悪いことには、先ほどからぱらぱらと雨も降り出していた。 いくら初夏だとはいえ、このまま野宿でもすれば凍死してしまうかもしれない、と怖い想像をすれば余計に肌寒さが増した。 雨足がよりいっそう酷くなる。遠くの山で、ごろごろと雷鳴まで聞こえた。 「うわ、こりゃ大変」 青年はとりあえず雨宿りしていた木の下から離れると、駆け足で道の続くほうへと走った。 深い深い森の、そのまた奥へ。 「あれ・・・?」 それから間もなくのこと。青年の目に、小さな明かりが見えた。 「これは・・・助かったかな?」 明かりの方角を目指して歩いていく。 それは、大きな洋館だった。 身の丈よりはるかに大きい黒塗りの扉が、目の前にどんと構えている。いや、扉だけではない。屋根も、壁も、まるで外界との接触を拒むような黒塗りだ。 風に吹かれて、ざわざわと木々が揺れる。うっそうと生い茂る木々に隠されながら、その館は佇んでいた。 何となく妖しい雰囲気に、青年――大石秀一郎は一瞬たじろぐ。しかし状況的にそんなことを言っている場合ではないのもまた確かだった。 雨で濡れてしまったベストの水滴を軽く払い落とすと、唯一の手荷物であるトランクをもう濡れる心配のない軒下に置く。 青いネクタイを締めなおし、指のついていない手袋をはめた左手でその重厚な扉をノックした。 コンコン。 少しの間があって、ギギ、と扉が開かれた。 「はーい、どちらさまですか?」 ぱっと顔を出したのは、きゅるっと大きな瞳の愛らしい少女。 こんな嵐の夜の来訪者に、ドアを開けたのはヒラヒラとしたエプロンをしたメイド姿の女の子だった。 大石ははっとした。目がこのメイドに釘付けられる。 一番最初に目に入ったのは、少女の瞳だった。 なんて大きく、印象的な瞳をしているのだろうと思う。純粋な光を放つ瞳だ。元気の良さを示すかのように跳ねた赤毛もなんとも可愛らしかった。 「・・・えーと、どちらさまでしょう」 多少舌足らずな声で話しかけられ、大石ははっと我に返り居住まいをただす。 「あっ・・・すいません、実は道に迷ってしまって」 「それはお困りで・・・うわっ、びしょびしょじゃんか!」 皆まで言わせずに、元気な声が返ってくる。 「どうぞ、中へ――」 エプロンと同じく白いメイドキャップを翻して、赤毛の少女はにっこりと笑った。 一歩足を踏み入れて、大石は館の内装を目にしため息をつく。 外から見ても相当大きな屋敷だったが、内装もまたお屋敷に相応しく華やかだった。 立派なビロードの絨毯に、濡れた靴で踏み入るのが少しためらわれる。 バタン。 その音に、びくりと大石は振り返る。メイドの少女が扉を閉めたのだ。 入り口で見た時はまるで訪問者を拒むようだった扉だったが、こうして中から見るとまた違った感触を持った。 ――今度は、外へ出て行かせまいと封鎖されてしまったような。 (・・・そんな馬鹿な) 大石は軽く首を振り、きゅっと顔を正面に向けた。そう、何はともあれ森で遭難することは避けられたのだ。 ふと天井を見上げれば、大きなシャンデリアが揺れている。 (こんな森の奥に、たいした資産家なんだろうな・・・) そんな感想を持っていると、少年のように元気なメイドは猫のごとく瞬発力で駆け出そうとした。 「待ってて、すぐにタオルを持ってくるから!」 「ああ、すみませ…」 「ミズ、どうしたの?お客様?」 そのとき、大石の頭上から柔らかい声が降ってきた。 見上げると、目の前の大きな階段を一人の女性が降りてきた。 さらさらとした淡い茶髪に、同じ色の瞳。紺地に白いフリルのついたワンピース。 優しい感じの、しかし相当に美人といえる清楚な顔立ち。 「周助さま!」 ミズと呼ばれた、メイドの少女が声を上げた。 その呼ばれ方に、大石はぴんと来る。 (この館の・・・お嬢様ってところかな?) 推測した大石は一歩前に出る。 「失礼しています。僕は大石秀一郎と申します。この霧と雨で迷ってしまって、もしよろしければ天気が回復するまで置いていただけませんか」 一礼すると、周助と呼ばれた少女は柔らかい笑顔を向ける。 「ええ、構いませんよ。ボクは不二周助と申します。この辺りでは霧が出やすくて、そんな方はよくお見えになるんです。どうぞゆっくりなさって下さい」 温かい声に安心し、大石は顔の緊張を解いてもう一度頭を下げる。 「助かります」 「ミズ、大石さんを客室に案内してあげて。温かいスープと一緒にね」 「はい、ご主人様」 メイドはちょこんと頭を下げる。 “ご主人様”という言葉に大石は一瞬首を傾げるが、腕を引かれるままにメイドの後についていった。 * * * * * * 通された客室はよく掃除の行き届いた、上品なつくりの部屋だった。 「すぐにタオルと、温かいスープを持ってくるからね」 「ありがとう、お願いします」 扉を開けて、ミズと呼ばれたメイドは駆け足で去っていく。 それを横目で見送った大石は、唯一の手荷物のトランクを開けた。 中からノートパソコンを取り出すと、テーブルの上に乗せ起動させる。 ディスプレイには、一人の少女の顔写真が映し出された。 可愛らしく跳ねた赤毛に、猫のような大きな瞳。満面の笑顔で微笑んでいる、14、5歳の少女の写真。 「菊丸英二、か・・・」 ぼそり、と大石の口から小さな呟きが漏れる。 先ほどミズと呼ばれたメイドが駆け出していった扉を見つめる。 (・・・『神隠しの森』に、足を踏み入れた甲斐はあったみたいだな) 画面に映し出された写真の少女は、ミズと呼ばれたメイドと同じ顔をしていた。 NEXT |