雨の、曜日





その日の空は、どんよりと曇っていた。
本格的に梅雨入りするらしく、今にも雨が降り出しそうな灰色の空模様。

そんな曇り空の下で、ボクはジャージのまま佇んでいた。
「はあ・・・」
短くため息をつくと、隣のベンチに座る英二に聞きとがめられた。
「なに不二、どったの?」
「ううん・・・ちょっと、考え事をね」
立ち話しているボクたちの耳を、部員たちの掛け声が素通りしていく。コートを取り囲むフェンスにもたれかかって、ボクは尽きることなくぐるぐると考えを巡らせていた。


昨日の、図書室でのこと。
あれは・・・あの手塚の反応はどう考えても「拒絶」だ。

しかし、一体どうして。

「・・・青学ー、ファイオー!!」
「ファイオー!」
後輩たちの掛け声が耳に入ってきた。コートでは、レギュラー同士のミニゲームが行われている。順番待ちをしている連中の中に、手塚の姿もあった。
どうやら、次が手塚の対戦らしい。相手はタカさんだ。
タカさんも勿論、手塚の存在に疑問を投げかけるようなことはしない。こんな冗談みたいなことになっているのは、本当に自分だけみたいだ。
まるで宇宙人にでもなったみたいだ。

(・・・でも)
記憶を失ってからの数日間で、一つ分かったことがある。

『手塚国光』は青学テニス部に、必要な存在だということ。

試合の後の越前の顔には、圧倒的な実力を持つ『手塚部長』への尊敬が明らかに見て取れた。乾も、副部長の大石も、昨日の英二もそうだった。みんなが部長としての手塚に強い信頼を寄せている。

厳しくストイックで、そして他を寄せ付けない強さ。
その圧倒的な存在感。カリスマとでも言うのだろうか。
青学テニス部は、彼を中心にして成り立っている。

(・・・ボクもいつまでも、宇宙人でいるわけにはいかないな)
ボクはこれからも青学の選手として、この場所に立ち続けたい。
だから手塚国光のことも、記憶をなくしたことも、きちんと受け入れなければ。皆の話を聞くうちにそう思った。


手塚のことを知りたいと思った。
彼は、最初に感じていたような、得体の知れないものでも恐ろしいものでもない。同級生で、チームメイトなんだから。
そう思って、勇気を出して彼に話しかけたのに。
昨日の図書室で。

重いため息が出る。
(やっぱり、あれは拒絶されたんだよね・・・)
昨日振り払われた右手を見ながら、またため息をついた。


そして、新たに困ったことが起きていた。

手塚の様子が、今朝から妙だ。
朝、部室で会ったときもそう。
ボクと目を合わせない。

昨日のアレから、手塚は明らかにボクを避けてる。

(どうしろって言うんだよ・・・)
ああ、と頭を抱えたくなった。
手塚は何を考えてるんだろう?
ボクのことをどう思っているんだろうか?

疎ましい?
自分のことを忘れられて、腹立たしい?
金輪際、近寄られたくもない?
それとも、ボクの記憶喪失なんか、彼にはどうでもいいのかな?
彼の考えがまったく見えない。

(手塚は、ボクにどうして欲しいんだろう・・・)

実は、記憶をなくしたといっても、ボクの生活にそれほど支障はなかった。
忘れたのはたった一人だけ。皆に知れたらさすがに大騒ぎになるだろうけど、手塚にも口止めしてある。
なるべく彼に関わらないようにすれば、誰かに怪しまれることもないだろうし、このまま生活しても何の問題も起こらないだろう。

・・・でも。

『お前が自分で望んで、忘れたんじゃないのか』

手塚が、あんなことを言うから。
(どうしたって気になるじゃないか)
自分で望んで記憶をなくすなんて出来るわけないだろ。
彼は前にも妙なことを言ってた。

『お前が思い出して欲しくないのなら、無理に思い出す必要はない』

まるで、ボクに“彼のことを忘れようとする理由があった”ように。


そのとき初めて、ふと考えた。

(・・・そうだ、そもそもどうして)

どうしてボクは、手塚のことだけ忘れてしまったんだろうか?








