疑問膨らむ水曜日 「はい、電話代わりました・・・・って、なんだよ兄貴かよ。どうしたんだよ、急に寮まで電話してくるなんて?」 「裕太・・・ちょっと聞きたいことがあるんだけど、いいかな」 「なんだよ?」 「手塚国光、って人のこと、知ってる・・・?」 「・・・はあ?何言ってんだよ、俺が知らないわけないだろ。兄貴だって何度もうちで手塚さんのこと話してたじゃねーか」 「そう、ありがとう・・・」 ブツリ。 「・・・おいっ?兄貴、兄貴?!」 Hard or Gentle? 「不二ー、おっはよーっ!」 朝の練習。 昨日、少しだけ揉めてしまった英二は、いつもと同じように笑顔でボクのところにやってきた。 練習前の、着替えをする部員たちでにぎわう部室。一足先に着替え終わっていたボクはベンチに座っていて、今来たばかりの英二は制服のまま、ストンと隣に腰掛けた。 「おはよう、英二」 英二の顔が、少しだけ心配そうに曇っていた。 ―― ボクは手塚を知らない。 あんな物言いをして、さぞかし心配をかけただろう。 友人に申し訳ない気持ちで一杯になる。そして、これから嘘を言ってしまうことにも。 「昨日はごめんね?・・・ああ、おとといもかな。手塚のことで、変なこと言って」 英二の顔が、傍目にも明らかなほどほっとした。 「いーのいーの、気にすんなよ。良かった、ちゃんと手塚と仲直りしたんだ?」 「・・・うん」 ―― ボクは手塚を知らない。 ボクがああ言ったことを、英二はまだ、ボクと彼が喧嘩したからだと思ってる。英二だけでなく、他の誰もが二日間のボクの言動に対してそう思っているだろう。 けれどボクは、その勘違いをあえてたださないことにした。 『お前は、俺のことだけを忘れている』 昨日の手塚の言葉が、わだかまってる。胸の中で泥のように沈殿して。 本人から告げられたその言葉を、真実かどうか確かめる術はボクにはない。 だから、それが本当に真実かどうか自分で確証が持てるまでは。自分の陥っている状況は誰にも告げずに、自分の胸にしまっておくことにした。 けれど、ボクが自分の記憶を信じることを、もし放棄してしまえば。 手塚の言ったことが正しいとしか、思えない現状がここにあるのだ。 ボク以外のみんなが、手塚国光を知っている。 そしてみんなが、ボクもまた彼を知っていた、と言うのだから。 「あれ〜不二、何見てんの?」 一つ心配事が減ったからだろうか、英二は気楽な調子でボクのほうに顔を傾けてきた。英二の視線が、ボクの膝に広げられたものに注がれる。 「ああ、これはアルバムだよ」 「アルバム!?」 見して見して、と興味津々の顔で、英二が覗き込んでくる。はい、とその手にアルバムを手渡した。 「うわあ、ほんとだ!これ、去年とおととしの写真じゃん!」 英二の大声に、なんだなんだとみんなが顔を寄せ合ってきた。 「あ、俺が写ってる!」 「これ、桃と海堂じゃん!うわ目つきわり〜っ」 「エージ先輩こそ、こっち半目になってるじゃないっすか!」 「なんだなんだ?みんな集まってどうしたんだ?」 「あ、おーいし!」 大石はボクと目が合って、ほんの一瞬だけ動きを止めた。 「おはよう、大石」 「あ、ああ・・・おはよう不二」 気遣うような目線に、ボクは思わず苦笑してしまった。大石もまた、ボクと手塚の間に何かあったのかと気を揉んでくれていたのだろう。 彼らにとって、ボクとあの手塚は3年間付き合ってきたチームメイトなのだ。そしてボクは、また嘘を重ねなければならなかった。 「大石、ボクはもう大丈夫だから」 「えっ?!・・・じゃあ、手塚と仲直りしたのか?」 大石も、英二と同じことを言う。 「うん、心配かけてごめんね」 「ああ、そうか・・・」 英二よりもあからさまに、大石はホッとした顔をした。 「いや、良かったな。