衝撃の木曜日 それはどこにでもある、鍵付きの引き出し。 学習机の定番で、一番上の引き出しには鍵が付いている。それはボクの机も同様。 一応ボクだって中学生ともなれば、部屋に掃除に来る母さんにも見られたくないものはある。その鍵付きの引き出しだって多少の活用も・・・まあ、していたのだけど。 その日、その引き出しを開けたのは本当にたまたまだった。 そしてボクは、そこに入っていたものを見て、たっぷり一分間は固まってしまった。 (な、な、なにこれ・・・!?) 周助、ごはんよー、と呼ぶ、階下の姉さんの声も耳に入らなかった。 Hard or Gentle? 六月五日、木曜日 朝っぱらから“そんなもの”を見つけたボクは、動揺の余りそれを学校にまで持ってきてしまった。“それ”自体はそこまで異常なものではない・・・別に人に見られたとしても困る代物ではない。 問題なのは、これが鍵付きの引き出しに入っていたことだ。しかも、ボク自身にはまったく覚えがない。 それは、ここ数日のボクの“ある一名のみの記憶喪失疑惑”に絡んでくるものだったのだ。 はあ、と静かにため息をついていると、突然後ろからひょいっと顔が伸びてきた。 「やっほー、不二」 「うわっ」 同じクラスの英二だった。 「あれ、不二って今日から半袖なの?いいなー、俺んちなんか母ちゃんが洗濯し忘れたとかいって明日からだよ。マジ暑いってば」 合服の袖を肘までまくり上げた英二が、とん、と軽い身のこなしで前の席に腰掛けた。 「なに見てるの・・・ってそれ、写真?」 まあ、“それ”自体は人目をはばかるような一品ではないし。 「・・・うん」 ためらいなく、英二の前に差し出した。 手に取った英二が、大きな目を見開かせてまじまじと見つめている。 「これ・・・もしかして、手塚?」 「・・・多分ね」 「多分って?不二が撮った写真じゃないの?」 「いや・・・多分そうなんだけど、その写真のこと覚えてなくて。昨日偶然出てきたから、考えてたんだ」 覚えていないのは、写真だけじゃない。 “手塚国光”自体を、覚えていないんだ。 思い返せば、月曜日の朝。 いつもどおりのはずの練習でボクが目にしたのは、まったく身も知らない男の姿だった。 手塚国光。担がれているわけでもなく、どうやら本当にその男は実在していて、しかもこれまで当然のように共に中学生活を送っていたらしい。(肩を並べて写っている合宿の写真にボクがどれだけ驚愕したことか) ある日突然現れた、見ず知らずの同級生かつチームメイト。 しかし、異変は手塚国光の存在ではなくボク自身のほうにあったかもしれないのだ。 部分的な記憶喪失。そんな、ボク自身今でも半信半疑である異変。 手塚以外の誰にも知られないまま、異変が起こって今日で四日目だった。 「ねえ、英二。その写真、見たことある?」 「いや、初めて見る。不二がよく俺たちの写真を撮ってアルバムに入れて見せてくれるけど、これは見たことないと思う」 だろうね。 なにせ――鍵付きの引き出しに入ってたくらいだから。 「これ、手塚だよね」 「・・・やっぱり、そうだよね」 「珍しいの、不二が自分の写真忘れるなんて。でも手塚だよ、顔見えないし後姿だけど、分かるよ。存在感で」 存在感。それは、言いえて妙だった。 この写真から――実質、ボク自身も初めて見るこの写真から伝わってくるのは、手塚という存在だ。 ラケットを持った後姿。なんてことはない、試合前のワンシーン。でもこれは明らかに、手塚がメインだ。手塚を撮りたくて、撮った写真だ。 (それをなんで鍵つきの引き出しに入れてたんだよ、昔のボクは・・・) 手塚に片思いでもしてたのか。あの堅物そうな顔が浮かんだ。 それで記憶を失った?――寒すぎる。笑い話にもならない。 でも・・・。 ボクは改めて、その写真をまじまじと見ていた。 そこには、手塚しか写っていない。後は遠くに見える観衆だけ。 青学のウェアを着た手塚が、ラケットを持ち、今まさにコートに足を踏み入れようとしている場面だ。日の光が手塚を正面から照らし、ずっと影を伸ばして。 逆光に陰った背中からは、風格という言葉が感じられた。“栄光への一歩”とでも言おうか。 部活記録の写真にしては、かなり私情が入っている気がする。顔を見せずに、その背中から語られるものを撮りたかったのだろうけど、逆光になった光加減までこだわりがあるというか。 いや、むしろ。 これを逃しては二度とないと、勢いのままシャッターを切ったようにも見える。 「すごい・・・なんか、語らせる一枚だね。さすが不二」 英二まで、そんな感想を述べる。やっぱり第三者の目から見ても、異色の一枚だったんだろうか。 「ねえ英二。これ、いつ撮った写真だと思う?」 「手塚半袖だから・・・こないだの水ノ淵中でもなさそうだよね、あのとき不二カメラ持ってなかったし。結構ギャラリーいるから、やっぱり去年の夏じゃない?