ゴロゴロゴロ、と遠くで雷が鳴った。
天気はいっそう悪くなってる。

「・・・不二、ふーじ」
「えっ?」
振り向くと、そこにはドリンクを持った英二の姿があった。
そうだ、今は休憩中だった。隣に英二がいたことを忘れてた。
「どーしたんだよ、そんなにボーっとしちゃって」
「ああ・・・ごめん。何でもないよ」
そう言って笑ってみせると、英二はそっぽを向いた。
「英二?」
「・・・また、そうやって隠す」
「英二」
「手塚と仲直りしたって、嘘だろ。ほんとは何にも解決してないけど、オレたちを安心させようと思って、二人で黙ってるんだろ」

返す言葉を持たなかった。
英二の横顔が遠い。

「・・・ごめん」
話せなくて。心配してくれているのに。
「いーよ。何でも話して、なんて言わないし」
「英二」
「手塚もヘンだね。どうしちゃったんだか」
「え?」
「今朝の手塚、不二のこと避けてたじゃん」
驚いた。
失礼ながら英二が、ここまで鋭いとは思わなくて。
手塚とボクさえ黙っていれば記憶喪失のことはバレない、生活に支障はないだなんて、ムシの良い想像だったのかもしれない。
心配してくれる人がいることはとても有難い。それでも皆に今の状況をどう伝えていいのか、ボクには分からない。

英二はあーあ、と声を出してその場に座り込んだ。
「お前ら、どうしてそんなにぎこちなくなってんの?」
「・・・・・・」
「一緒に並んで立ってると、オレたちでも近寄れないくらいだったのに」

また、そんなこと。乾の言葉が頭に浮かんだ。

『お前と手塚の間には入り込めない何かがあると思ってたんだ』
『大石も言っていたぞ、テニスのことでは、手塚と渡り合えるのは不二ぐらいだと』

そんなの。
そんなの分からないよ。
覚えてないんだから。

昔のボクと彼が、皆の目にはそんなふうに映っていたなんて。



背中を預けていたフェンスの周辺が、急にざわざわと騒がしくなり始めた。球拾いをしていた一年生や自主トレ中の二年生までが、なぜだかボクたちの背後に集まってくる。
「・・・なんだろ?」
「不二、あれ」
英二の指差す先を見て、ボクはあっと口を開けた。
目の前のコートで、これからゲームが行われる。
対戦はタカさんと―― 手塚。
ボクたちのいたベンチは、このミニゲームの観戦には特等席だったのだ。
「手塚トゥサーブ!」
耳に飛びこんできたコールに、ハッと顔を上げた。

鋭いインパクト音と共に、手塚のサーブがコートに突き刺さる。

ボクは目を見開いて、手塚のプレイに見入っていた。
スイングが風を切る音。激しいインパクト音。
ハードヒッターのタカさんの打球を、何なく返してる。相当の重さがあるだろうに、手塚のリターンはまるでそれを感じさせないばかりか、力強さを増してるようだ。
無駄のない動き。正確なショット。
パワーとコントロールの絶妙なバランス。
どんな局面にも動じない冷静さ。

非の打ち所がない。完璧だ。

見ているだけで、背筋がゾクゾクする。
きっとテニスプレイヤーなら、誰もが見とれずにはいられない。

これがミニゲームではなく、真に勝敗をかけた試合だったなら、どれだけ見ごたえがあっただろう。


背後に集まっていた部員たちが、大石に注意されて散り散りになっていく。けれどボールの音がするたびに、いけないと思ってもコートへ目が吸い寄せられてしまう。
ここまで目が惹きつけられてしまうのは手塚だけだ。レギュラーたちの中でも、手塚は際立っていた。
そこだけが輝いている、特別な空間。


なんて綺麗な、至高のテニス。


腕に自信のある者なら誰もがきっと、今コートで彼と向き合う相手がなぜ自分ではないのかと歯噛みするに違いない。それほど圧倒的な存在感だった。

どくん、と心臓が高鳴った。
こんな選手には、今まで会ったことがない。




ボクも英二も、無言だった。
食い入るようにずっと手塚を見ている。

こうしてテニスをしている手塚を見ていると、昨日のことが嘘のように思える。壁を殴りつけた手塚も、激情を顕わにした手塚も。
こうしてラケットを振る彼を見ていると、これが彼のすべてだと思えてしまう。

スパン!と気持ちのいい音がする。
ボクですら滅多に聞けないような、ボールがスイートスポットに当たったこの音。手塚のラケットからは、それがいともたやすく生み出される。
現実も時間も忘れてしまいそうだ。


まるで神様に作られたような手塚のテニス。


ただ、見ているだけで。
惹かれずにはいられなかった。




今日、この後に降りかかってくる出来事も知らずに。
ボクはずっと手塚のゲームに見入っていた。






頭上で激しい雷が鳴り始めた。
ザーッと雨が降ってくる。

試合は中断され、ボクは現実に引き戻された。

「早く屋内へ入れ!一年は急いでネットを片付けろ!」
大石の号令が遠くに響いていた。





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