お前らが喧嘩なんて、珍しいから正直俺も驚いたよ」 「・・・そうなんだ」 にこにこしている大石に、ボクはなんとも複雑な気分で頷いた。 珍しいって・・・そう言われても・・・。 ボクからすれば月曜が初対面なんだけど。 勿論大石がそんなことに気付くわけもなく、飛びついてじゃれつく英二をいなしている。すると、アルバムの存在に大石も気が付いた。 「あれ、英二。このアルバムどうしたんだ?」 「不二が持ってきてくれたんだよー。見ろよ、俺たちが写ってるのが何枚もあるから!」 大石も輪の中に入って、また回りにどやどやと人が集まり始めた。アルバムはあちこちに回されて、くるくるとページがめくられていく。 英二があっと声を上げた。 「あ、これ大石と手塚が写ってる。去年のやつじゃん」 その何気ない声に、一人輪から外れていたボクはどきりとした。 ・・・手塚。 「ああ、本当だな」 懐かしそうに、大石が眼を細めた。 「手塚と俺が、それぞれ部長と副部長に任命されたときの写真だな。懐かしいな、俺と手塚が並んで写ってる」 笑いながら、大石はこちらに振り返った。 「もしかして、このアルバムに貼ってある写真は全部不二が撮ってくれたのか?」 「・・・うん、そうだよ」 「不二は写真が趣味だもんね」 「いや、うまいもんだよ。そういえば時々カメラ持って来てたもんな」 英二たちが無邪気に笑う中、ボクの胸中は複雑だった。 そうだ。このアルバムは、全部ボクが個人的に撮りだめたものを集めてある。 趣味のカメラで撮ったコレクションのようなものだ。 それなのに、あのアルバムの中には、どういうわけか「手塚国光」がしっかりと写っているのだ。 今のボクは、彼なんて知らないのに。 (・・・こうまで物的証拠があるんじゃなあ・・・) さすがのボクも、記憶喪失という、昨日の彼の言葉を受け入れたくなってしまう。 (うーん・・・) 心の中でため息をついている、そんなときだった。 部室のドアが、勢いよく開けられた。 「あ・・・」 思わず出た声に、英二たちが何事かと振り返った。その視線の先の、入り口には。 レギュラージャージに身を包んだ、手塚国光が立っている。 「いつまで遊んでいるつもりだ、集合時間はとっくに過ぎているぞ!」 「ぶ、部長!」 「全員今すぐコートへ出ろ、練習を開始する!」 「は、はいぃっ!」 張りのある声が響き渡ったかと思えば、部員たちはみんな我先へと扉に向かった。手塚の横をすり抜けて、英二も大石もバタバタとコートに走っていく。 (・・・・・・) ぽかんとするボクの手には、いつの間にかアルバムが返されていた。 「あ・・・」 気がついたら、部室にはもう誰もいなくなっていて。 手塚だけが一人、入り口に立ってボクを見ていた。 「あ、あの・・・」 じいっと、手塚の目がこちらに注がれている。居心地が悪いような、少しくすぐったいような、自分でもよく分からない気分にボクは戸惑った。 「・・・具合は」 「え・・・っ」 「昨日は、帰ってしまってすまなかった。体の具合はもう大丈夫か」 話しかけられる予想はしてなくて、ボクはすぐに言葉を返すことが出来なかった。手塚のすぐ後ろの入り口から光が入り込んできて、それが手塚の背中から漏れるようにボクの足元まで伸びている。 その場に立ったまま、手塚はボクの返事をじっと待っているようだった。 考える間もなく、条件反射のように口は動いていた。 「・・・ありがとう。大丈夫、ただの貧血で、その・・・ちょっと前の日にほとんど寝てなかったから」 「寝ていなかった?」 一歩、手塚がこちらに近づいてきた。 「どうかしたのか?」 そりゃ、部活にいきなり知らない人が混じってたら驚くだろ。 さすがにそこまでは口に出きなくて、顔だけは平然としたまま言葉を探す。 「いや、そのボクは・・・」 「なんだ」 また手塚が、一歩ボクに近づいてきた。 (なんでいちいち詰め寄って来るんだよキミは・・・!) 本人にそのつもりはないんだろうけど、威圧されてる気分だ。 「だって、ボクは・・・」 「・・・・・・」 「キミの言うところの、その・・・記憶喪失、かもしれないから」 かもしれない、といったのはささやかな矜持だ。 本当は、かもしれないではなく「おそらく、間違いない」。 アルバムの写真は、昨日家で隅から隅まで見た。 あの、大石と彼が部長と副部長に就任したときの写真だって、たしかに撮った記憶がある。 『ほら、笑って笑って』 『・・・・・・』 カメラを向けるボクに、大石は照れたようにかしこまっていて。その周りで英二や桃たちがはやしたてながら見物していた。 『これからよろしくね。・・・部長、それに大石副部長』 そう言った記憶は、はっきりと残っている。 たしかにあのとき、ボクは新部長と副部長の写真を撮った。 (けど・・・) 顔を上げて、目の前の人物を見た。 (手塚のことは、覚えていない・・・) 「キミのこと・・・やっぱり、分からないんだ」 そう言ったとき、目の前の手塚が、少しだけ顔をしかめたような気がした。 「キミは思い出さなくていいって言ってたけど、やっぱり気になるから・・・・でもこの写真を見ても、やっぱり分からなかった」 手塚は、なにも言わない。 ただ、息が詰まるような沈黙だけが重く転がっているだけだ。 「・・・・・・」 「手塚・・・」 ボクの口から出る自分の名前に、どう思っているのか。手塚はそのまま、くるりと踵を返した。 「・・・もう体調が悪くないなら、今日の練習で特別扱いはしないぞ」 「・・・・・・」 「すぐにコートに出ろ。すでに練習は始まっている」 そのまま手塚は背中を向けて、すたすたと扉に向かって歩いていった。 「あの・・・!」 思わずその背中に声をかけてしまって、ボクははっと我に返った。 手塚が振り返って、何事かと目で問うている。 言うべき言葉なんかないのに。 なんで、声をかけてしまったんだろう。 ただ、彼の背中を見たとき。 青学の文字が印字された、その背中を見たとき、なんだか不思議な気持ちになって・・・ 「あの・・・」 けれど、出てきた言葉はそれとは何の関係もないことだった。 「みんなには黙っていて欲しいんだ、ボクのことは」 怪訝そうに、手塚は眉根を寄せる。 「ボクがキミのことを覚えてないということを、みんなには言わないで。その、ボクはキミのことを知らないからひょっとしたら何か、みんなから見たらおかしなことをしてしまうかもしれないけど。それでもみんなには」 黙っていて欲しい。 そう言うと、手塚はゆっくりと背中を向けた。 そのまま、彼は外へと出て行ってしまう。賑やかなコートに消えていった彼の背中はすぐに目で追えなくなってしまった。 「分かった」という答えだと、そう受け取っていいんだろうか。 「・・・・・・」 ふう、とため息をついて、ボクはまたベンチに座り込んだ。 手に持っていたずっしりと重いアルバムは、そのまま脇においてしまう。 なんだろう。何も言葉が思いつかない。 部活に出ようと思うのだけど、なんだか腰が上がらなかった。 誰もいないのをいいことに、そのままボク自身もぱたんとベンチに倒れこんでしまう。ちょうど、うたた寝をするように両腕を枕にして。 「あーあ・・・」 意味を成さない声が出て、静かな部室の中に溶けていった。 それから、どれだけたっただろう。 急に外から、正確にはコートから、ワッと歓声が上がった。 さすがのボクも飛び起きて、コートを取り囲むフェンスに走り寄った。急に明るい外がまぶしい。 みんな、興奮した顔でコートを注目している。 「なに、どうしたの?」 隣にいた英二が、勢いづいて言った。 「どこ行ってたんだよ不二。すごいよ、おチビと手塚が試合してんの!」 |