いつかの大会の写真だよ、たぶん」 「そっか・・・」 不思議な写真だった。 自分で撮っておきながら、記憶のない写真。 そこに写っている、記憶のない人物。 けれど、どうしてだろう。胸の辺りにざわざわした感触がある。 この写真を見ていると・・・なんだろう。焦燥感のような、とにかく落ち着かなくてたまらなくなるのだ。 (もしかして、デジャブってやつ、かな・・・?) 記憶喪失。 今はまだ、半信半疑なのだけど。 ボクの中にはやはり手塚国光に関する記憶があったのだろうか。それはこれから、再び目覚めることはあるのだろうか。 手塚国光。 まだ彼について分かっていることはほとんどない。 部長であること。シングルス1であること。ボクを戦慄させ、そして越前を負かすほどのテニスの腕前。 そして・・・。 『不二、お前は』 『俺に関することだけを、忘れている』 ボクの身に起こった異変の秘密の、唯一の共有者であること。 ボクは本当に、彼とチームメイトとして共に過ごしていたのだろうか。 あの中学生離れした雰囲気。声。そして、目。 ありすぎる存在感。 ぞくり、と背筋があわ立った。あの男と二年以上も一緒にいて、自分が平気でいたなんて想像もつかない。 ちらり、と目を向けると、英二はぷらぷらと写真を手の中でもてあそんでいた。 「ね、英二」 「どったの、不二?」 「手塚って・・・最近どんな感じ?」 とりあえず、手塚のことを聞きたかった。まさか記憶がないなんて悟られないような問い方をしたつもりだけど、やっぱり不自然だっただろうか。英二は鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしている。 「・・・ど、どんなって・・・まさか不二、仲直りしたとかいって、まだ手塚とギクシャクしてる?」 「ううん、それは全然ないんだけど」 ボクが記憶がなくした状態になって起こったすったもんだは、すべてケンカしていたという言い訳の元に封じ込めてある。大石曰く、ボクらはケンカするような仲ではなかったらしいんだけど。 (じゃあ、どういう仲だったんだか) みんなにはボクの異変は一切言うなと手塚に口止めしたから、表向きのボクたちは普通のチームメイトとして今日も練習をしてきた。ただ、ボロを出さないようにしているせいか手塚のことは良く分からずじまいだ。 「そうだねぇ・・・」 頬杖をついて視線を遠くにやりながら、英二は考え込んでいた。 「俺とか大石にしてみたらさ、手塚とか不二とか乾は、やっぱりちょっと別世界だったんだよね」 「えっ?」 「ほら、お前らって小学校のときからテニスやってて、入学したときからバカ強かったじゃん。俺テニス始めたの中学からだし、大石とダブルス組んだからシングルスのお前らとは畑が違うしさ。特に手塚はシングルス独走、実力飛びぬけで、俺口開けてぽかんと見てるだけだったもん」 「じゃあ、あまりよく知らない?」 「なんでそうなんの、これでも俺も青学レギュラーでっす。手塚にはいっつも怒られてるけど」 「ぷっ」 「笑うなって!でもさ、やっぱり手塚って・・・すごい、よね」 英二は、少しだけ照れくさそうだった。 「すごい?」 「うん。あいつのテニスはすごいよ、やっぱ。格が違う」 「ふうん・・・」 「あ、なんだよその顔!不二は思わないの?」 圧倒的な、強さ。 英二の顔には、自分たちの部長に対する誇らしさがにじんでいた。ダブルス専門の英二だから素直に出てきた言葉で、シングルスの乾や越前辺りに聞いたらまた違った答えが返ってきたかもしれない。 けれどその誇らしさ、畏怖や尊敬は、何となく部内すべてで共有されている気もした。 + + 去年の夏の大会。 試合に向かう、その後姿を写したもの。 ボクは移動教室のために、ひとり渡り廊下を歩いていた。英二は忘れ物をした、大石に借りに行く、と騒いでいたので置いてきた。ボクの荷物の中には、あの写真がある。 (・・・気になるなあ) 不思議な写真。 見ていると、どうも胸の辺りがざわざわして落ち着かなくなる。 怖いくらいの何か・・・鬼気迫るものがあるというか。 歓声と拍手、畏怖と尊敬の視線。 そんなものに迎えられながら、一歩一歩コートへと進んでいく手塚。これから、試合が始まる。その瞬間の背中を写した写真。 ひょっとして、ずっと見ていたら何か思い出せるだろうか。 彼に、手塚に関することが、何か。 渡り廊下の途中で、ボクは足を止めて手すりにもたれかかった。 その時、階下の中庭から、人の声が聞えてきた。 思わず覗き込むと、そこには二人の男女の姿がある。 (・・・これは、告白かな) ボクにも経験がある。場所柄三年しか通らないようなところだし、木陰も多いからよく呼び出しに利用される場所だ。 覗いたら悪いかな、と姿勢を戻そうとして、ボクはぴたりと動きを止めた。 そこにいたのは、手塚だったのだ。 |